ストロベリータイム
花咲き乱れる四月初めの、とある週末のことである。
優作少年は自宅の居間で、宿題として出された算数のプリントを広げ、一つ一つ解き進めていた。
静かな永瀬邸内に、インターホンの音が響いた。
親が一緒にいないときは、勝手に来客に出てはいけないときつく言われている。
優作が構わず宿題を続けていると、外から鍵が外される音がした。
玄関の物音。そして、廊下を歩いてくる足音が次第に大きくなる。それは、よく知っている人物のものだ。
優作少年は確認するべく、開け放してあった居間の入り口のドアへと顔を向けた。
現れたのは、すらりと背の高い若い男だった。
この家の主、優作の父親である。
どうやら仕事の途中で、子供の様子を見に自宅へと寄ったらしい。
「宿題か?」
「そうだよ」
「チビすけはどうした?」
「隣の和室で昼寝してるよ」
息子の説明を聞き、父は半分ほど開けられた引き戸の向こうを覗く。小さな布団に横たわるその姿を確認し、安心したようにため息をついた。
「はい、おやつ」
父親は持っていたスーパーマーケットの白い袋を、優作へと差し出した。
「なるべく早く帰るから。戸締りはしっかりするんだぞ。何かあったらすぐに電話しなさい」
「はい、お父さん」
「あと一時間したら、美穂さんが夕飯の支度しに来てくれることになってるから、それまでチビと二人、大人しくしてるんだぞ。いいな」
それを聞いて、優作の表情は明るく晴れ上がった。
「美穂伯母ちゃん来るの? じゃあ、ひかるちゃんも来る?」
「さあ、そこまでは聞いてないけど。まだ春休みだから、きっと来るんじゃないのか?」
伯母の美穂とは、同じ市内に住む、優作の父親の兄嫁にあたる人物だ。そしてひかるはその娘、優作の従姉である。
優しくて面倒見の良い従姉に、優作はよく懐いていた。
会えるかもしれない期待感で、優作少年の胸は一気に膨らむ。
「大丈夫だよ、お父さん。僕ちゃんとできるから、仕事行ってきて」
父親は再び家を出ていった。
ふと、何かがうごめくような物音がし、優作は背後を振り返った。
幼稚園に通う小さな弟が、掛け布団代わりにしていた大判のバスタオルを片手に握りしめ、それを引きずりながら、居間へとやってきたところだった。
「ニイ……」
「秀平、起きたの?」
「……」
弟は黙ったまま、兄の問いにこくりと頷いてみせた。まだ眠いのか、渋い顔をしながら瞬きを繰り返している。
「もう少ししたら、美穂伯母ちゃんがご飯作りに来るんだって」
聞いているのかいないのか――秀平は黙ったまま、テーブルの上の白い袋に目をとめ、それをじっと見つめている。
中から微かに映っている赤い色に、すっかり心を奪われてしまっているようだ。
「さっきお父さんがお仕事の途中にうちに寄って、それ置いていったんだ。秀平、食べたい?」
秀平は再びこくりと小さく頷いた。
賢くて大人しい。聞きわけもよく素直。
秀平少年の周りの評価は、寸分違わず高評価だ。
しかし、兄の優作にはわかる。
秀平は自分の思っていることを表に出すことが、恐ろしく不得手なのである。
こちらから問いかけると、ちゃんと意味を理解し、うなずいたり首を横に振ったりして、きちんと意思表示をする。
しかし。
自分から進んで感情をあらわにしたりしない。
祖父母や両親兄弟など、近しい人物の前では笑顔や泣き顔を見せることもあるが、見知らぬ人間の前では人形のように固まってしまう。
何を言われても反論せずに黙ったままでいることが多いため、大人しく素直だと言われているが――家にいるときの秀平は、チビ扱いされているため、思い通りにならず悔し紛れで癇癪を起こすこともある。
優作の両親に言わせれば、その気質はどうやら父親に似ているということらしい。
何度となく、こんなやり取りが繰り返されている。
『チイちゃんは、本当にあなたにそっくりよね』
『僕の子供なら、僕に似るのは当たり前だろう』
