ココロの中にすむひと

 尚孝の通う大学は現在、春休み真っ只中である。一年の春休みというのは気楽なもので、就職活動もゼミの研究もなく、持て余した時間でアルバイトに精を出したり、車の免許を取りに行ったり、気ままに過ごすことができる。
 もちろん尚孝も例にもれず、近くのコンビニエンスストアでアルバイトを始めた。
 店の雰囲気もよく、なかなか居心地がいい。このまま長期で続けても良さそうだと尚孝は思う。
 もちろん、春休み中と同じ勤務シフトというわけにはいかないだろうが――。


 凍てつく寒さも和らいだ三月も半ばの、ある日の深夜のことである。
 尚孝のアルバイト先のコンビニに、中学時代の同級生・森園勇斗が、客としてやってきた。
 友人たちと徹夜で遊び明かした帰りらしい。
 明け方近いため、店内にはレジカウンターの中に尚孝と、商品の入れ替えをしているもう一人のアルバイトの男子学生、そして客は今やってきた森園だけだ。
 ペットボトルのお茶と、朝食にするのかサンドイッチとコーヒー牛乳、週刊マンガ雑誌を手早くカゴに入れて、レジまでやってくる。
 店員と客――どこか照れくささが残るが、それでも他に客もいないため、『いらっしゃいませ』の挨拶もせずに、カゴの中の商品の会計をしていく。
 森園は大きなあくびをしながら、破れたジーンズのポケットから財布を取り出した。
 尚孝が金額を告げると、その中から見合った紙幣を取り出す。それを差し出しながら、森園は尚孝に話し掛けてきた。
「嶋口、お前なんでおとといのクラス会、来なかったんだ?」
「バイト、どうしても抜けられなくてさ」
 どうせ行ったところで特に珍しい面子ではない――尚孝はそう思っていた。
 ふうん、と、森園は気のない返事をする。そして、付け加えるようにひと言、呟いた。
「芝本、残念がってたよ」
 お釣りを数える手が止まった。
 その言葉の意味するものは、つまり――。
「菊子、来てたのか?」
 高校を卒業してから丸一年、尚孝が芝本菊子に会うことは一度もなかった。
 東京の大学に進学した彼女は地元を離れ、現在は一人暮らしをしているはずだった。
 直接本人に聞いたわけではない。彼女の両親や妹が近所に住んでいるため、尚孝の両親に近況が伝わり、それをときおり耳にするというだけのことだ。
 それにしても。
 来ると知っていたなら、バイトを入れたりしなかった。
 たとえどうしても抜けられなくても、クラス会の後に二人でお茶を飲むことくらいはできたのでは――尚孝の胸に『後悔』という二文字が、重く圧し掛かる。
 尚孝は心の内で深々とため息をつき、平然を装って先にお釣りとレシートを渡すと、商品の袋詰めをし始めた。
「そうそう、彼氏、連れてきてた。大学のサークルの先輩だって言ってたけど」
「彼氏――だって?」
 尚孝の声がひっくり返った。
 驚きを通り越して、頭が真っ白になる。
 どうしてこんなにも動揺しているのか、尚孝自身にも分からない。
 おぼつかない手で何とか商品を詰め終えると、それを森園へと差し出した。
「まあ、また企画するから。芝本も、また集まるなら呼んでほしいって言ってたし」
「へえ」
 もう、尚孝の耳には、森園の声がおぼろげに響くばかりだった。
「それにしても、芝本、すっげー雰囲気変わったな。俺はお前たちと高校違うから、中学のときの地味でおとなしいイメージしかなかったけど」
 森園の言うとおり、菊子には複雑な事情があり、自分の殻に閉じこもって周囲と打ち解けることができなかったため、森園には菊子に対して目立った印象というものがないようだ。
 菊子はもともと大人びた雰囲気のある女子だった。それは高校に入学してからどんどん際立ち、性格も明るくなり、男子に密かに人気があったように尚孝は記憶している。
 だから、決して不思議なことではない。
 菊子が、自分の知らない誰かと付き合うということ――。
「彼氏って、どんなやつだった?」
「どんなって?」
 尚孝の問いに、森園は不思議そうに首を傾げてみせた。
「連れてきたってことは、お前も会ったんだろ」
「随分と男前な感じだったな。んで、マッチョでワイルド」
「……マジで? 何でそんな」
 尚孝とはまったくの正反対である。
 今まで一緒にいて、好みの芸能人などを何人か聞いたこともあったが、そのどれにも当てはまらない。
「はっ、ひょっとしてお前、芝本のこと好きなのか?」
 友人に図星をさされて、尚孝の返事が一息遅れた。
「……そんなんじゃない。好奇心だよ」


 朝日がまぶしい。
 深夜のコンビニでのアルバイトを終え、尚孝はあてもなく、ただ見慣れた風景を眺めながら歩いていた。
 見慣れているのはここが尚孝の住む町内だからであって、ひょっとしたら彼女に遭遇するのではないか――という期待をして、同じ道をグルグル何度も歩いているから、ではない。
 生活圏を気晴らしに歩き回っているだけなのだ。
 そんな虚しい言い訳が、尚孝の胸をいっそう曇らせる。

 クラス会はおとといだったのだから、帰省してきている菊子がまだ実家にいる可能性はあった。
 しかし。

【彼氏、連れてきてた。大学のサークルの先輩だって言ってたけど――】

 森園の声が尚孝の脳裏をよぎっていく。
 思い出すと、どういうわけなのか動悸がし、不快な汗が全身から噴出すような、そんな感覚に苛まされた。

 菊子の、彼氏。
 彼女はどんな顔をして、クラス会に彼氏を連れて行ったのだろうか。それはもちろん、出席していた仲間たちしか分からないことである。
 もし自分がその場所にいたならば――きっと菊子を正視できなかったに違いない。
 尚孝はどうしてよいのか、まるで分からなかった。


