懺悔の章 (2)中  夢か幻か現実か

 高野楽器店で仕事を始めてから、数日経ったある日のことである。

 今日は朝から、コンサート用のグランドピアノのメンテナンスが予定されている。
 華音は高野の運転する車の助手席に同乗して、芹沢交響楽団本拠地ホールへとやってきた。
 高野の車の後部座席のシートはすべて倒されており、ピアノの調律で使用する道具や機材が所狭しと並べられている。
 普段は自堕落な高野だが、ピアノの調律に関してだけは、演奏同様の繊細さを発揮できるらしい。不思議なものである。

 まだ太陽が昇りきらない午前中のうちから芹響の本拠地ホールへやってくるのは、華音にとって数年振りのことだった。
 演奏会のある週末の夜には観客としてよく訪れているが、時間帯が違うだけで目に入ってくる風景がまるで違う。
 新鮮だ。同時に、とても懐かしくも感じる。

 華音は車から降りて深呼吸をした。もうすぐ四月、その温んだ空気に土の香りが交じり、春の訪れを感じさせる。

 ――なるべく、祥ちゃんの邪魔にならないようにしないとな。

 催事のない休館日は、基本的に正面玄関は施錠されている。
 事務室棟側の通用口と、楽屋棟側の関係者入り口は、事務職員や出入り業者、自主練習する楽団員たちのために、朝七時から夜二十二時までは、通れるようになっていた。

「俺、富士川ちゃんと打ち合わせしてくるよ。ノン君は適当にしてて」
「はーい……」
 勝手知ったる他人の家――このホールの中のことはもう、隅々まで知っている。

 ――誰か知ってる人、いないかな?

 華音は自主練習で訪れている楽団員を探してみようと、小リハーサル室が並ぶエリアに足を向けた。
 しかし、そこへたどり着くまでもなく、事務室横の休憩スペースのベンチでくつろいでいる、よく見知った人間と遭遇することができた。

 この場所で、練習に飽きて羽を伸ばしている人物といえば、やはりこの男――。

 安西延彦青年である。
 華音が高校生でアルバイトしていた時は、彼はオーディションで入団したばかりで、歳も五歳ほどしか離れておらず、気安く話せる友人のような関係だった。
 もちろん、華音が楽団と距離を置いているときも、演奏会を聴きに行くたびにマメに話しかけてくるため、距離感は昔と変わらぬままだ。
「安西さん、お久しぶりです!」
「あ、華音サーン……」
 安西青年は、ベンチに腰掛けぐったりと背後の壁に背を預けたまま、恨めしそうな眼差しを華音に向けてくる。
「どうしたんですか? ずいぶんとやつれてません?」
「鬼監督のおかげで、俺たちどんだけ働かされてると思ってる? レパートリー豊富なベテランさんたちだって大変そうにしてるのに、俺みたいなペーペーはもう、休み返上で自主練の嵐だよ」
 その悲壮感漂よう安西青年の訴えに、華音は思わず同情してしまう。
「ああ……ひょっとして、録音のプロジェクト?」
 安西青年は力なく頷いた。
 内部事情にも通じていて、程よく楽団と距離のある華音には何かと言いやすいのか、安西青年はここぞとばかりに愚痴りまくる。
「これまで交響曲だけでもブルックナー全曲、ベートーベン全曲、シューマンにブラームス、今年は集中的にマーラー録ってるだろ? 普段の演奏会のプログラムの他にだよ? もう鬼だよ鬼。しかも、来年からは録音だけでなく映像化のプロジェクトになるらしいしさ。オペラに本格的に手を出すなんて、チャレンジャーもいいとこだよホント」
「あ、なんか赤城さんがそんなこと言ってた」
 こういうときは、とにかく聞き役に徹するのが最善策だ。
 言いたいことを邪魔しない程度に、華音は合いの手を入れていく。
 安西青年は続けた。
「さすがにオペラじゃ月イチとはいかないだろうけど、最終的に『指輪』をやる計画らしいから」
「『指輪』? もしかして、ワーグナーのあれ?」
「そう。そのために、新たな歌劇場を建設する話まで出てる」
「そうなんだ? へー、初めて聞いた、そんな話」

 安西青年の言う『指輪』とは、楽劇四部作「ニーベルングの指輪」というワーグナーの超大作である。
 さらにそのための新たな歌劇場建設――オーナーと音楽監督がまだまだ若い年齢だからこそ、そんな突飛な話も出てくるのだろうが、華音にしてみれば雲上の絵空事でしかない。

 音楽監督の富士川と一緒に暮らしていても、ときどき定期演奏会の演目が話題に上る程度で、大きなプロジェクトの話は家ではいっさい口にしない。
 華音が得ている情報は、オーナーの赤城の元を訪れたときに聞かされる程度のものだ。
 ただ、その赤城も、クラシック音楽のことになると素人に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないため、「最終目標はオペラ」という赤城の言葉が、まさかワーグナーだとは思いもしていなかったのである。

