サプライズタイム

 永瀬梨緒子は、看護師となって四年と三ヶ月である。
 ようやく一人前に働けるようになってきたとはいえ、まだまだ日々勉強中。気の抜けない毎日だ。

 そして、そんな彼女は、結婚して三年三ヶ月。同期の看護師の間でも、先頭切ってのゴールインとなった。
 初めは、物珍しいと散々冷やかされたりしたものだが、今ではすっかり落ち着いてしまっている。
 そう、結婚なんて戸籍上の問題。
 同じ姓を名乗るというだけの話で、現況は「彼氏と同棲している」のと大差はない。

 なぜ、結婚したのか。それは、彼がそうしたいと望んだからだ。
 当時彼は大学を卒業したばかりで、梨緒子も看護師二年目。お互い二十二歳というときだった。
 早すぎるというほどではないが、子供が出来てしまったわけでもないのに――むしろその点においては、彼は子供が出来ないように最大限の注意を払っていたほどだったが――彼がこれほどまでに早く結婚に踏み切ったことに、周囲の驚きは大きかった。
 それに対して、彼は淡々と言った。

 いずれ必ず結婚するなら、今すぐしても同じこと、と。

 しかし、結婚して三年を経て。
 これなら結婚しなくても同じだったのではないか――そんな考えが梨緒子の中にあった。



 今夜は、梨緒子の職場に新しく入った看護師の歓迎会である。
 会場は、勤務する病院の近くにある、行きつけの居酒屋だ。
 夜勤の同僚数名が揃わないため、看護師ばかり十名ほどの小さな宴会となった。

「永瀬さん、顔色悪いけど大丈夫?」
 飲み会メンバーの最年長である師長が、梨緒子の様子をうかがうようにして見ている。職業柄、些細な体調の変化も見逃さない。
 すると、梨緒子が返事をするよりも先に、後輩である新米看護師が、体調の優れぬ先輩を冷やかした。
「ほらー、超男前の旦那さんに迎えに来てもらったらどうですか?」
 後輩たちの間では、すでにいろいろな憶測が飛び交っているらしい。
 梨緒子は慣れたように苦笑いをしてみせると、今度は師長につかまってしまった。
「永瀬さんの旦那さんって、お幾つ?」
 みな、興味深げに師長と梨緒子のやり取りに耳を傾ける。
 今まで、聞きたくても聞けずにいたらしい。
 別に隠しているつもりはなかったのだが――梨緒子はダルさと戦いながら、ゆっくりと答えた。
「同い年なんで、……今年で26です」
「あら、まだ若いのね。そんなに素適なの?」
 すると、今度は梨緒子の同期の看護師が、酒の酔いも手伝ってか、まるで自分の話のように説明をしてみせる。
「ホントですよ師長! 私、三年前の結婚式に見て、ビックリしましたよ! しかも北大出身のエリートくんだし!」
「あら。どこでつかまえたの、そんなイイ男」
「……高校の同級生なんです」
 梨緒子は淡々と答えた。
「え、じゃあ永瀬さんと旦那さんって、高校のときから付き合ってて、そのままゴールインしちゃったんですか??」
「そう! 出来ちゃったでもないのに、彼が大学卒業してすぐにプロポーズして結婚……はあああ、恋の神様って、本当に不公平」
「ささ、早く呼んで! ぜひぜひご尊顔を拝ませてもらうわ」
 梨緒子は師長の勧めに根負けし、その場から夫である永瀬秀平の携帯に連絡を入れた。
「迎えに来るって言ってました。まだ職場にいるので三十分はかかるみたいです」
「さっすが。できた旦那様っぷりじゃない!」
 梨緒子は全身を襲う倦怠感のため、同僚の冷やかしを適当な愛想笑いで流してしまった。