 やがて尚孝は、毎日のように菊子と一緒に帰った川べりの道へと出た。
 陽春の朝の風を身に受け、大きく深呼吸をする。
 懐かしい土の匂いがした。
 ここで、自分たちはどんな話をしていただろう。ハッキリと思い出すことができない。
 ハッキリとしないのは当然だ。二人で話をしていないことは、何一つなかった、それだけのことだ。
 あんなにも一緒にいることが当たり前だったのだ。
 菊子は尚孝には何でも話してきた。女子の友達もいたが、菊子の持つ特殊な境遇が、菊子に壁を作らせる原因となっていた。
 たしかに中学では『留年』で目立っていたが、高校に上がると義務教育ではない分一年の差のコンプレックスは、他の生徒もそれほど気にかけることもなかった。大学に至っては、たった一年の差など何の問題でもなくなる。
 きっと菊子は、今がいちばん充実した生活を送れているのだろう――尚孝はそう思った。
 もう、守ってやる必要はなくなってしまったのだ。


 川べりの道から、再び尚孝の住む団地へ向かう道へ入った。
 そのときである。
 まさに尚孝が思い描いていた瞬間が訪れた。
「尚孝? 尚孝ーっ!」
 偶然を装って、彼女とめぐり合う。
 それが今まさに、現実となったのだ。
 一生懸命、こちらへ向かって駆けて来る。その足取りは頼りない。
 間違いない。菊子だ。
「……お前、一人?」
「そうだけど?」
 息を弾ませながら、菊子は答える。
 一年振りの彼女は、尚孝の目にはどこまでも新鮮に映った。
 長い髪は変わっていないが、緩やかなウェーブが大人っぽさを演出している。派手ではないが、化粧もしているようだ。
 垢抜けた、という言葉が相応しいのかもしれない。
 森園が、クラス会での菊子のことを『雰囲気が変わった』と言っていた意味が、尚孝はようやく分かった気がした。
 心の揺れを隠すように、尚孝はあくまで冷静を装って、菊子に向き直った。
「彼氏、連れてきてたんじゃないのか?」
「やだ、誰から聞いたの?」
「森園だよ。随分と男前らしいじゃん。どんなヤツ? その男前の彼氏って」
 菊子は困ったような微笑をみせた。
「どんなって……まあ、いい人だよ」
「お前、親にも紹介しておいてさ、『まあ』って、そりゃないんじゃないのか?」
 何を口走っているのだろう。我ながら見苦しい男だと、尚孝は思った。
「紹介なんかしてないよ」
「え? だって、わざわざこっち連れて来たんだろ」
「私、クラス会の前の日にこっちへ一人で帰ってきて、あの日突然彼がね、観光がてらこの辺を見たいってやってきたの。旅行が好きみたい。案内頼まれたけど、クラス会あるからって断ったら、ついていくって言い出して――」
 彼女の長ったらしい言い訳じみた説明が、凝り固まった尚孝の心を解きほぐしていく。
 菊子がクラス会という場に、東京の大学の彼氏を同伴してきたという事実を聞かされて、勝手に妄想を膨らませてしまっていたことに、尚孝は今更ながらに気づかされた。
 しかし。どうにも素直になれない。
「なんでクラス会あるからって断るんだよ。彼氏、案内してやればよかったじゃん」
「そうかな」
「そうだろ、普通」
「そう、だよね。クラス会に結局、尚孝はいなかったし」
「えっ……」
「尚孝が来ないの分かってたら、行かなかったよ、中学のクラス会なんて」
 菊子の大きな瞳が、真っ直ぐと尚孝の顔をとらえる。
 しかし。
 それ以上言ってはならないと、お互いが牽制しあう。

 一本の道を歩いていた二人は、岐路を経て、交わることのない道の上をそれぞれ進んでいるのだから。

 菊子は吹っ切れたように、ふうとため息をついた。
「でもね、よく分かんないけどね、……尚孝がクラス会に来てないって知って、ものすごくガッカリしたけど、でも――どこかホッとしてた」
「なんでだよ」
「だって――」
 鼓動が高鳴っていくのが、尚孝自身にもよく分かった。
「彼のこと、指差して笑ってやるって、言ってたでしょ?」
 確かにそんなことを言った覚えがある。
 高校を卒業する少し前の頃だったか――尚孝は彼女を励まそうと、いや、そうではなかったかもしれない。
「変な男に引っかかったら、って言ったんだぞ。それとも何? 俺が指差して笑いそうな、そんなつまんねー男なのか?」
「分かんない」
「何だよ、それ」
「つまんないかどうかも、まだ分からないんだ」
 それが、今の菊子にとってのすべてなのだろう。
 尚孝はゆっくりと確かめるように、菊子に尋ねた。
「でも、『いい人』なんだろ?」
「うん。いい人」
「それなら、安心だ」
 楽しかった二人だけの日々は、遠き思い出となり――次第に色褪せていくのだろうか。
 そんなはずはない。少なくとも尚孝の心の中では、すべてが色鮮やかな思い出として深く刻み込まれている。
 そう。
 それはすべて、大学進学を機に、菊子が側にいなくなってから、尚孝が気づいてしまったこと。

 尚孝は迷いを払拭するように、からりとした笑顔を彼女に向けた。
「なあ菊子、今度はいつ帰ってくるの?」
「ゴールデンウィークには帰ってくるつもりだけど」
「電話してこいよな。クラス会じゃなくたって、べつに飯くらい付き合ってやるし」
「ホントに?」
 彼女の心から嬉しそうな笑顔を見て、尚孝は彼女が幸せならそれでいいのだ――と、心の底から思った。


(了)