シングルタイム

 年に一度あるかないかの大きなプロジェクトが、ようやく山場を越えた。
 そのプロジェクトに参加する同じ部署の若手有志が、打ち上げと称して『飲み会』を企画した。
 しかし、突発的な行き当たりばったりの誘いに、面子はまるで揃わない。
 結局、言い出した若手リーダー格の神原大輔と、まだまだ新人気分の後輩・根本亜紀の二人が、「参加」の意思表示をしただけだった。

 亜紀はあからさまにうんざりした顔を作り、神原大輔の席へとやってくる。
「ええー、神原さんとうちだけ?」
「ええーって、こっちのセリフだよ。言っとくけど、おごらねーからな。総務課のアイちゃん連れてきたら、おごってやってもいいけど」
「それって、アイちゃんの分だけなんでしょ。神原さんって、ほんとケチ。だからモテないんですよ。ちょっとは永瀬さんを見習ったらどうなんです?」
 亜紀は神原大輔と席を並べている男を引き合いに出した。
 永瀬秀平。
 神原大輔とは同期入社だが、一足先に「主任」のポストについている。
 永瀬秀平は、神崎と同期とはとても思えない品と知性と落ち着きがあり、その涼やかな容姿も相まって、女子社員から絶大な人気を博している。
「永瀬のどこをどう見習えって。こいつこそ、女にびた一文おごらないケチ男じゃねーか」
「妻帯者なんだから、当然でしょ。永瀬さんはそこがいいの! とにかく奥さん一筋ってところが」
 聞こえているはずなのに、秀平は会話に入ってこようとはしない。
 謙虚な微笑みを一瞬だけ亜紀に向けると、淡々とデータの整理をし、報告書をまとめている。
「とにかく、亜紀と二人じゃあれだからよー、アイちゃん連れてきてくれよ」
「そんなの駄目ですって。アイちゃん、今夜は彼氏とデートだから」
「彼氏? うそ、誰? この間聞いた時は彼氏いないって言ってたのに……」
 すると。
 報告書をまとめ終わったらしい秀平が、二人の背後から声を掛けてきた。
「今日は、俺も一緒に行こうかな」
 神原は椅子を回転させ、席を並べる秀平のほうへと向き直る。
「あれ、永瀬。今日は早く帰らなくていいのか?」
「うん。しばらくは一人なんだ。うちのやつ、おとといから実家に帰ってるから」
「嫁さん実家に帰ったって、ハハッ、また夫婦ゲンカか?」
 神原は意味ありげに、秀平の肩を数度叩いた。
「もう神原さん、何でそんなこと言うんですか」
「冗談だって。バーカ、俺だって分かってるよ。臨月なんだろ?」
 同期の冷やかしにも、秀平は動じることはない。
 身重の妻のことを労わるように、優しいため息を吐き出していく。
「実家にいてくれた方が、俺も安心だし――」
 しかし、独身の同僚には、秀平の気持ちがまるで理解できないものらしい。
「安心して、嫁さんいない間に羽目外して、浮気しちゃったりしてな?」
「ひどい! 永瀬さんがそんなことするわけないでしょ!」
 秀平よりも先に、亜紀がするどく反論した。
「お前、コイツの何を知ってるって言うんだよ。同期の俺はよく分かってる。コイツは二重人格なんだからな」
「……」
 神原に指を差され、秀平は黙った。
 興味のないことや都合の悪いことには黙る気質であることは、神原は承知済みだ。
 黙る秀平に構わず、神原は続ける。
「クールに振舞ってるけど、かなりの女好きだしなー。嫁限定だけど」
「……」
「手も早いから、結婚も早かったってわけだし――ぐわっ」
 そこまで言ったところで、神原は喉を詰まらせたような奇妙な声を出した。
 その原因は、後輩・根本亜紀である。
「後ろから首締めんなよお前! 死んじゃうだろうが!」
「いい加減にしてください。せっかく永瀬さんが一緒に飲みにいってくれるっていうのに! 何で永瀬さんを怒らせて黙らせちゃうんですか神原さんはーっ!!」
「本当のこと言って何が悪いんだよ!」
「怒らせるようなこと、わざわざ言う必要ないでしょー!?」
 売り言葉に買い言葉。どんどんエスカレートしていく気配濃厚である。
 そんな中。
 言い争う二人の仲裁に入るでもなく、秀平はポツリとひと言だけ呟いた。
「……いや、怒ってないから」