『大きくなったらきっと女の子にモテるわよ。バレンタインデーとか、チョコレートいっぱい貰えたりしてねー』
『何言ってるんだ。駄目だそんなの』
『どうして?』
『物を貰ってハイおしまいというわけにはいかないんだ。それ相応のお返しをしなければならないし、それが知っている人間ならまだしも、知らない人間と来た日には余計な気を遣わされて、しなくてもいい苦痛を強いられることになるんだ』
『そんな、大袈裟ねぇ』
『いいかチビすけ、知らない人間から絶対に物を貰ったりしたら駄目だぞ』
『そんな小さいうちからしつこく刷り込んでどうするの? もう……』
優作は白い袋を携えて、キッチンへと向かった。
中から値札のシールがついたままのイチゴのパックを取り出し、フィルムを取ってその上から水をかけてやる。
水で洗ったイチゴを大きなボウルに移し、食器棚からガラスの小皿を二枚取り出して、それを一緒に持って居間へと戻った。
弟はひとり大人しく、座って待っていた。
欲しいのに欲しいと言えない。ただひたすら、相手がくれるのをじっと待っているだけだ。
「はい、秀平の分」
秀平は黙って小皿の上のイチゴに手を伸ばし、それを口の中へと押し込んでいく。
「おいしい?」
優作少年が尋ねると、弟はイチゴにかじりついたまま、小さくうずいた。
「お絵かきする? ぼくの自由帳と色えんぴつ、使っていいよ」
「ニイは?」
「ぼくは勉強があるの。これから予習と復習するから」
「シュウもよしゅうとふくしゅうする」
「あのね、秀平。予習と復習は、学校に行って勉強してからでないとできないの。秀平にはまだ早いよ」
「……シュウもやる」
「お絵かきは? 秀平、野菜とか果物、上手に描けるよね」
「おえかきしない。よしゅうとふくしゅうする」
優作は深々とため息をついた。
もう、何を言っても無駄らしい。
「わかったよもう。秀平は一度言いだしたらきかないんだから。じゃあ、算数を教えてあげるから、僕のとなりへおいで」
優作と向かい合うように座っていた秀平は、ぐるりと回って優作の隣の席へと移動した。
優作は宿題の問題に目を落とし、幼稚園児の弟にも分かるように、好物を使って例えることにした。
「イチゴが7個あります。それを僕と秀平とで仲良く分けたら、いくつ余る?」
「あまらない」
それだけ言うと、秀平は隣で黙った。
はっきり答えているからには、問題を理解して自分なりに考えたのであろうが、言葉少なである弟はその後が続かない。
優作は幼い弟の考えを、ゆっくりと優しく問いただしてやる。
「それはどうしてなの?」
「シュウが4こ、たべるから」
優作は思わず目を丸くした。
弟がその結論に至った経緯を、優作少年は素早く把握する。
二人で分けると、余りが出る。
その余った一個は、自分が食べる。
分け合った分に、余りを加えると――。
「……とりあえず割り算はできてる……のかな。じゃあ、イチゴが8個あって、そこにひかるちゃんが遊びにきて、僕と秀平と三人で仲良く分けたら、イチゴはいくつ余る?」
「あまらない」
「なに、また秀平は一人占めするの?」
弟は首を横に振った。父親そっくりの眼差しで、黙ったまま優作の顔をまっすぐに見上げている。
やはり、その先が続かない。
「秀平、理由を教えてくれる?」
「ひかるおねえちゃんが2こ、ニイが2こ、シュウが2こ、お父さんとお母さんが1こずつたべるから、あまらない」
優作少年は唸った。そして、実弟の思考とその学習能力に素直に感心する。
「そうだね、それで正解だよ。さすがは僕の弟だ!」
弟は瞬きを数度繰り返し、微妙な表情をしながら、兄の顔をじっと見上げた。
恥かしいのか。嬉しいのか。ハッキリとは分からない。
優作は自分の小皿に残されていたイチゴを一つ取り、弟の小さな手の上に載せた。
甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
「はい、ご褒美」
数秒後――。
