すぐ終わる。

「今日は天気もいいし、外で勉強しようか」
 気取りのない風貌とどこから見てもお人好しな青年は、梨緒子の部屋に入ってくるなり、その表情を緩ませた。

 ――外って……庭?

 この家庭教師は普通の青年とはちょっと違う。それはなにも特殊能力があるとか、そういう次元の話ではない。
 つかみどころがない――それは最初に出会った頃の印象と変わっていない。
 かといって、「何を考えているのか分からない」ということでもない。

 主導権は常にこの家庭教師・永瀬優作が握っている。

 梨緒子はいつだって、すべてを優作に見透かされている。
 何にも言わなくても理解し、そして――。

 優作は問題集や参考書の入ったカバンを梨緒子の部屋に置いたままにして、財布だけをジーンズの後ろポケットにつっこんだ。
「だいぶ春らしくなってきたから、もうコートは要らないよ。さあ、そのままでいいから、行こう」
「どこに行くの?」
「ちょっとお茶でも」



 しかし、優作に連れられて向かった先は、梨緒子がイメージしていた『ちょっとお茶のできるカフェ』とは、程遠く離れていた。
 救急車のサイレンの音。
 途切れることのない外来患者。
 そして、見舞いに訪れる人々。
 独特の喧騒に包まれた空間である。
 門前のプレートを見つめ、梨緒子は一応確認してみた。
「……ここ、病院だよね?」
「うん。さあ、中に入るよ」
 そう言って、優作はどんどん病院の敷地内へと歩いていく。
 見慣れぬ風景に、梨緒子は途惑った。
 門の外側と内側とではまったくの別世界だ。

 優作は病院の建物の中には入らず、建物と建物の間の、きちんと舗装された構内の道をひたすら歩いていく。
「ここ通る方がね、近いんだ。大学の正門はね、通りの向こう側なんだよ」

 ――あ、大学……か。

 優作が医学部の学生だということを、梨緒子はすっかり忘れていた。そして、この大きな総合病院は医大の付属病院だということをようやく思い出した。
 構内も白衣姿の若者の姿がときおり見受けられる。
 憧れの彼・永瀬秀平の兄であるという印象があまりに鮮烈で、優作自身の素性などにまったく目を向けていなかったのだ。

 ――兄弟そろって、頭いいんだな。

「大学によっていろいろと違いはあるけど、基本的なところは同じだから」
 優作に連れてこられたのは、医学部の校舎だ。六階建ての近代的なビルで、コの字型に建てられている。
「N棟、S棟、C棟って名前が付いてるんだ。コの字の真ん中がね、『center』の頭文字で『C』。そこから両側に伸びている校舎が、北側は『north』南は『south』で、それぞれN棟S棟って感じかな」
「へえ。なんかカッコいいね」
 高校なら、北校舎、南校舎、なんて名前がせいぜいだろう。
 優作は梨緒子をC棟と呼ばれる建物の中へと連れて行った。

 学務課。
 梨緒子にとっては聞き慣れない言葉だ。
 その学務課の外の壁が一面巨大な掲示板となっている。
 現在開講中の講義の時間割や、学生の呼び出し、休講情報、特別講義の案内など、様々な情報が集まっている。とりあえず知りたいことがあれば学務課の掲示板をチェックするのが学生たちの決まりらしい。
「受けたい講義を自分で選んで、時間割を組むんだ。必要な単位数を取れば進級できる。午前に2コマ、午後に3コマ、講義1コマは百分。週に一回、半年受講してテストにパスすれば2単位もらえる。その繰り返しなんだよ」
 高校とはまるで違う。
 いままで何となく大学を目指すなんて言っていたが――実際その雰囲気に触れたのはこれが初めてだった。
 未知の世界だ。