「そりゃあさ、そういうことも積極的にやることが、運営上必要だっていうのは分かるけど……鬼監督のお陰で、今の芹響は相当なハイレベルだよ。たぶん、どんな曲でもすぐに演奏できると思う」
 そう言って自虐的に力なく笑ってみせる安西青年は、なんだかんだで今の状況を楽しんでいるようだ。
 その様子を見て、華音も思わずつられて笑ってしまう。
「量をこなすことで質を上げるっていう感じなんだと思う。祥ちゃんってそんな人だから」
「そう。鷹山監督とはさ、まるで違うんだよね」

 瞬間。
 心臓に、さくりと刃が突き刺さった。

 痛い。

 本当に心臓が――痛い。
 息が苦しい。
 何故だろう。分からない。

 華音の様子の変化を見て、安西青年は不思議そうに目を瞬かせた。
「どうしたの、華音サン?」
「いや……なんかね、すごく久しぶりに……その『名前』を聞いた気がして」
 嘘ではなかった。
 誰一人としてその名前を口にすることもなければ、華音も心の内でさえ彼の名を呼ぶことはなかった。
 動悸が止まらない。
 ふと、呼吸をするのを忘れていることに気がつき、あわてて無理矢理、何度も呼吸を繰り返す。

 華音を横目に、安西青年はこれ見よがしにため息をついた。彼なりに、いろいろと思うところがあるらしい。
「なんかさ、ものすごく違和感あるの、俺だけなのかな」
「違和感?」
「前から芹響にいる人たちはさー、何事もなかったかのように、富士川監督についてってるわけじゃん。俺からしてみたら、オーディションで入団したときに鷹山監督で、華音サンがアシスタントで……っていうのが当たり前だったからさ」
 そう。確かにそんな時代があった。
 安西青年と華音の二人を取り巻く風景が、一瞬にして巻き戻っていく。
「祥ちゃんには……違和感ある?」
「いや、富士川監督が違和感なんじゃなくてさ、まるで鷹山監督がいなかったかのような、そんな扱いになっている感じが、ひどく違和感」
 安西青年は迷いなく言い切った。
 その言葉に耳を傾けている華音の心臓の高鳴りは、すでに最高潮に達していた。
「富士川監督に気を遣ってるのかもしれないけど、誰もその名前を口に出す人もいないし、鷹山監督時代の演奏会の話をするのもタブーみたいになってるし」
「わたし的には、昔に戻っただけ、って感じだから。おじいちゃんが生きていたときは、こんな感じだったし。鷹山さん……が、いた頃が普通じゃなかったんだよ、きっと」

 ものすごく久し振りに、彼の名を口にした。
 何故だろう。
 安西青年の前だとそれが許される気がする。

「面白かったよね、鷹山監督。芹沢さんはどこいった、芹沢さん頭おかしいよ君、芹沢さんなにやってるんだよお仕置きだーってさ。ははは」
 その一つ一つが、鮮明に蘇ってくる。
 いままで封じ込められていたものが一気に放たれ、華音はもう、自分を抑えることができなくなっていた。
「本当に、いたんだよね?」
 華音は自分の記憶を確かめるように、目の前の青年に尋ねた。
「安西さんと話してると、なんだか不思議な気持ちになる」
 湧き水のようにあふれるその想いを、華音はもはや止められなくなっていた。
「鷹山さんと一緒に過ごしたあの一年は、全部夢だったんじゃないかって。おじいちゃんが死んで、でも祥ちゃんがいつも側にいてくれて、ずっとこうやって幸せに暮らしていたんじゃないか――って」
「華音サンからしたら、そうなのかー。でも、夢なんかじゃないよ。俺が生き証人だから」
 そういって屈託ない笑顔を見せる安西青年の言葉に、華音の心臓の高鳴りは、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 そう。
 確かに、『彼』は存在していたのだ。

 突然現れて、そして突然目の前から姿を消してしまった、天邪鬼で一筋縄ではいかない、厳しくも優しい『美貌の悪魔』。

 長年その存在すら知られていなかった、たった一人の『実兄』との間には、本当にいろいろなことがあった。
 わずか一年――しかし、失われた十五年を取り戻すのに充分なほどの濃さが確かに存在していたのである。

 華音の様子をうかがうようにしながら、安西青年はさらに続けた。
「俺さ、実はずっと思ってるんだけど……五年前の監督の交代劇って、本当に円満だったのかな――って」
「えっ……」
 衝撃的な言葉だった。
 しかしそれは、あくまで推測にすぎない。
 動揺を隠せぬ華音の気持ちに構うことなく、安西青年の推測はさらに続く。
「鷹山監督が、富士川監督にポジションを譲って、ヴァイオリン奏者としての道を選んだってことになってるけど、ここまで富士川監督が鷹山監督をまるでいなかったかのように扱って、華音サンのことも楽団に立ち入らせないようにしてんのは、ものすごく不自然だって、俺は思ってるんだけど?」

