隣にいるひと

 尚孝の席の前には、見知らぬ女生徒が座っていた。
 昨日は中学の入学式を終えたばかりの慌しさで、その長く美しい髪の持ち主に気付いていなかった。
 席は名前の五十音順である。
 嶋口尚孝という少年の前に座っており、そして、彼女のひとつ前の席には小学校の同級生だった腐れ縁の児玉少年が座っているのだから、彼女の名前はその間のどれか。
 佐藤さん坂本さん桜田さん小林さん――そう遠くはそう遠くはないだろう。
「なあ」
 尚孝は彼女の背中を人差し指で突っついた。
「第二? 第三?」
 この中学は近隣三つの小学校の学区がまとまっている。
 尚孝が通っていた第一小学校の児童でないとすれば、この少女は残る二つのどちらかということになる。
 しかしいつまで経っても、その少女は振り返る素振りもみせなかった。
 もう一度だけ突っついてみようか――そう思い、尚孝が彼女の背中に手を伸ばそうとしたその時。
「止めとけー、嶋口」
 後方から声をかけられた。振り向くと、同じ小学校で悪友の森園が手招きをしている。
 尚孝は腑に落ちず、じっと動かずにいる彼女の背中にもう一度目をやり、そして手招かれるままに森園の席まで移動した。
「なんでだよ。別に俺、どこの小学校か聞いただけじゃん。なんで答えないんだよ、あいつ?」
「知らねえのかよ。あの女、俺らと同じ小学校だぜ」
「嘘だ。あんなヤツいたか?」
 いくら四クラスもあるとはいえ、よそのクラスの人間だとしても顔は分かるはずだ。
 この森園少年も尚孝とは別のクラスだった。家が近かったので、共通の友人を通して顔見知りになり、いつしかつるむようになった。
 しかし尚孝は、その髪の長い少女に見覚えはなかった。
「だからよー、俺らと年が違うんだって」
 森園はわざと彼女に聞こえるように言った。
 それでも彼女は身動き一つせず、黙ったままだった。



 それから一週間ほど、彼女と言葉を交わすことはなかった。
 しかし、尚孝はずっと気になっていた。
 彼女の名前は、芝本菊子といった。
 母親みたいな名前だ、と尚孝は思った。
 HRで自己紹介をさせられたときにも、四十過ぎの担任の教諭が、いまどき子がつく名前は珍しいと言っていた。
 彼女にはよく似合ってる、そうも思った。和趣あふれる花の名は、彼女の可憐な雰囲気をよく表しているんじゃないか、と。
 授業に飽きると、彼女の背中の中ほどまである流れるような髪の毛を、尚孝は眺めていた。

 すでに同じ小学校の出身者で、いくつかグループができていた。
 しかし、彼女はいつも一人。
 どこの集団にも属さず、先生の質問以外には一言も発することなく、ただ席に座っていた。
 彼女が年上であるということは、陰で広まっていた。一つ上の学年に兄姉がいる生徒がいろいろ聞き出して言いふらしているに違いなかった。
 それでも彼女は、何も言わずひとり、席に座っていた。



 その日、中学に入ってはじめてのテストが行われた。
 小学校でどれだけ学力のばらつきがあるのか調べるためのもので、内容は小学校で習ったことのおさらいだった。

 数日後、名前を伏せて結果が公表された。そこから自分がどのくらいのところにいるのか、自己判断する仕組みになっていた。
 結果。一位と二位の差は歴然だった。
 プライバシー保護の問題から、名前を公表しないことになっているはずなのだが、担任教諭は嬉しそうにその事実を告げた。
「素晴らしいですね、一位は芝本さんでした」
 クラス内にどよめきが起こった。もちろん、尚孝とて例外ではなかった。
 それでも彼女は黙ったままだった。

 HRが終わり、担任教諭が職員室へ行ってしまうと、教室内は異様な雰囲気に包まれた。
「あーあ、俺らよりも一年多く勉強してたら、そりゃあ成績だっていいよなあ?」
「ちょっとやめなよー、勇斗」
 森園少年が仲良しグループと集まり、成績の見せ合いをしながら、わざと大きな声で喋っている。
 クラス中の視線が彼女に集まった。
 おせっかいな女子の一人が、気を利かせて弁解をする。
「き、気にしないでくださいねー、芝本さん。あいつ、バカだからひがんでるんですよ」
「ひがんでねえよ。ホントのことだろー?」
 彼女の背中は固まったままだ。じっと耐えているようにしか見えなかった。
 なんとも遣り切れない思いが、尚孝の心を締めつけた。
 森園少年にひとこと言ってやろうと、振り返って口を開きかけたそのとき――。

 彼女は無言のまま席を立ち、同級生たちの合間をぬうようにして、早足で教室の外へと出て行ってしまった。



 尚孝は彼女の見慣れた背中を懸命に追いかけた。
 どうしてそういう行動をとっているのか、尚孝自身にもよく判らない。
 それでも、ずっと近くの席にいて、彼女の心の悲鳴が聞こえた気がした。
 だから、――黙って見ていられなかったのだ。