 そのまま宴会は続いた。
 十五分ほど経ったころ、トイレから戻ってきた後輩が、興奮気味に語り出した。
「ちょっと! いま、めっちゃカッコいい人発見した!」
「ええ、どこどこ?」
「いまレジのところで店員さんと話してる、ほら、あの背の高い濃いグレーのスーツの人!」
「スタイルは確かにいいけど、こっち振り向かないかな……」
「うそ、早い」
 その言葉に、みな驚いたように梨緒子を振り返った。
 状況が飲み込めないのか、その場が一瞬にして静まってしまう。
 梨緒子はおずおずと口を開いた。
「えっと……あれ、うちの主人です」
「三十分経ってないよね?」
「うわー、よっぽど心配だったんじゃないですかー? 永瀬さんたちって、夫婦らぶらぶー」
 店員に所在を尋ねていたスーツ姿の秀平が、すぐに梨緒子たちのボックステーブルへと近づいてくる。
 年配の師長がそそくさと立ち上がり、すかさず片手を差し出して秀平を出迎えた。
「看護師長の島田です。お近づきのしるしに、握手など」
「あ、師長ズルイ。職権乱用! 私にも握手してください!」
「どこにお勤めなんですか? 今度合コンしません?」
 秀平は途惑った表情を見せ、反応に困っている。
 そして、人垣の合間から素早く梨緒子を捜すと、秀平の手は握手に差し出された看護師たちの手ではなく、梨緒子の腕だけをしっかりと掴んで、そして引き寄せた。
「済みません。妻がご迷惑をおかけしました。このまま連れて帰りますので」
 秀平が企業に就職してようやく身につけた「営業用スマイル」を看護師たちに向けると、キャアと黄色い声が複数漏れた。


「具合悪いって、飲み過ぎたの?」
 梨緒子は首を横に振った。
 店の外は夜風が涼しい。倦怠感が幾分和らぐ。
 秀平は特に理由を追及する事もなく、淡々と説明をする。
「家まで送っていく。俺、そのあとまた研究室に戻るけど」
「ここ三ヶ月、ずっとそればっかりだね」
「別に、俺だって遊んでるわけじゃないんだから」
 さんざん放って置かれて拗ねて機嫌を損ねてしまった妻を、夫は肩をすくめて弁解をし、なだめてみせる。
「来週、プロジェクトがひと段落するから。そしたら二人でゆっくり過ごそう」
「あのね、話があるの」
 梨緒子はあえて試すように言った。
「私たち、このまま結婚していても意味があるのかな?」
「言っている意味が解らないんだけど」
「自分の妻が体調悪くても、放って置いてまた仕事に行く? それでも同じ屋根の下に暮らす夫婦?」
「看護師なんだから、自分の体調くらい自分で管理できるだろ。そんな、子供じゃないんだから――」

「聞こえましたかー? パパはねー、本当にどうしようもない仕事バカなひとなんでちゅよー」

 秀平の周囲の時間が止まった。
 微動だにせず、端整な面持ちを強ばらせたまま、妻の顔を穴の開くほどじっと見つめている。
 梨緒子はひたすら待った。
 彼がすべてに気づくのを、気の遠くなるような沈黙にその身を委ね、待ち続けた。

「それ…………子供?」
「うん」
「俺の?」
「当たり前でしょ」
 梨緒子は立ち尽くす秀平の手をとり、それを自分のお腹に当ててやる。
「パパは、この人だよー」
 秀平はゆっくりと梨緒子のお腹から手を離した。
「具合悪いって、そういうこと?」
「うん」
「いつ生まれるの?」
「今まだ三ヶ月目だから、来年の春――かな」
「…………」
「嬉しく……ないの?」
 夫の秀平が小さな子供を可愛がるイメージはなかった。
 結婚して早三年。
 彼の口から「子供が欲しい」という言葉は一度も発せられていない。
 しかし、結婚してからの夫婦生活では、彼は避妊をしなくなっている。
 いつ子供ができてもおかしくない事は、彼自身理解している筈なのだが――その表情はおそろしく冷ややかだった。
 その冷たい表情の理由は、次に彼の発する言葉に集約されていた。
「何やってるんだよ……だったら、こんなところで飲んでる場合じゃないだろ」
「アルコールは飲んでなかったもん」
 秀平は持ち前の亭主関白ぶりを、ここぞとばかりに発揮する。
「それとこれとは話が別だろう。梨緒子はいつもそうだ。何かあってからじゃ遅いんだ。ほら、すぐに帰って横にならないと」
「そんな、病人じゃないんだから……」
 梨緒子はこみ上げてくる可笑しさをこらえるのに必死だった。
 これは、彼が自分にだけに見せる一面なのだ。
 付き合い始めた高校時代から、こういうところは変わっていない。
「空気の淀んだ人込みは、絶対駄目。煙草を吸っている人には近づかないで。これからは規則正しい生活しないと。外食は禁止。コンビニ弁当も駄目。明日からお弁当は俺が作る」
「あれも駄目これも駄目とか、禁止ばっかり……」
「当たり前だろう。俺の子供を育てるんだから、ちゃんと頑張ってもらわないと。だから、わがままは一切許しません」
「……はーい。えへへ」
 梨緒子は、真剣な話をされているのにも関わらず、嬉しさをこらえられずに笑ってしまう。
 秀平は、もはや何を言っても無駄だとあきらめたのか、小さくため息をつき、フッと、照れたように笑った。


(了)