真実と向き合う心

 こんなことをしても何の解決にならないことは、美月にも分かっている。
 しかし。
 心の中の繊細な部品がどこか一つ壊れて、うまく機能しなくなってしまったのだ。

 放課後。
 帰りのホームルームが終わると、美月はいちばんに教室を出て、そのまま生徒昇降口へと向かい、学校の外までわき目もふらず、小走り状態で歩いていく。
 目的の人物の帰宅ルートは、完全に把握している。
 美月の親友が高校入学以来、『彼』に片想いを続けているお陰で、どんな些細な彼の情報も知っている。
 身長・体重・誕生日・血液型・靴のサイズ・持っているペンやノートのメーカー・登下校の時間やルート。
 美月にとっては、どうでもいいものばかりなのだが――。
 それが役に立つ日が来ようとは、まったく予想していなかった。


「永瀬くん、ちょっと待って」
 美月は道をふさぐようにして、帰宅途中の秀平の前に立ちはだかった。

 二人は同級生だが、ほとんど言葉を交わしたことがない。
 永瀬秀平はその見た目の良さも頭の良さにおいても有名だが、美月は特に目立つ要素は持ち合わせていない。
 名前を覚えてもらっているのかすら、怪しい状況だ。
 それでも、顔くらいは覚えているだろう、美月はそう思っていたのだが――。

 秀平は立ちはだかる美月を避けるようにして、無言で通り過ぎていこうとする。
「無視しないでくれる? 耳、聞こえてるんでしょ?」
 美月はとっさに手を伸ばした。
 逃すわけには、いかない。
 秀平は強引に腕を捉まれ引き止められて、困ったように深々とため息をついた。
「……無視も何も、別に話すことないし」
「永瀬くんになくたって私にはあるの! 自分にその気がなかったら会話もできないってわけ? なんなの? いつもそうやって興味あるんだかないんだかハッキリしないで、人をさんざん振り回して!」
「話って何? 聞けばそれで気が済むんだろ」
「……」
 悔しかった。
 どうして親友は、こんな男のことが好きなのか。
 いや――もう、親友ではない。
 この男のせいで、彼女とは親友でいられなくなってしまった。
「全部永瀬くんのせい! 永瀬くんが悪いんだから!!」
 美月は両手で秀平の制服の上着とネクタイとシャツを掴み、そして力任せに揺さぶった。
「永瀬くんのせいで、永瀬くんのせいで私、好きな人も、親友もなくしちゃったんだから……」
 細身とはいえ、ひ弱ではない。
 秀平は揺さぶりに動じる様子もなく、わずかに身を引き、抵抗の意思表示だけしてみせる。
 この男には何を言っても無駄なのだ。
 非情で冷徹、他人に興味を持たない孤高の人なのだから。
「言ってる意味がサッパリ分からない。俺にはまったく関係ない話だろ」
「関係ない? 梨緒ちゃんに、あんなに思わせぶりなことしておいて?」
 だからこそ、彼女はこの男の言動に傷つき、そして。
 美月がずっとずっと、ひそかに片想いをしていた幼馴染の男と――もう、いい。
 もう、取り返しのつかないことなのだ。
 たとえそれが、直視したくないものだったとしても、現実世界は変わらない。

 そのとき。
 美月はふと、目の前の彼のまとう空気が変わったことに気づいた。
 きれいに整った顔が、わずかに引きつる。
「思わせぶり? それは、こっちのセリフだよ」
「……永瀬くん?」
 美月は秀平の態度の豹変に、わずかに怯んだ。
 こんなにも間近で、秀平が自分に向かって言葉を発したのは、美月の記憶する限りこれが初めてだった。
 普段は孤高でクールに振る舞い、授業中以外はほとんど言葉を発しない物静かな秀平が――真っ直ぐに美月の顔を見下ろしている。
「だいたい、江波は本当に俺のことが好きなのか?」
「え?」
「本当にそれが理由で、俺と同じ大学を目指すって言ってるのか? そもそも俺が何をやりたいのかも知らないのに?」
 それは、美月も疑問に感じていることだ。それでも、親友の彼への想いの強さを、応援したかった。
 美月が返事をせず黙っていると、それを肯定の返事と受け取ったのか、秀平はさらに続ける。
 繊細な色を放つ瞳を、ゆっくりと瞬かせながら――。
「じゃあどうして……江波は安藤と付き合ってるんだよ」
 それは美月自身が、いちばん答えを知りたい。
 そして、どうして彼が、ここまで取り乱しているのかも――。
「そんなに気になってるんなら、自分で確かめたらどう?」
 美月は、真実と向き合うことのできない彼に背を向けると、彼の自宅とは反対の方角へ向かって、一人歩き始めた。


(了)