 ――これが、大学なんだ。



 医学部校舎をすぐにあとにして、優作に連れられてやってきたのは大学の学生食堂だった。
「学食は朝9時から午後7時まで開いてて、学生だけじゃなく教職員や一般の市民も利用できるんだ。この時間じゃだいぶ空いているけどね。昼間は席の争奪戦だよ。ほら梨緒子ちゃん、そこのトレイを持って」
「これ?」
 梨緒子は優作に促されるまま、そばに山積みにされてあったクリーム色のプラスチックトレイを一枚、手に取った。
「コーヒーやケーキもある。そこのショーケースに並んでるから、好きなのトレイに載せてごらん」
 高校にも学食はあるが、昼休みのみである。食券式でメニューも少ない。
 梨緒子はとてもワクワクした。
 ケーキを選んでいる間に、優作は奥のカウンターで飲み物を注文していた。
 カウンター越しに欲しいものを告げると、一分も待たずにそれらが出てくる。セルフサービスのカフェと同じスタイルだ。
 違うのはお金を払う方法だけ。ここではまだ、お金のやり取りはない。
 優作はコーヒーと紅茶のカップを、梨緒子が持っているトレイの空いているところに載せた。
「最後にそこのレジを通るよ。トレイを置いて」
「はーい」
 レジは学生食堂の中央付近にあった。レーンは四つだったが、この時間では一つしか稼動していない。
 トレイをレジの前に差し出すと、職員がすばやく入力していく。手馴れたものだ。
 数秒後、ディスプレイに金額が表示された。
 優作は財布からプラスチック製のカードを取り出すと、それをレジの脇の読み取り機に軽くかざした。
 認証されたような電子音が鳴り響く。
「なにそれ?」
「学生証のIDカードだよ。学内の施設で使えるシステムで、料金は月末に一括で引き落とされるんだ。小銭のやりとりがないから、レジの混雑も緩和される、というわけ」
「カッコいい! すごい!」
 梨緒子の反応に気を良くしたのか、優作は得意げに親指を立ててみせた。


 二人はトレイを携え、適当に空いているところへ移動し、座った。
 優作はコーヒーをブラックで飲むらしい。セルフサービスの砂糖とミルクをトレイに載せていない。
 梨緒子は、日替わりケーキセットのフルーツタルトとミルクティー。タルトには春らしくイチゴがたくさん使われている。その瑞々しい香りが辺りに漂う。
「北大はもっともっと広いけどね。うちの大学は医学部と薬学部と歯学部、あとは看護系の短大とかだから。総合大学のほうが規模は全然大きいしね。その中でも北大は、敷地は群を抜いて広い」
 優作の説明は、伝聞ではなく断言だ。
 梨緒子は何となく気になり、聞いてみた。
「優作先生、ひょっとして行ったことあるの?」
「うん、あるよ。おととしかな、秀平と二人で北海道のイトコのところへ遊びに行ったんだ」
 梨緒子は思わず、フルーツタルトを崩すフォークの動きを止めた。
 いまは聞きたくない、『彼』の名前は。
 しかし優作はコーヒーカップ片手に、淡々と喋り続ける。
「帰りに札幌でちょっと時間が余ってね、北大って札幌駅からそう離れていないんだよ。僕は大学入ったばかりだったから、よその大学に興味があってね。秀平は何となくついてきたと思うんだけど、あいつにしては珍しく興味惹かれたみたいでね。いまじゃ北大一直線」
 ちょっと前までは、知りたくてたまらなかったはずの秀平の北大志望動機も、いまの梨緒子にとってはどうでもいい話。
「北海道は、星がとても綺麗だったよ。どこまでも真っ直ぐな道路の真ん中に新聞紙を敷いて、イトコの子と三人、川の字になって寝転がってね、流れ星の数を数えてたりしてたんだよ」

 ――もうその名前を出すのは、止めて。

「どうしたの、梨緒子ちゃん」
「……何でも、ないです」
「やっぱり、秀平と何かあったんだね」
 優作は初めから気づいていたのだ。
 気づいていてこんな――勉強を止めて外へ出ようと言ってくれたのだ、と。
「……」
 かなわないのだ、結局のところ。

 優作は梨緒子よりもずっと大人だ。
 大人の男で、『彼』のことを誰よりもよく知っている。

 気がつくと、梨緒子は優作にすべてを話そうという気になっていた。
「私が優作先生と仲良くなると、ルイくんが――あの、ルイくんっていうのは同級生の男の子なんだけど」
「ああ、いつだったか梨緒子ちゃんの家までついてきて、窓から覗いてたあの子ね。で、その子がどうしたの?」
 優作は穏やかに相槌をうち、さらに梨緒子の話を上手く引き出していく。
「ルイくんが秀平くんに挑発的な態度を取ってくるから、……迷惑しているって。私と優作先生が仲良くなって、どうしてルイくんが秀平くんに冷たくなるのか、私にはよく分かんない……秀平くんが嘘をついてるだなんてもちろん思っていないし、でも、ルイくんはそんな他人につらくあたるような人じゃないし。……そんな、迷惑だなんて言われても」
「ははは。バカだな、あいつ」
 優作はおどけたように軽く笑ってみせた。
 さすがは血を分けた兄弟だ。その言葉には情け容赦はない。

 ――秀平くんのこと、『バカ』って……。そんなことないと思うけど?

「だからもう、北大目指すの止めようかと思って」
「こらこら、簡単に止めるとか言わないの。何のために僕がついてると思う?」

 ――何の……ため?

「あいつの不機嫌ごっこは、すぐ終わるよ。きっとね」
 優作はコーヒーを飲み干すと、カップを静かにテーブルへ置いた。そして何やら意味ありげにそっと、微笑んでみせた。