 はたしてそうなのだろうか。
 不自然な振る舞いをしている――少なくともこの目の前の青年はそう思っている。
 しかしそれは、華音にはよく分からないことだった。

 もしもそうだとしたら、きっとそれは『保護者』の彼の、優しさから来るもの――。

「祥ちゃんはきっと、私が鷹山さんのことを思い出さないようにしてくれて――私がつらい思いをしないように……って、そうだと思うんだけど。それが分かるから、私もあえて口に出さないようにしてるんだけど……違うのかな」
「違うでしょ、それ。してくれて、じゃないよ。華音さんのためじゃない。富士川監督が自分のためにそうしてるって、俺は思う。華音さんから、鷹山監督との記憶を消そうとしてるんじゃない?」
「安西さん……」
 考えもしなかった。
 いや、どちらかが正解、と言うことではないのである。

 彼の存在を消しているのは、華音のためであり、富士川自身のためでもあり――おそらくどちらも間違ってはいない。

「ホントややこしいよね。元彼が今彼で、今彼が元彼で……って、華音サンが二人の間を行ったり来たりしてるだけなんだけど」
「だーかーらー、祥ちゃんは元彼でも今彼でもないの!」
「じゃあ、鷹山監督は?」
「…………意地悪なことばかり言うよね、安西さんって」
「そういえばさ、昔、『その減らず口、今すぐ塞いでやろうか?』って、言ってたなー、鷹山監督」
 華音はめまいを覚え、気が遠くなった。
 当時のやりとりを思い出し、意図せずに顔が火照ってくる。
「もう! いい加減忘れてください! 安西さん、言いふらしたりしてないですよね!?」
「あはははは。あー、鷹山監督、帰ってこないかなあ。そしたら毎日楽しいのにー」
「私のことをからかうのが楽しいだけでしょ……」
 もう、何を言っても無駄なようである。


 ひとしきり笑ったあと、安西青年は楽しそうに空を見つめた。
「鷹山監督、今頃どうしてるんだろうなー。もう三十手前だよね。演奏活動に精出してるのかねー?」
「どうなんだろうね。……生きてるのか死んでるのかも、分かんないし」
「華音サン、聴く? ついこの間のザルツブルグのリサイタル、音源あるけど。鷹山監督のヴァイオリン、聴けるよ?」
「え…………うそ」
「ちゃんと生きてるよ。演奏、聴く? 聴かない?」
 華音を試すように、安西青年はさらりと問う。
 聞くまでもない。
 『彼』が本当に、この世のどこかに存在しているという、確かな証――。
「……聴く。こっそり」
「だよね、了解。富士川監督に内緒で、あとでデータ送ってあげるよ」
「ありがとう、安西さん!」

 華音の反応に気を良くした安西青年は、そろそろ自主練習に戻る、とベンチからようやく立ち上がった。
 喋りたいことを喋って気分転換でき、いくらかやる気を取り戻したらしい。
 華音は、小リハーサル室へ戻る安西青年を見送ろうと、事務管理棟の休憩スペースをあとにして、連れだって大階段のあるエントランスまでやってきた。

 ちょうどその時である。

 反対側の音楽監督室のある楽屋棟のほうから、富士川と高野が談笑しながらやってくるのが見えた。
 二人はエントランスのロビーを横切り、そのまま大ホールの二重扉の中へと入っていく。

 すると。
 さらにその後ろを追うようにして、ピンクのワンピースに同じ色のリボンを頭につけた小さな女の子が、元気いっぱいに駆けてきた。
 清楚な恰好とはまるで似つかわしくない力強さで、重厚な防音扉をこじ開けて、鈴の音のような声をホールいっぱいに響き渡らせる。
「かんとくー! あいらにヴァイオリンひいてー!」
 元気のよい嬌声を残し、そのままゆっくりと扉は閉じていく。

 その光景を目の当たりにして、安西青年はすでに及び腰になっている。
 触らぬ神に祟りなし、ということらしい。
「あー、ヤバい。美濃部サンちの娘ちゃんだ。さっそく富士川監督が餌食に……こっちに被害が来る前に俺、練習室に退散するわ。それじゃー」
 安西青年はその場から逃げ出すように、背中を向けたまま華音の手を振って、大急ぎで大階段を上がっていった。

 ――どうしよう。とりあえず私も行ったほうがいい……よね。

 エントランスにひとり残された華音は、今この状況にどう対処すべきか思案を巡らせた。

 おそらく女の子は、二人の大人の男たちに突撃しているに違いない。
 富士川の邪魔にならないよう、なるべくホール内では遭遇しないようにしようと心に決めていたのだが、なにやら放っておけない事態のようである。

 偶然を装っていったん高野のところへ戻ろうと、華音はいましがた女の子が消えていった同じ防音扉から、大ホールの内部へと入っていった。