 会社のすぐ近くにある小さな居酒屋へと、三人はやってきた。
 滅多に飲み会には参加しない秀平が加わったことで、亜紀のテンションはいつになく高かった。
 お酒の力も借りて、いつもは聞けないつっこんだ質問を、秀平に矢継ぎ早に繰り出していく。
「永瀬さんと奥さんって、恋愛結婚だったんですか?」
 秀平はグラスを傾けながら、途惑ったように視線を泳がせている。
「そりゃそーだろ。入社してすぐ結婚したんだから」
「神原さんには聞いてないの。どのくらい付き合ってたんですか? 同じ大学とか?」
 自分のことをあまり語らない秀平は、女子社員にとって謎めいた存在だ。
 ようやく秀平本人の口から、答えが返ってくる。
「大学は違うよ。高校の同級生で、その頃から付き合って……大学の間はずっと遠距離だったから」
「ええ? 四年も遠距離続けて、結婚まで辿り着いたんですか? すごい、永瀬さんたちってラブラブー」
「そうかぁ? 去年だかおととしだか、離婚するしないで別居までしてたよな」
「それは――」
 秀平は言葉を詰まらせた。
「お前が悪かったんだろ。俺は嫁さんの味方だ」
 神原はキッパリと言い切った。
 一連の事情を、神原はすべて知っている。
 それは当時、神原が『相談』と称して、秀平から根掘り葉掘りしつこく、事の次第を聞き出していただけだったりするのだが――。
「ええー、何で永瀬さんが悪いんですか? そんなのありえないんですけど」
「こいつ、嫁さんのこと好きすぎるんだよ。そうだ、亜紀にいいこと教えてやろうか。永瀬はな、女に振られたことがないんだ」
「そりゃそうでしょ? 永瀬さんみたいなカッコいい人が振られるわけないじゃないですか」
 当たり前だと、亜紀は神原の話をあっさりと切り捨てた。
 しかし。
「まあ、話は最後まで聞け。振られたこともないが、振ったこともないんだ。つまりだな……なんとコイツは、嫁さんしか女を知らない!」
 神原の言葉に、亜紀は固まった。
 そして、その事実を確認するよう、秀平のほうへおずおずと顔を向ける。
「えっ…………そ、そうなんですか?」
「一人で充分だよ」
 信じられない話だが、本人が肯定しているのだから、間違いはないのだろう。
 亜紀の、永瀬秀平に対する評価は、このとき確実に変わった。

 気心知れた仲間内の小さな飲み会では、話題が次々と変わっていく。
 仕事の話から、時事ネタ、プライベートな話まで、会話は終わりなく続いていく。
「そうだ永瀬さん、予定日はいつなんですか?」
 秀平は、しつこく聞き出す神原以外にはほとんどプライベートを明かさない。そのため、亜紀には聞いてみたいことは山ほどあった。
「まだもうちょっと先だよ。あと三週間くらいかな」
 わずかに、秀平の表情が和らいだ。まだ見ぬ我が子への思いが、その柔らかな顔から伝わってくる。
「性別、どっちか分かってるんですか?」
「うん。女の子だって」
「へー、なんか似合いますね。永瀬さんって、娘さんのパパって感じするー。永瀬さん似の子供だったら、メッチャ可愛いんだろうなー。あー、いいなー、永瀬さんだったら、絶対自慢のパパだもん」
 まるで自分が娘になったかのように、亜紀ははしゃいでいる。
 亜紀は相当酔っているらしい。目の前のグラスの中身を豪快に空けていく。
 その隙に、すかさず神原が会話に便乗して、秀平の懐へと入り込んだ。
「俺、前から思ってたんだけどさー、その子供、完全『ハネムーン・ベビー』だろ」
 酔いに任せて何気なく発せられた同僚の言葉に、秀平は彫像のように固まった。
「え――」
 完全に、二の句が継げなくなっている。

 神原の言う『ハネムーン』とは、秀平が昨年の六月に一週間の休暇を取って、三回目の結婚記念日に合わせて出かけた海外旅行のことだ。
 結婚した当時は、金銭面で贅沢できるような状況になかったため、新婚旅行をしていなかったのである。

 亜紀はテーブルの上にグラスを叩きつけるようにして置き、軽蔑の眼差しを神原に向けた。
「神原さんって、ホント下世話なんだから。いるんですよねーこういう人。いちいち逆算して、いつデキただの何だの……あー、やだやだ」
 そう言って、亜紀はうんざりしたようなため息を吐き出した。
 神原大輔と永瀬秀平という二人の男が、とても同い年の先輩には見えないらしい。
 人種が違うと言ってしまえばそれまでなのだが、しかし格差がありすぎる。
 そんな、相容れなさそうな二人が普段から仲良くしていることが、亜紀は不思議でならない。
「何言ってんだよ、みんな心の中では思ってるだろ。三回目の結婚記念日でようやく新婚旅行なんていったら、気分は盛り上がるだろ? 苦労してきた分嬉しさひとしおだ! やっぱなー、思いっきり頑張っちゃうだろーよ」
「……」
 秀平は、黙った。
 端正な面持ちをこわばらせたまま、じっとグラスを見つめている。
「もう、永瀬さん怒っちゃったじゃない! 神原さんのバカバカバカ!」
「ちょ、お前、先輩に向かっておしぼり投げんじゃねーよ」
 険悪なムード漂う男女を横目に、秀平は物憂げに瞳を瞬かせながら、淡々と言った。
「いや……別に怒ってなんかないよ。たぶん、そうなんだろうな、と思って」
 神原と亜紀は、思わず顔を見合わせた。意外な反応に、二人は驚きを隠せない。
「うわ、認めちゃったよ。よーし、これで子供の呼び名はハニーちゃんで決定だな」
 神原の冷やかしに、秀平は苦笑いで応える。
 そして。
 グラスの中身をゆっくりと飲み干し、早く会いたいな、と小さな声で呟くように言った。


(了)