迷子の子猫  完結記念小話

「何ぃ、女ぁぁ? そいつはキナ臭えな」
 神原大輔は、かかってきた内線電話を取るなり、芝居がかった大声で受け答えをし始めた。
 そんな部署の先輩に、半ば軽蔑の眼差しを向けているのは、根本亜紀という後輩の女子社員だ。
「課長がいないからって、羽目外し過ぎなんじゃないの? いい、中村くん。その人は反面教師だから。見習っちゃ絶対に駄目。お手本にするのはこっちだからね?」
 亜紀は、今年四月に入社し研修期間を終えて最近配属になったばかりの『中村』という若い男性新入社員に、的確なアドバイスをする。
「神原さん、いまの受付の子を性懲りもなく狙ってるの。だから、受付からの内線だけは異様に出るのが早いし、ああやって大袈裟にふざけて、要するに面白い男だって思われたいんでしょ。三十過ぎて何やってんだか……痛すぎるよね、ホント。それに比べて永瀬主任は!」
 亜紀は、自分のデスクで淡々とデータの作成をしている男の背中に取りすがり、なおも新人に説明を続ける。
「早々と身を固めてもうじき十年。奥さん一筋で、可愛い娘は来年小学校。神原さんは同期のはずなのに、どうしてここまで差がついちゃったんだろう……神様って、ホント不公平よねえ」
 ようやく神原が内線電話を切った。
「永瀬、お前に女の客が訪ねてきてるって。アポなしで」
「お客? メーカー? クライアント?」
「さあな。『まゆこ』っていう名前の女だってよ」
 永瀬はいつになく冷静さを逸した状態で席を立ち、神原に詰め寄った。そして、先ほどの電話の内容を問いただす。
「ここに? 誰かと一緒? ひとりで?」
「そこまで聞いてねえよ。どうせ『訳あり』なんだろうからよ。ハハッ」
 そう言って、神原は含みのある笑顔を同期の男に向けている。
 神原では話にならないと悟ったのか、永瀬は自分から受付に内線をかけた。

 永瀬秀平が受付へ問い合わせの電話をしている後ろで、課員たちのおしゃべりは続く。
 中村青年は先輩の神原に、素直に疑問をぶつけた。
「まゆこって、ひょっとして永瀬主任の奥さんですか?」
「奥さんは『りおこ』。『まゆこ』は愛人なんじゃねーの? ハハッ」
 神原のおちょくるような物言いに、亜紀がブチ切れた。
「もう! 中村くんが信じちゃうでしょ? 何なの神原さん、バカでしょ! バカだよね?」
「先輩に向かってバカバカ言うんじゃねーよ、お前」
 また始まった――中村は止めることもできずに、ただその様子を見守っていた。
 この部署に配属になってからまだ一ヶ月足らずであるが、毎日のように繰り広げられている光景である。
 ケンカばかりしているが、案外いいコンビなのではないかと、中村はひそかに思っている。
「俺、ちょっと席外すから。至急なら携帯鳴らして」
 電話を終えた永瀬は同僚たちにそう声をかけ、部署の外へと出て行ってしまった。
 おそらく、『まゆこ』という女性に会うために、受付まで出向くのだろう。
「中村、お前受付に見にいって確かめてこいよ。永瀬のちょーらぶらぶな愛人」
 神原大輔が、いまだ合点のいかない顔で立ち尽くす新人を、半ば無理矢理にけしかけた。


 中村青年は神原に言われるがまま、エレベーターで一階に降り、見つからないように柱と観葉植物の間の隙間から、受付付近の様子をうかがった。

 子供を連れた女性がいた。
 主任の永瀬よりも幾分年上だろう。三十代後半、もしくは四十代かもしれない。

 ――嘘だ。あの永瀬主任に子持ちの愛人?

 子供が女性の手を離れ、永瀬のすらりとした長い脚に絡みつく。
 しかし、中村青年が会話のやりとりを聞いた限りでは、どうやら永瀬主任と女性は初対面のようだった。
 また、女性と子供も、母娘という関係ではないようだ。
 やがて、永瀬が女性に頭を下げると、その女性は笑顔で子供に手を振り、受付から会社の外へと出て行ってしまった。

 完全に理解不能である。
 中村青年の頭の中には、疑問符がいくつも浮かび上がっていた。
 いまだに女の子は脚にすがりついたままだ。どうやら泣き出してしまったようである。
 永瀬は泣きじゃくる女の子を優しく引き剥がすと、その場に膝をついて、女の子と目線の高さを合わせた。すぐさま女の子は、永瀬の首に手を回すようにして抱きつく。
 あやすようにして頭を撫でているその姿を物陰から見て、中村青年はようやく『愛人』の正体が何であるかを理解できた気がした。
 小さな女の子を抱き締めている永瀬の携帯の着信音が、受付のエントランスに響く。
 抱き締めたまま、スーツの上着のうちポケットを探り、永瀬は器用に携帯電話を取り出した。
「ママからだ。――はい、どうしたの」
 女の子が泣き止んだ。
 父親と母親が電話で話しているのを、しっかりと抱きついたまま、どこか不安げな表情で見つめている。
「落ち着いて……もうちょっと声量落としてくれる? マユコならここにいるよ。うん。迷子になってたみたいで、親切な人がここまで連れてきてくれた。マユコが俺の会社の名前を覚えてたみたいで、それで――お願いだから落ち着いて」

