オフタイム

 三ヶ月間の海外出張から今日、夫の永瀬秀平は帰ってくる。
 梨緒子は秀平を迎えに、空港まで彼の所有する車を走らせた。

 梨緒子は、車の運転がどうも苦手だった。
 免許を取ったのは、看護師の国家試験が終わってから病院に勤務するまでのわずかな期間だった。短期集中コースで免許を取得したあとは、車を運転する機会はほとんどなく、梨緒子はペーパードライバーに近い状態だった。
 通勤は徒歩で可能であり、買い物や遠出の際は、恋人時代も結婚してからもずっと、秀平がハンドルを握っていた。
 そんな生活も一年ほど前まで。
 初めての結婚記念日を迎えてすぐの頃だった。

 夫の秀平に、海外赴任の話が持ち上がったのである。
 期間は、なんと二年間――。

 まさに、青天の霹靂である。
 秀平は当然のように、梨緒子に仕事を辞めてついてくるように言ってきた。
 もちろん梨緒子は、そんな突然の話を聞き入れられるわけがなかった。
 看護師として二年働いてきて、ようやく仕事にやりがいを感じてきたところなのだ。

 それなのに、夫は淡々とひと言。
「妻なんだから、辞めてついてくるのが普通だろ」
 彼の言う『普通』が、梨緒子には到底理解できるものではなかった。
「行くなら勝手にひとりで行けばいいじゃない。妻だから当然とか言われても困るし」
「一緒にいるために結婚したはずだろ。何なんだよいまさら、わがまま言うなよ」
「わ、わ、わがまま? それは秀平くんでしょ?」
 その勢いで、二人は別居することになった。
 そして、お互いの両親兄弟をも巻き込んで、離婚するしないの大騒動に発展してしまったのである。


 しかし、それから一年が経過。
 梨緒子はいまだ『永瀬』姓を名乗っている。

 結局二年間の海外赴任は、秀平が会社の上司とかけ合い、別の人間と交代することになった。
 しかし、どうしても替えがきかない部分があるため、秀平は三ヶ月間の長期出張を、ここ一年に三度繰り返すこととなったのである。

 そういう事情があって、梨緒子は秀平がいない間、彼の所有する車を一人で運転することになった。
 彼がいなくなって、必要に迫られてしかたなく――である。
 運転歴も、かれこれ一年となる。そうしているうちに、苦手ながらも、何とか人並に運転できるようになった。

 この一年、秀平とはほぼ別居状態にあった。
 離婚騒動の別居から、そのまま海外出張となったため、家族を通して表向きは和解したものの――素直に歩み寄れない状況が続いていた。
 もともと秀平は、まめに電話やメールを寄越すタイプの人間ではない。
 今回の出迎えの要請も、三度目の長期出張に出かけて以来、実に三ヶ月ぶりのやりとりだった。


 空港ロビーで出迎えたときも、彼の反応は淡々としたものだった。
 三ヶ月ぶりだというのに、まるで今朝も顔を合わせていたかのような、驚きも喜びも感じられない無機質な表情である。
 梨緒子は黙って半歩先を歩き、大きなトランクを引きずる彼を、空港の駐車場へと促した。

「……まだ怒ってるのか?」
「別に」
 運転席でハンドルを握りしめたままほとんど喋らない妻に、夫は助手席から語りかけてくる。
 しかし。
 梨緒子はどうしても素直になれなかった。
「もう慣れたし。なんかこういう時、ずーっと遠距離してて良かったなって思うよ。ホントにもう、ね」
「……」
「帰ってくるなり嫌味は勘弁してくれ、って言いたいんでしょ」
「そんなことないよ」
 違う。
 こんなことを言いたいわけじゃない。
 でも、想いが言葉にならない。

「お土産置いていきたいから、江波家経由で」
「うち? 別にいいのに」
「帰国の挨拶に、手土産もなしってわけにはいかないだろ」
「どうせ空港で買ったお菓子でしょ」
 まただ。
 梨緒子はどんどん自己嫌悪に陥っていく。
 自分はどこまでも可愛くない、出来の悪い妻だ。

 秀平は特に気にする素振りもみせず、軽くネクタイを緩めると、シートを後ろへ半分ほど倒して、背を預けた。
「着いたら起こして」
 どうやら眠るつもりらしい。
 梨緒子は目を閉じる彼に気づかれないよう、ため息をついた。

