崩壊する医学生の心

 北海道の短い夏を象徴するような、抜けるような青空が広がっている。
 永瀬優作と江波薫は日帰りのツーリングに出掛けていた。

 正午を過ぎ、二人は休憩を兼ねて、眼前に緑輝く草原の広がる大きな駐車スペースに、二輪のマシンを滑り込ませた。
 ツーリングを楽しむライダーたちの休憩スポットとなっているらしい。優作と薫のほかにも、ライダーたちがいる。
 すぐ側の建物が、小さな食事処と土産物屋だ。外観はまだ新しい。続くようにして大きなトイレも完備されている。
 二人はマシンを停めると、直射日光を避けるようにして建物のひさしの陰に入った。外壁に沿うようにしてベンチが置かれている。
 二人はそこに腰掛けた。

 優作は一息つくと、おもむろに上着の胸ポケットを探った。
 中からタバコの箱とライターを取り出すと、隣に腰掛けている薫に尋ねた。
「一服してもいいですか?」
「いいよ」
 これは優作のポリシーだ。
 喫煙するもののマナーとして、たとえ喫煙が許されたスペースであっても、同席する相手には必ず聞くことにしている。
 薫は優作の申し出をあっさりと了承してみせた。くせのないロングヘアを後ろで一つに束ね、目配せするように瞳を瞬かせている。
 元々の素材がいいのだろう、化粧はしていないのに、はっとするような美しさを備えている。それを証拠に、先ほどから見知らぬ視線をいくつも受けている。
 優作に対しては、疑問の眼差しというところだろう。
 釣り合いが取れないカップルだ――そう思われているのが優作自身にも感じ取れた。
 そう思われるのは光栄であるのだが、実際二人はそのような関係にあるわけでなく、お互いの弟妹を通じて知り合った仲に過ぎない。
「うちも吸おっかな。優ちゃん、一本くれる?」
「薫さん、タバコ吸うんですか」
「たまにね」
 優作は自分のタバコとライターを、薫にそのまま差し出した。
 手馴れたように火を点け、程なくしてゆっくりと煙を吐き出していく。
「今頃どうしてるかな、あの子たち」
「仲直りしてくれてたらいいんだけど。うちの弟は素直じゃないからなあ」
「優ちゃんの弟ってさ、梨緒子のことが好きなのかな」
「どうでしょうねぇ。興味があるのは確かなようですけど。何というか……金持ちの家に飼われている臆病な猫、なんですよね、秀平は」
「ハハッ、なに、その縛り?」
 薫は楽しそうに笑った。
 煙草を燻らせながらの他愛もない会話が、気に入っているようだ。
 優作は気を良くし、そのまま話に興じていく。
「別に、うちが金持ちだって言ってるわけじゃないですけどね。なんていうのかな……ただ興味本位でちょこまか動くものを眺めて、たまに怖々手を出して、思いがけない反応に驚いて、でも気まぐれで……ホント、猫みたいなんですよ。嫌いなものには見向きもしないんだから」
「じゃあ、梨緒子は『ねずみ』か」
「ねずみというか、あえて言うなら『ハムスター』じゃないですか?」
 薫は、優作の言った「猫とハムスターの微妙な関係」を想像し、なるほどねぇと納得したように、ため息とともに煙を吐き出した。
「そうそう、優ちゃんは? 彼女とか」
 雑談のついでを装って、薫はさらりと問いかけた。
 優作はまったく動じることはない。淡々と質問に答えていく。
「高校の時は、いましたよ。僕、全寮制の男子校だったんですけど、近くに女子高があって、友達を通して知り合ったんです。その子とは一年くらい付き合ってたかなあ」
 優作と弟とは、外見だけでなく、その恋愛経験にも随分と差があるようだ。
 薫は興味深げに、さらに話を聞いていく。
「別れちゃったの?」
「ふられたんですよ。どうしても忘れられない人がいて、彼女のことを一番に考えてあげられなかったから」
「あらら、ふたまた掛けちゃった?」
「ふたまたも何も、憧れていた人とは付き合ってませんでしたから。薫さんみたいにキレイな人でしたよ。男勝りでさばさばしてて」
「あー、『男勝り』ね」
「褒めてるんですよ」
 薫は黙った。
 その口元は微かに上がっている。いたずら心の芽生えた『少年』の顔を、その表情の奥に隠している。
 しかし。
 この医学生は、その重大な違和感に――まだ気づいていない。
「そろそろ行きますか? ちょっとトイレに行ってきます」
「あ、うちも」
 吸い残した煙草を灰皿に押し付け、火をもみ消すと、二人はベンチから立ち上がった。
 そして、おのおの目的の入り口を目指した。

 目指したはずだった、のだが。

 薫は優作の背中にぴたりとついて、あとを追ってくる。
 優作は入り口から一歩入った手洗いスペースで立ち止まると、くるりと背後を振り返った。
「薫さん、入り口は向こうですよ」
「ん? 向こうは女子トイレだから」
「薫さん?」
「うち、『男勝り』じゃないんだよねぇ。つくものついてるし」
 優作は、持ち前のたれ目を限界まで見開いた状態で、固まっている。
 思考回路がショートする音が、今にも聞こえてきそうだ。
 加えて、言語中枢もいかれてしまったようである。
「優ちゃん、医学生なんだからさ、もうちょっと早めに気づかないと」
 そう言って薫は、憐れな医学生の青年を前に、どこまでも楽しそうに、そしていつになく豪快に笑ってみせた。


(了)