 ――ああ、やっぱりあの子が『まゆこ』なんだ。

「さあ、ママとお話して」
 永瀬が女の子に携帯を手渡した。
 小さな手でそれを掴み、父親に支えられながら電話の向こうにいるであろう母親と話し始める。
「ママ……だって……ぐすっ、うううう」
 女の子は再び、父親の身体にぐずるようにして抱きついた。
 永瀬は女の子の手から自分の携帯電話を取り上げ、妻と話し続けた。
「そんな、頭ごなしに怒鳴ることないだろ。無事だったんだから。幼稚園に連絡しておいて。マユコはあとで江波のお義母さんに預けてくるから。うん。じゃあ詳しいことは夜に。はい。わかった」
 女の子の母親は、相当心配していたのだろう。突然迷子になったことを知らされて、取り乱して夫に電話をかけてきたであろう事は、中村青年にも容易に想像がつく。
 それにしても――。
 中村青年の知る『永瀬主任』という男は、まるで家庭の匂いのさせない、どこまでもクールで、冷静で、仕事一筋で、どこか近寄りがたい人間だと思っていたが――そのイメージは一気に覆されることとなる。

「ううう、ぐすっ、ママ怖い……まゆのこと嫌いになったんだ……ううう」
「ママは、マユコのことが嫌いで怒ったんじゃないよ。マユコのことを本当に心配してたんだから。分かるよね?」
「うん。ぐすっ」
「お友達とケンカしたんだって? だからって、勝手に幼稚園を一人で飛び出したら駄目だよ。ママもパパも心配するんだよ」
「――ひっく」
「マユコは、来年にはお姉ちゃんになるんだから。あまりママを心配させないで」
「……ううう、ひっく」
「帰ったら、パパも一緒にママに謝ってあげるから。ほら、もう泣かなくてもいいよ」
「うん。ぐすっ」
「大丈夫だよ。ママはどんなことがあっても、最後には必ず許してくれるんだから」
「……ホントに?」
「パパは嘘つかないよ」

 きっとこの男は、妻と娘を溺愛しているのだろう――父娘のやりとりで、いろいろな優しい想いが伝わってくる。
 中村青年は身を潜めていた物陰から出ると、永瀬父娘のもとへと近づき、背後から声をかけた。
「『まゆこ』ちゃんって、主任の娘さんだったんですね」
 娘に抱きつかれ膝をついた状態のままで、永瀬は振り返る。
「中村? どうしたの? 何でそんなところに」
「いや、あの……神原さんが、主任の愛人の顔を確かめてこいって言うので――すみません」
「愛人? ……まったく、神原のやつ」
 永瀬は大きくため息をつき、抱きつく娘を引き剥がして、その場に立ち上がった。膝の汚れを払う間もなく、すかさず娘が脚にまとわりつく。
 永瀬はそんな娘の頭を撫でながら、中村青年のほうへと向き直った。
「マユコ、ご挨拶して」
「ながせまゆこです。ごさい、です」
「よくできました」
 父親が褒めると、娘は父親を見上げ、嬉しそうに笑った。
「まゆこちゃんって、どういう字書くんですか?」
「真贋の『真』、優遇の『優』、子猫の『子』」
 その漢字の変換を理解するのに、中村青年はいくらかの時間を要した。
 永瀬の頭脳がどうなっているのか分からないが、彼はときおりこうやって、小難しいことを口にしたりするのである。
『真に優しい子、ってことですよね。要するに」
「まあ、要するならそうかな」
 だったら初めからそう説明してくれたらいいのに――ひょっとしたらそれが本当の意味で、あえてはぐらかして説明しているのでは――そう中村は思った。
 気難しいのか、もしくは重度の照れ屋なのか。
 案外、後者が正しいのかもしれない。
「しかも、二人目って本当ですか?」
「ああ、うん。別に隠してたわけじゃないんだけど。でも、もうちょっとだけ内緒にしておいて。外野がいろいろとうるさいから」
 外野――それは、いま部署に残っている二人の同僚のことであるのは、中村青年にもすぐに理解できた。
「了解です! それじゃ、早く課に戻りましょう。真優子ちゃん連れて」
「真優子も? それはちょっと――子供の遊び場じゃないんだし」
「いいじゃないですか、真優子ちゃんもパパがお仕事してるところ、見たいよね」
 小さな女の子は、父親のズボンを掴み恥ずかしそうに頷く。
「でも――」
「大丈夫ですよ。課長も出張中ですし、神原さんと根本さんしかいませんから」
 中村青年が尚もたたみかけるようにしてそう言うと。
 永瀬は困ったように深々とため息をついた。その先の展開がどうなるのか、感覚的にも経験的にも悟っているためだろう。
「そっちの方が厄介な気もするけど……まあ、いいか」
 秀平はあきらめたように苦笑すると、ゆっくりと愛娘を抱き上げ、その優しい両腕の中にしっかりと収めた。


(了)