何のつもりだ!?

 突然、秀平の態度が硬化してしまい、その美しくも冷たい眼差しが向けられると、梨緒子はいたたまれなくなってしまった。
 こうなることは充分予想できたはずだった。

 誰からのはちまきも受け取らなかった秀平が、自分が作ったものを受け取ってくれるはずはなかったのだ。

 家庭教師の優作の力で、少しずつ自分に好意的になっているというおごりが、梨緒子の心のどこかにあった。
 逆の見方をすれば。
 梨緒子が、自分の兄が家庭教師をしている先の人間だから、邪険に扱わないようにしている、それだけのことだったのかもしれないのに、である。

「……ごめんなさい。迷惑だったよね」
 哀しいという感覚が麻痺している。
 もう、涙も出てこない。
 急いでしまおうと、はちまきの上に梨緒子が手を伸ばすと――。

 差し出した梨緒子の手に、突然、秀平の左の手が重ねられた。

 あまりのショックに、梨緒子は口がきけなくなってしまった。
 手を急いで引っ込めようとする。
 が、しかし。秀平ははちまきごと梨緒子の右手をしっかり掴んで、放そうとはしなかった。
 秀平の手の温もりが伝わってくる。大きくて骨っぽくて、――男の子の手だ。
「……いや。誰かに渡して欲しいってことなのかと思って、聞いただけだよ。クラスのはピンク色だって……そう、聞いてたから」
 思わぬ彼の反応に、梨緒子はすっかり取り乱してしまっていた。
 向こうも途惑っているようだ。いきなり手を掴んでみたものの、引っ込みがつかなくなったらしい。怖々と梨緒子の手を放し、そっとはちまきだけを抜き取っていく。
 梨緒子は掴まれていた手を、慌てて引っ込めた。
 冷静を装うも、なかなか上手くいかない。
 梨緒子の右手に、秀平の左手の感触が残っている。

 しばらくの間、沈黙が二人を包んだ。

 ――とりあえず、受け取ってくれた……んだよね?

 秀平は問題集の開いたページの上に梨緒子が作ったはちまきを置き、じっと眺めている。

「これって、なんか意味があるの?」
「……え?」
「知らない人がよく持ってくるんだけど、俺、よく意味分かんないんだ。……話もしたことない人間にわざわざ理由聞くのも、アレだし。だからいつも、いらないって言ってるんだけど」
「……まさか秀平くん、うちの学校のジンクス、知らないってこと、……ないよね?」
「ジンクス? …………これが?」
 秀平の驚く様が、逆に梨緒子を驚かせた。
 孤高の王子様は、整った切れ長の瞳を何度も瞬かせ、はちまきと梨緒子の顔を交互に見つめている。
「たまに二本してるやつは見かけるけど、この江波がいまくれたのも、そのジンクスってヤツなの?」
 秀平がいままで誰のはちまきも受け取らなかったのは、そのジンクスの存在自体を知らなかったから、だなんて。
 天晴れというか、お粗末というか――なんと言えばいいのか、まるで上手い言葉が見つからない。
「もういいの。帰るね、邪魔してゴメンなさい」
 秀平はそれ以上何も言わなかった。そのまま逃げるようにして図書室を去る梨緒子を、追いかけてくることもない。
 梨緒子は気分が晴れぬまま、家庭教師の待つ自宅へと足を向けた。


 ついつい、この家庭教師の男にもやもやをぶつけてしまう。
 優作は梨緒子のすべてを受け入れてくれるのだ。上手くかわしているだけなのかもしれないが――。
 そこは大人だ。伊達に梨緒子よりも人生長く生きていない。そしてなんといっても、憧れの『彼』を誰よりもよく知っている男、である。
 今日も勉強そっちのけでしゃべりまくる梨緒子の話を、優作は楽しそうに聞いている。
「面白いジンクスだね、それ」
「やっぱりうちの学校だけなのかな。優作先生って高校どこ?」
「魁星」
「え? カイセイてあの、全寮制の厳しい男子校?」
 初めてその経歴を知り、梨緒子は改めて尊敬してしまった。
 魁星高校といえば県下イチの私立の進学校だ。医学部にストレートで合格というのも、充分納得できるくらいのインテリジェンス集団である。しかし、梨緒子の持つ魁星高校の人間のイメージと目の前の家庭教師は、決してイコールで結びつかない。
「そうそう。女の子いないから、そういうときめくようなジンクスなんてなかったなあ」
 優作はくたびれたようなため息をついた。あごの無精ひげを撫でながら、たれ目を緩ませて、しょげたように笑ってみせている。
 インテリジェンス集団のイメージからは程遠い――梨緒子は優作につられて笑いながら、そんなことを考えた。
「しかしまあ、三年にもなって学校のジンクスも知らないなんて、秀平のヤツも協調性なさすぎだな。仲のいい友達の話なんて聞いたこともないし、ましてや好きな子がいるとかそういう話題は論外だし」
 孤高の王子様。
 でも本当は、そんなことはなく――。
「きっと秀平は、どうしていいか分からないんだよ」
「……やっぱり、迷惑だってこと?」
「すぐそういうふうに考えるのは、梨緒子ちゃんの悪いところだね」

