雨やどり  そう、あの日もこんな雨だった。

 ここがどこなのか、男にはまったく見当がつかなかった。
 ありったけの所持金をはたいて、適当にバスを乗り継いできたのだ。もちろん今までに訪れたという記憶もない。
 見慣れぬ風景だ。
 見渡す限りの鬱蒼とした緑が、なぜだか居心地が悪かった。生命力の強さに押しつぶされそうな錯覚を覚え、眩暈と吐き気が同時に襲ってきた。
 男は堪え切れずに、古ぼけた待合スペースのベンチに腰掛けた。

 停留所の名前もさび付いていて読めなかった。読めたところで――男にはまったく興味がなかった。
 男は上着の内ポケットに手を差し入れ、煙草の箱を探った。運のいいことに、濡れた上着の中で煙草は無事だった。
 最後の最後で、運が少しは残っていたのか。男は理由もなくおかしくなって、一人声を上げて笑った。
 ペンキの剥げたベンチに腰をかけ、男は雨漏りのするあばらな作りの停留所の屋根を見つめた。そして、煙草を一本取り出し口に咥え火を点けずにそのまま、屋根にあいた穴から落ちてくるしずくを、意味もなく数えていた。

 いつの間にか、隣に若い女が座っていた。
 いつ現れたのだろうか、男はまったく気づかなかった。もしかしたら最初からそこにいたのではないか、そう思えた。
 いや、バスを降りたときには、自分は一人きりだったはずだ――危うい記憶の糸をたぐり寄せるも、曖昧だ。
 どこか懐かしいにおいがした。自分の知っている誰かに似ているのかもしれない――と男は漠然と感じた。

「どちらまで行かれるのですか」
 ほんの気まぐれだった。
 最期に言葉を交わす相手に相応しい、いや、もったいないほどの人間だ。もちろん彼女にしてみれば迷惑な話でしかないであろうが――それは口に出さなければ分からない。
「主人のお墓参りに。今日は命日なので」
 男は驚いた。おそらく彼女は自分と歳が変わらないに違いない。もしかしたら年下かもしれない、とさえ思えたからだ。
 ずいぶん若くして未亡人になったのだな、と男は同情した。
 
 トタン屋根に叩きつける雨音がさらに強くなった。
 重く湿ったひんやりとした空気が、二人だけの異空間を包み込む。
「もう少しだけ、そばにいてちょうだいね」
 女の顔は濡れていた。それが雨の雫なのか涙なのかはわからなかった。
 似ているのではない。きっと、彼女なのだ。
 だが男はもう、名前すら思い出すことができなかった。誰よりも愛していたはずの伴侶の名前を――。

 ――ここは、どこなんだ。どうして自分はここにいるんだ。
 記憶は反芻している。
 この雨は、永遠に晴れることはない。

「雨がやむまでは、ここにいますよ」
「よかった」

 男は彷徨い続けているのだ。
 いつからでもなくいつまででもない、果てしない空間を。


(了)