未来へ繋がる決意の心

 しゃかしゃかと単調な音が、小さな厨房内に響き渡る。
 ステンレス製の大きなボウルに、大きな泡立て器がぶつけられている音だ。
 ボウルの中では、白く決め細やかな泡がたくさんできている。
「だいぶ、上手になったじゃないー。シュウちゃん、さすが飲み込み早いのね」
 ひかるは秀平の背に近づき、後ろから覗き込むようにする。
 卵白を泡立ててできるメレンゲは、お菓子作りの基本である。
 ここ二週間ほど、ひかるは秀平に請われ、カフェの定休日を利用して、簡単な焼き菓子の作り方を指導している。
 今日は三回目にして、本番前最後の練習の日だ。

「彼女はこっちの学校に進学?」
「はい。兄貴のところの短大に合格しました」
 秀平はひかるの問いに、淡々と答える。
 その言葉の中に、ひかるはいろいろなものを読み取る。
 このイトコの少年よりも、ずっと人生経験が豊富であるがゆえに、物事の裏を読み取るのはお手の物だ。
「じゃあ、離れちゃうんだ」
「まだ分かりませんけど――たぶん」
 大学の合格発表を明日に控える今は、確実に決まってはいない。
 しかし、ひかるが秀平の家族から伺い聞く話からすれば、この春から北大へ進学するのは、間違いなさそうである。
「いつ渡すの? それ」
「合格発表のあと――札幌に発つ前に」
 やはり秀平自身も、このあと辿るであろう道程は、既に見えているようだ。
 しかし、彼はひたすら冷静だ。
「彼女と一緒にいてあげなくていいの? 時間もあまりないんでしょ」
 秀平はメレンゲを泡立てるのを止めた。
 ふうと一息つき、別のボウルに入れてある粉末に向かう。
 ひかるの質問には無言のまま、一度ふるっている小麦粉とココアの粉末を、もう一度粉ふるい器にかけていく。

 ひかるは余計な詮索はしないでおこうと、小さなスツールを厨房の中へ持ち込み、秀平と背中合わせになるようにして、腰掛けた。
 作業スペースの上にノートや雑誌を広げ、新メニューの案を考え始める。
 カフェの厨房は静けさに包まれる。
「どうすれば……」
 しばらくして、背後に立つ秀平が突然、言葉を発した。
「――どうすれば、彼女を繋ぎとめていられるのか、分からないんです」
「え?」
 ひかるは思わず、スツールに腰掛けたまま振り返った。
 そこにあるのは、どこまでも繊細な少年の背中だ。
「ここと札幌じゃ、毎日はもちろん週イチどころか月イチでさえ、会うのは難しいし。困って頼られても、助けてやることもできない。他の男の手から彼女を守ることもできない――」
「シュウちゃん」
「離れて四年も……どうやって付き合えばいいのか、全然分からない」
「まあ、ねえ。遠距離恋愛って、難しいからね」
 ひかるは、珍しく素直に心情を吐露する秀平に、当たり障りのない答えをするのが精一杯だった。

 背中を押してやりたい。
 しかし、無責任なことは言えない。
 彼の気持ちが真剣であることが伝わってくるからこそ――適当な薄っぺらい言葉で取り繕うことは、ためらわれてしまう。

 秀平はようやく振り返った。
 そして、憂いに満ちた瞳で、ひかるの顔を真っ直ぐに見つめてくる。
「ひかるさんも、そう思いますか?」
「自分の周囲の例とか、いろいろ見てきてるけど……半々ってところなのかな」
「半々、ですか」
 迷っている。
 いま自分がこのイトコの少年にしてあげられることは、いったい何だろうか。
「遠距離恋愛ってね、成就するかどうかは男にかかってると思うのよ」
 秀平は頷くこともなく、ただ無言でひかるの言葉に耳を傾けている。
 ひかるは続けた。
「彼女の一生を背負う覚悟があるかどうか」
「……」
「その覚悟がないなら、遠距離なんてしないほうがいいよ。お互いのためにね」
「覚悟……ですか?」
 ゆっくりと瞬く秀平の瞳が、未来のヴィジョンを求め、彷徨う。
「遠距離するならするで、彼女にその覚悟を伝えられれば、女の子は頑張れるはずだから」
 ひかるが励ますようにそう付け加えると。
 秀平は長い長いため息を一つつき、ようやく柔らかな笑顔を見せた。


(了)