……ビックリした。

 放課後になっても、梨緒子のテンションは上がらなかった。
 こんなときはパーッと友達と寄り道でもして帰ればいいのだろうが――家では、今日も家庭教師が待っている。

 秀平との関係は、微妙なものになってきている。
 やはり、彼と近しい人間が家庭教師になるというのは、諸刃の剣だったのだ。ぐっと距離が縮まったようでいて、逆に自分の気持ちを素直に出せないという、実に微妙な間隔だ。
 梨緒子はもはや、どうしてよいか分からなくなっていた。
 確実に言えること――それは。
 自分の気持ちに正直になればなるほど、逆にどんどん秀平に近づきにくくなっている、ということである。


「梨緒ちゃん、携帯鳴ってるよ」
 昇降口での出来事である。梨緒子が靴を履き替えていると、カバンに入れっぱなしになっていた携帯電話が、鈍い音を発てていることに気がついた。マナーモードにしていたため、すぐには分からなかったのである。
 美月に言われ、急いで携帯を取り出すと――梨緒子の呼吸は思わず止まってしまった。

 ディスプレイに浮かび上がった人物の名前は――

 ――――「永瀬秀平」!?

 これは家庭教師の優作が、連絡を取るためにと梨緒子に教えてくれた番号だ。登録するときに一応、持ち主本人の名前を入力しただけなのである。

 ――優作先生??

 しかし、いまはまだ授業が終わったばかりだ。

 梨緒子が呆然とディスプレイを見つめていると、振動は止んだ。
 美月はそんな梨緒子の様子を、不思議そうな顔で見つめている。
「なに、イタ電? 出会い系の広告メール?」
「あ、うん。……そうみたい」
 そう言って携帯を閉じて顔を上げると、梨緒子の心臓が大きく跳ね上がった。
 そのまま、止まってしまうのではないかと思うほどの、衝撃。

 数メートル先というわずかな距離で、永瀬秀平本人がどこかへ電話をしているところだった。
 シルバーの携帯を耳に当てたまま、梨緒子の様子をうかがうようにして見ている。

 秀平の携帯は――いま本人が持っている。
 つまり、梨緒子の携帯にかけてきたのは、秀平自身。

 ――どうして私の番号……あ、着信履歴。

 昨日の夜、兄・優作の「家庭教師先の女の子」として、自分の携帯から電話をかけたのだ。
 秀平がなぜ、「家庭教師先の女の子」に電話をかけようとしたのか、それは分からない。
 着信履歴を見ているうちに、間違って発信してしまった、そういうことなのかもしれない。
 きっと、そうだ。
 そうに決まっている。
 それしか考えられない。
 そうだよ。うん。
 目が合ったのも、きっと偶然。
 偶然、偶然。
 梨緒子は自分の気持ちをなんとか落ち着かせようと、必死だった。

 認めたくない、真実なんて。



 家に着くと、いつもの如く家庭教師は時間より早く来て、梨緒子のことを待っていた。
 どうしても気になって気になって仕方がなかった。
 秀平の謎な行動を、実の兄であるこの優作ならどう思うか、とにかく聞きたかった。
 梨緒子は先ほど起こった出来事を、こと細かく優作に説明した。

「ね? そうでしょ?」
「どうだろうね」
 梨緒子はすでに勉強そっちのけだ。
 優作は、落ち着きなく喋りまくる梨緒子の話を、頷きながら興味深そうに聞いていた。

 秀平が、梨緒子の携帯に電話をかけてきたこと。
 それをすぐそばで、じっと見ていたこと。

「僕ね、昨日梨緒子ちゃんが電話くれたあと、秀平に頼んで梨緒子ちゃんの番号を、電話帳に登録してもらったんだよね」
「ええ? じゃあ秀平くんの携帯に、わ、わ、私の番号入ってるの?」
「うん。番号と、名前とね」
 その優作の説明で、今日の休み時間、類少年とのやり取りで、なぜ秀平が自分の名前に反応したのか――分かった気がした。

 ――『リオ……? それ、君の名前?』
 驚いたように見開かれる、彼の瞳。

「履歴から間違ってかけたんじゃなくて、自発的にかけたのかもね。あいつ、かなり用心深いんだよ。ほら、悪徳ワンギリ業者にかけちゃって法外なお金を請求されることもあるからって、履歴はマメにクリアしてるみたいだから」
「じゃあ何? 今日無言電話かけてきたときに、私のこと見てたのは……」

 ――昨日電話で話した子の携帯にかけて、私がそれに出るかどうかを見るために?

「確かめたかったんじゃないかな。ほんと、おかしなやつだよねえ。同じクラスなんだから、梨緒子ちゃんに直接聞いたらいいのに」
 楽しそうに笑う優作とは対照的に、梨緒子は複雑な思いを胸につかえさせたまま、小さなため息をもらす。

 同一人物なのかどうか、確かめるために。
 やはり、嫌がっているのだ。そうとしか思えない。

「ほらほら、勉強もちゃんとやろうね。一緒に北大、行けないよ?」
「そ、そ、そ、そんなんじゃないってば! 優作先生、深読みしすぎ! たまたま! 偶然なの!」
 一応否定してみるものの、果たしてそれがどれくらい効果があるものなのか――おそらく皆無に等しい。
「はいはい」
 むきになる梨緒子を、優作はまるで小さな子供をあやすように扱った。

 ――まったく、もう……。



 次の日の朝。
 梨緒子はいつもよりも早く学校へと着いた。生徒昇降口には、まだ人はまばらだ。
 靴箱のふたを開け、内履きを取り出そうとしたそのときである。
「江波」
 誰かに呼ばれて、梨緒子は振り向いた。よく知っている、男子の声。

 ――う、嘘?

 そこに立っていたのは、永瀬秀平だった。どうやら梨緒子が登校して来るのを待っていたらしい。
 緊張は一気に極限状態まで達した。梨緒子は一人。類も美月もいない。
 永瀬秀平と二人きりになったのは、これが初めてだった。
「あのっ、わ、私の名前……?」
 秀平が、自分の苗字を知っていたということに梨緒子は驚いた。
「……おとといの夜の電話、あれって、江波……だったんだろ?」
「あ、あ、あの、ごめんなさい! いままで黙ってたのは別に悪気があったわけじゃなくて、きっと秀平くんは私の事なんか覚えてないと思ったから、だからね、私が優作先生に黙っててってお願いしたの。ホントだよ!」
 秀平は黙ったままだ。
 会話のキャッチボールは、まるで上手くいかない。
「もしかして、気に触った? ホントにゴメンなさい。怒った……よね? もう、あの、勝手に電話とかしないし、秀平くんには迷惑かけたりしないから! 優作先生にも余計なことしないようにって、お願いしておくし……あの」

 ――何言ってるんだろう、私……。

 どんどん自分から壁を作っている。
 作らざるを得なくなっている。

 すがるような眼差しの梨緒子を見て、ようやく秀平は言葉を発した。
「…………いや、別に怒ってなんかないけど。ただ――」
「ただ? ……な、に?」
 梨緒子は恐る恐る、目の前の秀平に尋ねた。
 すると。
「よく喋るなと思って。……ビックリした」

 秀平が初めて、梨緒子に対して、はにかむような笑顔を見せた。
 恋する乙女はもちろん、完全ノックアウトである。