 彼氏だった時代が、いまとなっては懐かしい。
 結婚して二年が過ぎた。
 『彼氏』と『夫』とは、やはり違う。
 家族になってしまうと、遠慮がなくなっていく。

 恋人時代、彼が梨緒子の運転する車の助手席に乗っていたときには、間違っても寝てしまうことなどなかった。
 危ない地点に気を配り、梨緒子の運転をさり気なくサポートしてくれていた。
 それがいま。
 自分が疲れていると、梨緒子に構うことなくさっさと眠ってしまうのだから、なんともやりきれない。

 でも。
 こうして無防備な寝顔を見せてくるということに、やはり愛しさを覚えたりもする。
 こうやって、すぐそばで彼の寝顔を見るのも久しぶりだ。

「着いたよ」
 梨緒子が呼んでも、秀平は起きる様子をみせない。
 すっかり眠り込んでしまっている。
 梨緒子はシートベルトを外すと、後部座席を振り返り、お土産の入った袋を探った。
 ゴソゴソさせている物音で、ようやく目を覚ましたらしい。秀平はのそりと身を起こし、倒したシートを元の位置まで戻した。
「ねえ、どれが実家の分?」
「どれでもいいよ」
「もう、そんな適当なこと言って」
「底の方に入ってる細長い箱のが、三人家族には合うんじゃないの?」
「細長いの? どれ?」
 後ろを向いて紙袋の中を物色しながら尋ねる梨緒子に、秀平は体勢を変え、梨緒子に寄り添うようにして、後部座席を覗き込んだ。
 秀平の長い腕が梨緒子の手を探るようにして、紙袋の中へと伸ばされる。
 そして、梨緒子の手の甲を上から押さえ込むようにして掴むと、細長いのはこれ、と梨緒子の耳元で小さく呟いた。
 腕と腕とが触れ合い、そこからお互いの体温が伝わる。
 これ以上密接していては、とても平常心を保てそうにない。
 梨緒子は慌ててお土産の箱を取り出そうとした。
 すると。
「梨緒子」
 彼の声が、梨緒子を穏やかに包み込む。
 梨緒子はゆっくりと顔を上げた。
 すぐそばに彼の横顔がある。
 箱を探る手の動きが思わず止まった。
「な……に?」
「言うの忘れてた。ただいま」
 吐息を感じる至近距離で、透き通った焦げ茶色の瞳が物憂げに瞬く。
「……おかえり、なさい」
 梨緒子はもう、崩れてしまいそうだった。

 いつだってこの男は、自分のもとへと帰ってくる。
 どんなに遠く離れていても、必ず――。

「ずっとね、帰ってくるの待ってたんだよ」
「――うん」
「本当に、お帰りなさい」
 秀平は静かに頷き、妻の頬に優しく口づけた。
 どこまでも甘く、そしてくすぐったい。
 そのまま二人は見つめ合う。
 呼吸を整え、お互いの唇を触れ合わせようとしたその瞬間。

 不意に車が大きく揺れた。

 何が起こったのか、すぐには分からない。
 梨緒子は秀平の胸にしがみつき、車の外に目を向けた。
 すると、そこには。
 フロントガラスの向こうで、ボンネットに足をかけて、車体を故意に揺らす『青年』の姿があった。
 梨緒子の兄・江波薫だ。
 二人は慌てて身体を離し、それぞれのドアから車の外へと出た。

 薫はようやくボンネットから足を下ろし、あきれ返ったようにため息をついた。
「君たち。仲良しなのは結構だけど、いい歳して真っ昼間に人んちの前でいちゃつくなよ。そういうのは、自分ちに帰ってからにしなさいね」
「か、薫ちゃん!? いちゃつくだなんて、別にそんな、違うから!」
 どういう訳か、昔から兄の薫には、秀平との『やり取り』を目撃されることが多い。
 ファーストキスの現場も見られている。
 いまさら取り繕っても遅いのだが――それでも梨緒子は思いつくままに言い訳を試みる。
 しかし。
 一方の秀平は、梨緒子とは対照的だ。
 秀平は顔色一つ変えず、お土産の箱を差し出しながら、淡々と説明した。
「つい、自制心が揺らいでしまいました。すみません、お義兄さん」
 薫は片手でお土産の箱を受け取ると、義弟に満足げな笑顔を向け、素直でよろしい、と言った。


(了)