十六夜の華  月だけが、すべてを見ている。

 兄は俺の欲しいものすべてを持っていた。
 それは決して彼が欲したものではなく、座っているだけで与えられる天恵というべきものであった。
 名の知れた旧家の跡継ぎだから、行く末は終身保証され安泰を約束されていた。
 兄に言わせればそれは安泰の約束どころか踏み外すことの許されぬ綱渡りのようなもの、ということだったが、何も期待されない、何も与えられない、弟の俺からしてみれば、たいそう贅沢で脆弱な悩みだと思われた。


 兄には幼少の時分から許婚と呼べる存在の少女がいた。
 俺より一つ年上で、その名を『奈々緒』といった。
 あどけない少女だった彼女も、二十歳を迎えた今では、見目麗しき潤いあふれる女性と成長を遂げた。
 そして美しき兄の許婚は、半年前――俺の義姉となった。

 兄は昔から、奈々緒に必要最低限の興味しか持たなかった。
 歳が九つも離れていたせいで、男と女として向き合うことができずにここまで来てしまったらしい。

 だから。
 だから、こうなる。こうなってしまう――。

 これは偶然ではなく、必然だ。
 俺たちの辿りゆく、運命なのだ。


「私は……道明さんのこと、好きよ」
 嘘っぱちだ。背徳と裏切りに彩られた、偽りの愛に決まっている。
 唇と唇が離れた一瞬の隙に、そんなことを平気で言ってのける女だ。
 組み敷いて圧し掛かる男を目の前にして、決して振り向くことのない伴侶の名を口にする。

 許せない。
 そんな名前、聞きたくない。

 俺は再び奈々緒の唇を塞いだ。
 呼吸もままならず喘ぐ奈々緒が苦しげで、それがいっそう悩ましく思える。
「道明さんは一度も私を……抱いてはくださらないの」
 時間が止まった。一瞬、頭の中が真っ白になる。
 驚きのあまり、既に衣服にかけていた両手の動きを止めてしまった。
「だ――だって奈々緒は、満月の夜は兄貴の寝所で――」
 俺はそれ以上言うのを止めた。
 気にしていないと強がっていて、そのくせこんなにも嫉妬の嵐だというのに。
 格好悪すぎる。
「博明くん……お願い」
 そんな言葉じゃ、分からない。
 君の願いなら、なんだって叶えてあげるのに。


 禍々しき十六夜の月が昇る頃。
 逃れることのないように、身体も心も絡め合う。
 俺は生まれて初めて、兄の『もの』を手に入れることができた。


 それが、悲劇の始まりだった――――。


(了)