逢いたいと願うひと

「尚孝ー、教科書貸して。日本史と、あと古文。あ、辞書も」
 隣のクラスの菊子は、いつも尚孝の教科書やら辞書やらを、授業の前に借りに来る。
 持ち歩くのは重たくて嫌なのだという。かといって、尚孝のようにロッカーに置きっぱなしだと、家で勉強できないからこれまた嫌だと、菊子はわがままを言う。
 数ヶ月もすれば高校生活も終わるというのに、菊子は入学したときからずっとその調子だった。
「ロッカーに入ってる。古文さ、訳書いといて」
 持ちつ持たれつだ。
 尚孝が条件をつけると、菊子は二つ返事でそれを了承する。
「わかった、じゃあね。あ、帰りに『CD』って忘れずに言って?」
「いいけど、何で?」
 もうすぐ始業のベルが鳴る。用件だけをさらりと告げた。
「葉子がね、この間尚孝が言ってたインディーズバンドのアルバム、聴きたいんだって。早く早くってうるさくて」
「葉子ちゃんまだ小5だろ? 何でそんなもの聴きたがるの」
 葉子とは、菊子の妹の名前だ。いかにも末っ子らしい、天真爛漫な少女である。もちろん、尚孝もよく知っている。
「好きなんじゃない?」
「超マイナーなのにか?」
 尚孝が首を傾げると、菊子は肩をすくめてさらりと言った。
「バンドじゃなくて、尚孝のことが、よ」
「……え」
 そんな中途半端なところで、始業のベルが鳴り響いた。菊子は逃げるようにして、つむじ風のようにその場を去っていった。


 尚孝のクラスに先生がやってきた。しかし、配布予定の課題のプリントを忘れたらしく、それを取りに職員室へと戻ってしまった。
 教室内はすぐにざわつき始める。
 席が隣り合わせの吉川という少年が、尚孝に耳打ちした。
「お前と芝本って、やたらと仲いいよな。ずーっとクラス違うのに」
「別に普通だろ。やたらと、って言われるほどじゃない」
 この手の話題は慣れている。
 そしてそれをかわす方法も、いつのまにか身についてしまった。
「二人一緒に仲良く帰ってるって、多数の目撃証言が――」
「お前、芸能リポーターかよ。そりゃホントのことだし、別にコソコソ隠れてるわけでもないだろ。俺ら小中一緒だし、家近いんだよ」
「それだけ?」
「それだけだよ」
 いくら説明しても、吉川少年はなかなか諦めようとしない。
「お互い名前を呼び捨てあってるのに? 菊子ー、尚孝ーって」
「……」
「何とも思わないの、嶋口?」
「思うとか思わないとか、そんなんじゃないんだよ」
 いい加減、うんざりとなる。
 無視をきめこもうと、尚孝は席にまっすぐ座り直した。
 すると。
「じゃあさ、俺、芝本さんのこと誘ってもいい?」
 突然予想もしなかった言葉が、尚孝の耳に入ってきた。
 勢いよく、隣の吉川少年を振り返る。
「菊子を? 誘うってお前、いつ? どこに?」
「…………やっぱり、気になるんだ」
「いや、参考までに聞いただけだって。まったく、俺にいちいちいいかどうかなんて聞くなよ」
 先生が職員室からようやく戻ってきた。
 吉川との話は、尚孝が納得いかないままに終わってしまった。


 放課後、菊子は教科書の入っていない軽いカバンを提げて、尚孝のクラスへとやって来た。
「尚孝ー、まだ?」
「ちょい待ってて。日直だから日誌書かないと」
 クラスにはまだ半分ほどの生徒が残っていた。
 その中には、あの吉川少年もいた。
「あ、芝本さん。ちょうどよかった!」
 吉川少年は菊子の姿を見つけると、親しげに話しかけていく。
「ねえねえ、スキー旅行に行かない? 進路決定組でぱーっとさ!」
 吉川は、菊子とは一年のときに同じクラスだった。親しい付き合いがあるわけではなかったが、当たり障りのない会話を交わすことのできる間柄だと、尚孝も承知していた。
 尚孝は日記を書き続ける素振りを続けながら、背後のやり取りに聞き耳を立てていた。
「えーっと……私、小学校のとき以来やってないから、滑れないの」
「充分充分。初心者だって優しく教えるし、大丈夫だって」
 菊子の言葉の裏にあるものを、読み取れているのは自分だけだ――尚孝は持っていたシャープペンをきつく握り締めた。
 菊子はたどたどしい口調で、吉川少年に答えた。
「道具もないし……それに、あの」
「今の時代、ぜーんぶレンタルできるんだから。俺の親戚だから格安でさ、ひょっとしたらただで借りられるかもしれないし。心配することなんか何にもないって! ミサトとかしのぶちゃんとかも行く予定だから安心だよ。芝本さんが参加してくれるともっと華やぐしさ、なあ、いいだろ?」
 聞こえる。
 昔から、尚孝には不思議と聞こえるのだ。
 菊子の心の声が、はっきりと背中越しに伝わってくる。