 ――そんなこと、言われたって。

「この前も言ったけど、初めてなんだよ秀平は」
 心臓の鼓動が、ひときわ高鳴った。

【僕ね、あんな秀平初めて見たんだよね】

 聞きたくない。
 でも聞きたい。
 やっぱり聞きたくない。

「ちゃんと女の子の下の名前を覚えたり、自分から無言電話かけてワンギリしたり、自分から話しかけようとして昇降口で待ち伏せしたり、その子が自分以外の男に言い寄られているのが気に入らなくて逆に八つ当たりしたり――」
 優作の言葉一つ一つが、梨緒子の胸に突き刺さる。そして、そのときの秀平とのやり取りが、梨緒子の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。
「ルイくんは私をからかってるだけで、言い寄ってるわけじゃないもん。私が秀平くんのこと好きだって知ってて、わざとちょっかい出してるんだから。それに…………ホントに気に入らないだけかもしれないでしょ?」
「いやいやいやいや」
 優作は大袈裟に首を横に振った。
「気に入らないなら、関係を持たないために極力近づかないようにするから、あいつは」

 分からない。
 永瀬秀平という人間が、分からない――。

「だから、梨緒子ちゃんはすごい、って。お兄さんはそう思ったわけよ」
 優作が自分のことを「お兄さん」と茶化して言うと、とてつもない気恥ずかしさに包まれる。
 梨緒子のことを生徒としてではなく、自分の弟に想いを寄せる一人の女の子として見ている――そう思わせるからだ。
「でも、何で自分がそうしているのか、秀平は分かっていないんだよ。きっとね」
 優作の言葉が、どこか遠くから聞こえてくる。

 これからどうなっていくのだろう――とりあえず言えるのは、はちまきのジンクスで秀平と付き合えることは絶対にない、ということだ。
 それどころか、このままでは。
 二人が付き合える日がこの先、永久に訪れることはないのかもしれない――そんな不安が梨緒子の心を苦しめた。



 翌日。
 とうとう、校内球技大会の初日を迎えた。
 バドミントンに出場予定の男子四人、女子五人が、朝イチで教室の一角に集まり、類少年を中心に作戦会議をすることになったのだが――。
「前田のヤツ、じいちゃん危篤だから休むって? どうすんだよ」
 出場することになっていた男子生徒の一人が、突然欠席となってしまったのである。
 梨緒子は類の隣で、とりあえず話の輪に加わっていた。
「誰かが二回出るってのも、きついよなー。俺らと日程がぶつかってない競技のやつ、誰か探すしかねえよな」
 そのときだった。
 すでにジャージに着替え、すぐそばの席に座っていた一人の男子が、バドミントンチームに声をかけた。
「俺、出てもいいよ。バスケ、午後からだし」
 梨緒子は思わず自分の耳を疑った。

 この声の主は――ひょっとして。

 類は提案してきた男子生徒のほうへと視線を向けた。
「ホントか? 永瀬」
 クラス内にいた全ての生徒が、きっと同じことを思っただろう――珍しい秀平の行動に、皆が注目する。
 もちろん、それは決して奇異の目ではなく、期待と羨望の眼差しだ。秀平が出場すればきっと上位入賞を狙える、そんな希望が胸を膨らます。
「ただ、条件が一つ――」
「おお、なんだよ? 言ってみ」
「江波と組ませて欲しいんだけど。つまり、安藤とペアチェンジ、ということで」

 嘘。
 嘘だ。

 ――何を言い出すんだろう、秀平くん。

「永瀬、お前……何のつもりだ!?」
 類は眉をひそめ、秀平を牽制する。しかし、秀平も挑発的な態度を崩そうとはしない。
 梨緒子は突然自分が渦中の人となってしまい、ただ途惑うばかりだった。