リラックスタイム

 秀平と梨緒子が結婚して、二年と十ヶ月。
 諸事情で、一年間ほど別居状態だったため、二人が同居している期間は、二年足らずだ。
 残業や出張が多い夫と、夜勤のある看護師の妻。
 当然、二人が揃う時間は、平均的夫婦よりも少ない。

 そんな二人が結婚してから話し合って決めた、いくつかの取り決めごとがある。

 取り決めその一。
 光熱費を節約するため、時間が合うときは、お風呂は一緒に入ること。

 しかし、実際その取り決めが実行されるのは、週に一度あるかないかだ。月二度がせいぜいである。
 夫の秀平は残業が多く、毎日遅い。今日もまだ帰宅していない。
 午後十時を過ぎたところで、梨緒子は一人お風呂に入った。
 帰ってくるのを待っていては、明日の勤務に差し支える。
 梨緒子は先にベッドに入って早々に休むことにした。


 程なくして、秀平が帰ってきた。
 部屋の外で、玄関のドアを開閉させる音と施錠をする音が聞こえてくる。
 まだ眠りにつく前だった梨緒子は、起きて出迎えることはせず、暗闇の中でベッドに横たわったまま布団に包まっていた。
 これも二人の取り決めの一つだ。

 取り決めその二。
 お互いに、相手の眠りを妨げないこと。

 梨緒子が準夜勤で深夜に帰宅したときも、先にベッドで眠る秀平を起こさないように、細心の注意を払っている。
 その取り決めを忠実に守り、秀平は静かに寝室へと入ってきた。そして、暗闇の中でゴソゴソと何かを探るような物音をさせている。
 暗くてよく見えないらしい。
 梨緒子は掛け布団に包まったまま、夫に声を掛けた。
「電気、つけてもいいよ」
「起こした? ごめん」
「ううん。いま横になったばかりだから平気」
 梨緒子はベッド脇にあるルームランプのスイッチをつけた。
 わずかな橙色の光が、室内の輪郭を浮かび上がらせる。
「お風呂、まだお湯冷めてないと思うから――入って」
「うん」
 梨緒子はほの暗い部屋の様子を、ベッドの中から眺めていた。
 秀平はクローゼットを開き、スーツの上着を脱いでそれをハンガーにかけていく。
 後ろから見た彼の立ち姿は、とりわけ美しい。付き合い始めた高校の頃から、彼の体型はまるで変わっていない。
 秀平は梨緒子に背中を向けたまま、ネクタイを緩め始めた。
「あのさ、梨緒子」
 梨緒子は黙ったまま、秀平の続く言葉を待った。
「再来月なんだけど、休み取れる?」
「再来月? う……ん、再来月ならまだシフト決まってないから、師長に頼めると思うけど」
「そうか」
「休み取るって何? 永瀬家関係の法事とか?」
「いや、そうじゃないけど」
 どうも歯切れが悪い。
 いつもこうなのだ。
 彼は自分の思っていることを、上手く伝えることができないのである。
 だから『妻』である自分が、彼の思っていることを引き出してやる必要がある。
 もう、慣れた。何があっても、驚かない。
「再来月の何日?」
「14日から21日まで」
「ん? ……何日って言った?」
 梨緒子はようやくのそのそと起きだした。
「14日から21日まで」
 梨緒子の再度の問いに、秀平は同じ答えを繰り返した。
「から? まで?」
「うん」
「うんってそんな……なんで!?」
「ちょっと」
 またこれだ。
 肝心なことが何も伝わってこない。
「そりゃ、秀平くんのところは大企業なんだからそうやって簡単に休めるのかもしれないけど、私はそうそう理由がない限り長く休めないってことぐらい、秀平くんだって分かってるでしょ?」
 ほの暗い寝室で、妻は夫を責めたてた。
 そんな梨緒子の反応は、予想済みだったのだろう。秀平はどこまでも冷静な態度を貫く。
「理由って、例えば?」
「例えばって……身内の冠婚葬祭とかなら仕方がないけど。それでも一週間もなんて、両親が死んだくらいしか……そんな嘘ついたってすぐばれちゃうし。無理無理」
 梨緒子は秀平の申し出をあっさり切り捨てた。
 理由もハッキリしないのに、看護師である梨緒子が一週間も休めるわけがないのである。
 しかし。
 秀平は引き下がろうとはしなかった。
「どうしても、取って欲しいんだ」
「そんなこと言われたって……いったい何なの? 理由は?」
「これ――」
 秀平は通勤カバンから、パンフレットのような冊子を取り出した。そして、それを梨緒子の目の前に静かに差し出してくる。
 その表紙には、美しい外国の風景と旅行代理店のロゴが印刷されていた。
 梨緒子は、秀平からパンフレットを受け取った。
「今年の結婚記念日に、一緒に行きたいんだけど」
「……結婚、記念日?」
 秀平の言葉の意味するものが、梨緒子はすぐに分からなかった。
 夫が突然言い出した、無謀ともいえる頼みの『裏』にあるもの――。
「三年も待たせておいて、新婚旅行なんていまさらかもしれないけど」
 そう言って秀平は、ベッドの上でパンフレットを握りしめる梨緒子に、再び背を向けた。ネクタイを解き、シャツの衿からそれを抜き取っていく。
「そんな……私、別に気にしてないから」
 そう。
 新婚旅行をしないことは、二人で決めたことだ。
 挙式の費用ですら、お互いの両親にいくらかの援助をしてもらった。
 社会人として未熟だった二人は、時間的にも金銭的にも海外旅行にいける余裕などなく――。

 思い描いていた華やかな結婚とは、イメージがかけ離れていたことは確かだったが、それでも。
 何もない状態で結婚に踏み切ったこと、梨緒子はまったく後悔はしていない。

 梨緒子は無言で着替えを続ける夫の背中に向かって、そっと答えた。
「何とか頼んでみるけど……でも、その代わり来月は休みなしで働かなくちゃいけないかも」
 梨緒子は、夫に反論する気を失くしてしまっていた。
 すでに梨緒子の頭の中は、一週間もの休みをどうやって取ろうか、そのことでいっぱいだった。
 下手な嘘をつくより、素直に理由を話したほうが良さそうだが――はたしてどうなることやら、まったく見当がつかない。
「分かったよ。その間は、家事をなるべく手伝うようにするから」
 俄然、新婚旅行が現実味を帯びてきた。
 本当に、彼と二人で――。

 梨緒子はパジャマ姿でベッドから下り、着替え途中の秀平の背中に、勢いよく抱きついた。
「梨緒子?」
「嬉しい、すごく」
 無駄のない張りのある感触が、シャツを通して梨緒子の頬に伝わってくる。
 秀平は抱きつかれたまま、じっとしている。
「そう、良かった」
 背中越しに聞こえる彼の声は、どこまでも深くそして優しい。

 愛しい、この男のすべてが。

「せっかく風呂に入ったのに、そんなに抱きつくなよ。汚れるだろ」
 秀平は梨緒子の腕を解こうと、身体をよじった。
 しかし、梨緒子は言うことを聞き入れずに、逆にしっかりと秀平の背中にしがみつく。
「そしたら、また入るからいいもん」
 秀平は黙った。
 少女のようにじゃれつく妻に、夫はあきれ返ったようなため息をついてみせる。
 それは照れ隠しなのか、あるいは――。
「……じゃあ、一緒に入るか」
 あくまで淡々と、夫はさらりと妻を誘う。
 梨緒子は秀平の背中に額を押しつけるようにして、ウンと小さく返事をした。


(了)