Secrets of delicious sweets

 終業時刻はとっくに過ぎ去り、会社のフロアは閑散としていた。残っているのは青年一人だけだ。
 青年は仕事が好きだった。人付き合いが苦手だということもあったが、やはり人のいなくなった職場のデスクで一人黙々と仕事をこなすほうが、とにかく落ち着くからだった。

 正規の勤務時間は、トラップがいっぱいだ。
 顔と名前の一致しない女子社員が、入れ替わり立ち替わり青年のもとへとやってきては、お茶汲みやコピーとりの志願をしたり、およそ仕事と関係のないことを延々と話しかけてきたり――とにかく疲れを覚えることが多いのである。


 一段落つき、青年は椅子の上で軽く伸びをした。静まり返っている空気がどこまでも心地いい。
 息を吐き出しながら、ゆっくりと体の力を抜いたその時である。
「あの――ケーキ、いかがですか?」
 どこからか声がした。
 青年がとっさに振り返ると、すぐそこに一人の若い女性が立っていた。
 突然の出来事に一瞬思考が停止したが、落ち着いてよく見るとそれは、冬休みを利用してアルバイトに来ている女子大生だった。
 思わず青年は、壁掛け時計に目をやった。もうすでに午後八時を回っている。
「どうしたの、笹野さん。君のアルバイトは五時までだろう?」
「あ、私の名前、覚えていてくださってたんですね」
「……」
 青年は首を傾げた。
 名前を覚えていることがそんなに珍しいことなのか――確かに青年は女子社員の名前と顔を一致させるのが苦手だったが、それは彼女たちが同じ制服を着て、同じような化粧をして、同じようなことを話しかけてくるからである。
 そんな女子社員たちとは一線を画して、いつもリクルートスーツのような地味めな格好をして雑用をこなす女の子は、青年の目にはとにかく印象的に映っていた――ただそれだけのことである。
「あの、ここのケーキ屋さん、とっても美味しいんですよ。裏通りにある小さなお店なんですけど」
「……」
 青年はようやく、彼女が自分に話しかけてきた用件を思い出した。
 この手の話題は、顔の判別もつかない女子社員たちに、しょっちゅうされている。青年が最も苦手とするやり取りだ。
「一つだけってどうしても買いにくくて、食べきれないのに十個も買っちゃったんです。ここに寄ればまだ誰かいるかな、と思って」
「……」
「永瀬さん、良かったら食べていただけませんか? イチゴの入ったロールケーキが本当に美味しいんですよ」
「どうして僕に?」
「どうしてって、ここに永瀬さんしかいませんから」
 話を聞く分には、青年への差し入れとして購入したものではなさそうだ。
 しかし。
 なんだか面倒なことになった、と青年は思った。
「僕は――」
「知ってます。他人から物をもらうの、お好きじゃないんですよね」
 青年の心臓が、ドキリとひときわ高鳴った。続く言葉を、思わず喉の奥に引っ込める。
 他人からどう思われていようが、まったく興味がなかったはずなのだが――なぜかこの時ばかりは、異様なほどの焦燥感に駆られてしまった。
 その焦りを気取られぬよう、青年はあえてつけ放すように言う。
「どうして十個も? 別に、一つだけ買えばいいだろう? 食べきれないと分かっているのに余分に買うなんて、お金の無駄遣いじゃないのか」
「それはあの、そうなんですけど」
 しばらく沈黙が続いた。彼女は返答に困っている――それは、青年には手に取るように分かった。
「私、今日、誕生日なんです」
「……」
「一人だけで美味しいものを食べるのが、ちょっとさみしかったんですよね」
 その表情を見て。
 いつも女子社員たちにしているように、適当に冷たくあしらってしまったことを、青年は悔いた。
 女の子が自分の誕生日のためにたくさん買ってしまったケーキを、誰かに食べてもらいたいという、たったそれだけのことだったのに――。
 それをお金の無駄遣いなどと、切り捨ててしまうなんて、男としてはあまりにも情けない言動だ。
 やがて、青年は憑き物が落ちたように、深々とため息をついた。
「その辺に置いといて。あとで食べるから」
「食べていただけるんですか?」
 女子学生の顔が、初夏の青空のように一気に晴れた。
 青年はその変化に驚きつつ、付け加えるようにして説明をした。
「ここの店の……イチゴのロールケーキは、確かに美味しい、と思う」
「ご存じだったんですか。良かった。好きな人に食べられたほうが、ケーキも嬉しいですもんね」
 言葉ではうまく言い表すことのできない不思議な感情が、青年の胸の内をゆっくりと染めていく。
 彼女はきっと特別なのだ――自分の心を揺り動かす何かを持った、特別な存在なのだと、青年は根拠もなくそう思った。
 箱の中からいい香りのするケーキを一切れ取り出し、青年の仕事の邪魔にならないように、机の隅に遠慮がちに差し出してくる。
 クリームの上のイチゴが、嬉しそうに青年に微笑みかけた。
「ありがとう――いや、おめでとう」
「あ、お茶淹れてきますね」
「いや、いい。自分でやるから、君は早く帰ればいいよ」
「はい。ではお先します。お疲れ様でした」
 大きな箱に元通り蓋をし、大切そうにそれを抱え、女子学生は青年にぺこりと頭を下げた。
「笹野さん、ちょっと」
「はい?」
「やっぱりそれ、全部僕が食べる。お金払うから」
「え? あ、はい。いいですよ。お一つじゃ足りないですよね。私、またお店寄って買って帰りますから、大丈夫です」
「そうじゃなくて」
 何を言ってもうまく伝わらない。
 しかし。
 彼女はそれ以上に、青年の言葉を素直に、そしてすべてを苦もなく受け止める。
「僕は、お店で食べるほうが好きなんだ。クリームとかフルーツとかいろいろついてくるし。絶対そのほうが美味しいんだ」
「そうなんですか。じゃあ、今度試してみますね」
「明日、土曜の午後とか」
「え?」
「新メニューが出るし、誕生日ならそのほうが――そのほうが、ケーキもきっと嬉しい……のかな、君風に言えば。だからこのケーキは、今日は食べないでいて欲しいんだけど」
 彼女は首を傾げている。青年の言いたいことが、やはりうまく伝わっていないようだ。
 もどかしい。
 青年は何とか思っていることを伝えようと、できるだけ解りやすい言葉を選び、それを早口でさらりと告げた。
「だからその、君があの店のケーキが好きなら、一緒に食べるのも悪くないのかなと思って」
 二人の間に、永遠にも似た長い沈黙が訪れた。
 女子学生の微妙な表情を見て、自分の発言が彼女を途惑わせるものだったことに青年は気づいた。

 誕生日に一人でケーキを食べるのがさみしいと言ったからといって――自分と一緒に食べたほうがいいと彼女が思うとは限らないのである。
 考えれば考えるほど、自分の言動は間違いだったのだと悔やまれた。

 青年は発言を取り消そうと口を開きかけた。
 すると。
「永瀬さんって、とっても面白い人なんですねー」
 彼女は笑顔を見せていた。
 今までに見たことのない、その彼女の柔らかな表情に、青年は再び心をとらえられた。
「……面白い? 僕が?」
「じゃあ、明日まで誕生日のケーキは我慢します!」
 どこまでも嬉しそうにして人懐っこい笑顔を見せる彼女に思わずつられて、青年はふわりと表情を崩した。


(了)