「ちょっと待って」
 菊子より先に遮ったのは、尚孝だった。
 尚孝はゆっくりと振り返り、吉川の側にいた菊子に視線を向けた。
「お前、親戚の法事だって言ってただろ。スキー行ってる場合か? またおばさんに説教されるぞ」
 尚孝のわずかな目配せを、菊子は見逃さなかったらしい。
 菊子はすぐに調子を合わせた。
「あ……そうだった。ゴメンなさい吉川君! うちの母親、最近うるさくて。また今度、ね。――尚孝、私やっぱり先に帰ってる」
「ああ、うん」
 微妙な空気が尚孝と菊子の間に流れた。


「やっぱりお前ら、付き合ってるの?」
 菊子が去ってしまったあと、吉川は再び尚孝の席までやってきた。
「付き合ってないよ」
 尚孝は日誌を書きつけながら、平静を装って淡々と対応した。
 吉川が面白くないと思っているのは明らかだった。
「俺、お前らが目で合図してたように見えたけど」
「だから気のせいだって――」
「俺が言いたいのはさ。お前らが別に付き合ってたっていいんだぜ? 現に二人は仲いいんだから。それをさ、妙に隠そうとしたり誤魔化そうとしたりしてるの見てると、なんかスッキリしないっつーか」
「別に誤魔化してなんかないだろ」
 そう。
 誤魔化せるような関係ですらない。付き合っているわけではないのだから。
「どうせもうすぐ離れるしさ――大学受かったって浪人したって、俺は地元に残るわけだし、あいつは東京の大学へ行くのが決まってるし。付き合うとか付き合わないとか、そんな問題じゃないんだよ」
 自分の言葉なのに、まるで他人事のように尚孝は思えた。



 夜九時を過ぎた頃、尚孝の家の電話が鳴った。
 相手は菊子だった。しょっちゅう電話をしてくるので、尚孝の家族もほとんど気にしていない。

 ――電話じゃアレだから、ちょっと出てこられる?

 いつもと変わらぬ明るい声だったが、それが逆に不自然な気がした。
 何なんだろう。胸騒ぎがする。
 尚孝はちょっと近所を散歩すると家族に言い、上着を羽織り、CDアルバム一枚だけを手に持って、家を出た。

 菊子は、団地の中にある小さな公園のブランコにぽつんと一人、座っていた。
 中学に上がる前にこの辺りに越してきた尚孝は、特にこの公園に思い入れはない。
 菊子はどうだろうか――聞いたことはない。
 そのブランコに腰掛けているのは、幼い少女のようだった。

 菊子は尚孝の姿を見つけ、安心したような笑顔を見せた。
「尚孝って、いつでもこうやって来てくれる」
「別に面倒くさがる距離でもないし」
 二人の家は同じ町内にある。歩いて十分とかからぬ距離だ。
「昼間は、どうもありがとう」
「…………昼間?」
「ほら、吉川君にね、スキーに誘われてたとき」
「ああ、あれ? ほら、あのさ――」
 尚孝は慌てて弁明した。慌てることなどないはずだが、何故か必要以上にあせってしまう。
「お前がまた自分の足のことを説明することになったら、吉川のヤツ、しつこく根掘り葉掘り聞き出そうとするに決まってるし」
「それだけ?」
 菊子のその言葉の意味を、尚孝は図りかねた。
「それだけだよ」
「スキーじゃなかったら、ただの旅行だったら、尚孝は止めなかった?」
「菊子?」
「止めてくれなかった?」
 菊子は止めて欲しかったのだろうか。
 いや、そんなことはどうでもいいのだ。