 やがて彼女は、人気のない屋上へ続く階段を上りはじめた。
 まさか。
 尚孝は嫌な予感がして、思わず大きな声を出した。
「待てよ、芝本!」
 彼女は驚いたような目をして、階段下の尚孝を振り返った。
 言葉が続かない。しばらく二人は目を合わせたままの状態で黙っていた。
「……ひょっとして、年下に呼び捨てにされるの、嫌か?」
 少女は尚孝の言葉に明らかに途惑っているようだった。そして、弱々しく首を横に振った。
 初めて意思表示をみせたことで、尚孝は胸をなでおろした。
 彼女は再び階段を上っていく。
 尚孝も慌てて彼女の後を追った。彼女は何も言わない。ついてきて欲しくない、という素振りも見せていない。

 尚孝は初めて屋上に足を踏み入れた。
 えもいわれぬ開放感。風薫る五月、新緑の黄緑が鮮やかに広がる。
 彼女は尚孝に背を向け歩きながら、言った。
「みんな知ってるんでしょ。私の歳が違うってこと」
「たぶん」
 尚孝はあえて曖昧な返事をした。彼女を傷つけたくない一心だったが、きっとそんな言葉は彼女にとって何の慰めにもならないはずだった。
「一年お姉さんなのに勉強できないんじゃ、どうしようもないでしょ」
「べつにさ、一年多く学校に通ってるわけじゃないんだろ」
「……そうだよ。六年の途中までは普通に通ってた。事故で右膝、ダメにしちゃってね」
 そう言われてみると。
 彼女がここまで走って逃げてこなかったのは、そのためだったのか――尚孝は改めて彼女の足に注目すると、スカートから覗く両脚の太さが違って見えた。もちろん気にしなければ分からない程度だが、明らかに右脚の筋肉が痩せているようだった。
「小学校はなんとか卒業させてくれたけど、中学には結局去年一日も通えなかった。だから、落第」
「だったら、俺らと学校行ってる時間は変わらないじゃん」
「でも、病院ですこし勉強してたから。またもとのクラスに戻れると思っていたし。そうよ、あの子が言ってたとおりなの。勉強ができて当たり前なの」
 尚孝は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
 屋上スペースの端まで到達すると、彼女はようやく振り返った。
 今にも崩れてしまいそうだ。
「私だって、別にあんたたちと一緒になりたくてなったわけじゃないんだから。同級生だった子たちはみんな隣の校舎にいるの。……もう、私のこと忘れてるかもしれないけど」
「しょうがねえだろ。あきらめろよ」
 こんなときに、気の利いた励ましもできない自分が、尚孝はもどかしかった。
「あきらめろ? ……あなたに私の気持ちなんか、分かるわけない」
 彼女の言うことはもっともだ。
 どんなに成績が良くても当たり前と言われてしまう悔しさなんて、尚孝にはとても想像できない。

 でも。これだけは分かって欲しい。

 転落防止の高いフェンスに寄りかかるようにして、尚孝は空を仰いだ。
「お前が思ってるほど、うちのクラスのヤツは悪くない。まあ、最初は仕方ないじゃん? 転校生みたいなもんだよ。俺だって、今は同じ小学校の奴らと仲良くしてるけど、六年のアタマに転校してきたんだ」
 彼女は黒目がちの瞳を瞬かせた。そして、尚孝に並ぶようにしてフェンスに寄りかかる。
「……そうなの」
 彼女の長い髪が風になびくのが、尚孝の視界の隅に入った。ゆるやかな追い風だ。
「だからお前が一人でいる気持ちはさ、分からなくもないんだ」
 返事はなかった。
 二人はしばらく無言のまま、穏やかな風に吹かれていた。
 グラウンドからはどこか運動部の、ランニングの掛け声とホイッスルの音が風にのって響いてくる。
 尚孝は大きく一つ深呼吸をした。思いをすべて吐き出すかのように。
「俺はお前のこと、年上扱いしないからな。だって、俺たち同級生だろ」
 尚孝の隣で、彼女がうつむくのが分かった。
「ありがとう…………嶋口くん」
 菊子が消え入りそうな声で言った。今にも泣き出しそうな、いや――泣いているのかもしれない。
 尚孝は思わず隣にいる少女のほうを振り向いた。
 歳の差なんてまるで感じさせない、そこにいるのは一人の女の子だ。
 そんな彼女の態度の変化に、尚孝は驚いた。

 それよりなにより――尚孝は彼女が自分の名前を覚えてくれていたことに感動していた。

「くんなんてつけなくてもいいよ。名簿が隣になったのも何かの縁だ。尚孝でいい」
「わかったよ、尚孝ね」
 菊子が笑った。その笑顔に尚孝は思わず見入ってしまう。
 そう。
 これが二人のすべての始まり。
「今度さ、俺に勉強教えてくれよ。よろしくな、――菊子」
「いいよ。尚孝には特別にね」


(了)