 尚孝が心配したのは、菊子の足? それとも――。
 その答えは。
 尚孝が言わなくても、菊子が聞かなくても。

 分かりきっていたことなのだ。

 しかし今、それをハッキリさせてみたところで、この先の二人の進路を考えると、お互い、余計に辛い思いをすることになるだけなのだ。


「風邪引くから、もう帰ろう」
「先に帰っていいよ。もう少しここにいる」
 菊子はブランコのチェーンにしがみつく。
「何言ってるんだよ。こんな遅くに女の子一人じゃ危ないだろ。送ってくから」
「大丈夫だって。すぐそこだもん。百メートルもないから――」
「ダメだ」
 そんなこと、できるわけがない。暗い夜道を女の子一人で歩かせるなんて、尚孝には到底考えられないことだった。
 真剣に怒る尚孝を見て、菊子は呟いた。
「尚孝って、まるでカレシみたい」
「彼氏いない歴十九年のくせに。なんだよ『みたい』って」
「あ、どさくさにまぎれて歳言った! ひどい!」
「いいだろ、俺に言われるんなら」
 尚孝だけに許される、菊子の触れられたくない過去の話である。
 逆に気を遣わないことが、尚孝の友情であり、愛情なのだ。
「それに、彼氏が今までできなかったのは……尚孝のせいなんだからね」
「俺のせい?」
「尚孝がいつも側にいるから、男が寄ってこなかったの」
 そりゃそうだろうな――尚孝はその言葉に妙に納得した。
 二人が付き合っていると、信じている人もきっといるだろう。

 尚孝は手にしていたCDの存在に気付き、菊子へ差し出した。
「ああ、これさ。昼間、菊子が学校で言ってたヤツ」
「あ、ちゃんと覚えててくれたんだー。聴いてみたかったんだ、これ」
 確か、妹の葉子が聴きたいとか、言っていたはずなのだが――。
 尚孝は口に出してその疑問をぶつけるのを止めた。
 たとえそのCDを聴きたいのが妹の葉子じゃなくても、尚孝はまったく構わなかった。

 ――俺たちは、そういう関係なのだ。これまでも、そしてこれからも。

 側にいて当たり前の居心地のいい関係が続いているから。
 そして、それがもうすぐ終わることを知っているから。

 たぶん大切。
 たぶん好き。

 たぶん、特別――。でも。

「卒業したら、こうやって尚孝と気軽に会えなくなるね」
「そうだな」
「大学入ったら、サークルとかバイトとかで、たくさん友達出来るだろうし」
「たぶんな」
「尚孝優しいから、どこに行ってもきっと人気者だろうし」
「なあ、菊子――」
「もう、独り占めできないんだね」
 独り占めされたっていい。側にいてやれるのなら。
 人一倍強がってみせていて、そのくせ脆く繊細なガラス細工のような彼女の心を、自分が支える人間でありたい。
 しかし。
 尚孝と菊子は、春が来ると遠く別々の地で、それぞれの道を歩むことになる。
「大学行ったらさ、彼氏なんてすぐできるさ」
 尚孝は菊子を励まそうと、努めて明るい声を出した。
「変な男に引っかかったりしたら俺、指差して笑ってやるからな」
 尚孝の笑顔につられるようにして、菊子が拗ねたように笑ってみせる。
「引っかかりませんから、ご心配なく」
 こういう時だけ、年上ぶるのだ、彼女は。
 その姿が無性に可笑しくなり、尚孝はわざと悪態をついた。
「変な男どころか、誰にも引っかからなかったりしてなー」
 すると。
 菊子は珍しく口をへの字に曲げ、黙った。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
 まるで子供だ。
 これではどちらが年上か分からないではないか――。
 尚孝は、菊子を立ち上がらせる手助けをしようと、ブランコの前に立ち、右手を差し出した。
「まあ、そのときは俺が責任をとってやるから――なーんてな」
 差し出した尚孝の手のひらに、菊子の小さな左手が載せられる。
「あ。その言葉、絶対絶対、忘れないでね?」
 返事をする代わりに、尚孝は菊子の手をしっかりと掴み、力強く引っ張った。
 菊子はブランコから立ち上がる。
 そのまま、尚孝は菊子と手を繋ぎ、家に向かって歩き出した。

 初めて手を繋いで歩いたはずなのだが、不思議と恥ずかしさはなかった。
 菊子が、尚孝の手を強く握り返してくる。
 尚孝もそれに応えるように、もう一度、菊子の手をしっかりと包むように、その手を繋ぎ直した。
 これが、いま自分がしてやれる彼女への精一杯だった。

 願いたい。いつも側にいることを。
 今はまだ、願うことしかできないけれど。

 未来がどうなるか、神のみぞ知る――。


(了)