何も言わずにイチゴにかじりつく弟を見て、やっぱり嬉しいんだな、と優作少年は思った。
優作少年は自宅の居間で、宿題として出された算数のプリントを広げ、一つ一つ解き進めていた。
静かな永瀬邸内に、インターホンの音が響いた。
親が一緒にいないときは、勝手に来客に出てはいけないときつく言われている。
優作が構わず宿題を続けていると、外から鍵が外される音がした。
玄関の物音。そして、廊下を歩いてくる足音が次第に大きくなる。それは、よく知っている人物のものだ。
優作少年は確認するべく、開け放してあった居間の入り口のドアへと顔を向けた。
現れたのは、すらりと背の高い若い男だった。
この家の主、優作の父親である。
どうやら仕事の途中で、子供の様子を見に自宅へと寄ったらしい。
「宿題か?」
「そうだよ」
「チビすけはどうした?」
「隣の和室で昼寝してるよ」
息子の説明を聞き、父は半分ほど開けられた引き戸の向こうを覗く。小さな布団に横たわるその姿を確認し、安心したようにため息をついた。
「はい、おやつ」
父親は持っていたスーパーマーケットの白い袋を、優作へと差し出した。
「なるべく早く帰るから。戸締りはしっかりするんだぞ。何かあったらすぐに電話しなさい」
「はい、お父さん」
「あと一時間したら、美穂さんが夕飯の支度しに来てくれることになってるから、それまでチビと二人、大人しくしてるんだぞ。いいな」
それを聞いて、優作の表情は明るく晴れ上がった。
「美穂伯母ちゃん来るの? じゃあ、ひかるちゃんも来る?」
「さあ、そこまでは聞いてないけど。まだ春休みだから、きっと来るんじゃないのか?」
伯母の美穂とは、同じ市内に住む、優作の父親の兄嫁にあたる人物だ。そしてひかるはその娘、優作の従姉である。
優しくて面倒見の良い従姉に、優作はよく懐いていた。
会えるかもしれない期待感で、優作少年の胸は一気に膨らむ。
「大丈夫だよ、お父さん。僕ちゃんとできるから、仕事行ってきて」
父親は再び家を出ていった。
ふと、何かがうごめくような物音がし、優作は背後を振り返った。
幼稚園に通う小さな弟が、掛け布団代わりにしていた大判のバスタオルを片手に握りしめ、それを引きずりながら、居間へとやってきたところだった。
「ニイ……」
「秀平、起きたの?」
「……」
弟は黙ったまま、兄の問いにこくりと頷いてみせた。まだ眠いのか、渋い顔をしながら瞬きを繰り返している。
「もう少ししたら、美穂伯母ちゃんがご飯作りに来るんだって」
聞いているのかいないのか――秀平は黙ったまま、テーブルの上の白い袋に目をとめ、それをじっと見つめている。
中から微かに映っている赤い色に、すっかり心を奪われてしまっているようだ。
「さっきお父さんがお仕事の途中にうちに寄って、それ置いていったんだ。秀平、食べたい?」
秀平は再びこくりと小さく頷いた。
賢くて大人しい。聞きわけもよく素直。
秀平少年の周りの評価は、寸分違わず高評価だ。
しかし、兄の優作にはわかる。
秀平は自分の思っていることを表に出すことが、恐ろしく不得手なのである。
こちらから問いかけると、ちゃんと意味を理解し、うなずいたり首を横に振ったりして、きちんと意思表示をする。
しかし。
自分から進んで感情をあらわにしたりしない。
祖父母や両親兄弟など、近しい人物の前では笑顔や泣き顔を見せることもあるが、見知らぬ人間の前では人形のように固まってしまう。
何を言われても反論せずに黙ったままでいることが多いため、大人しく素直だと言われているが――家にいるときの秀平は、チビ扱いされているため、思い通りにならず悔し紛れで癇癪を起こすこともある。
優作の両親に言わせれば、その気質はどうやら父親に似ているということらしい。
何度となく、こんなやり取りが繰り返されている。
『チイちゃんは、本当にあなたにそっくりよね』
『僕の子供なら、僕に似るのは当たり前だろう』
『大きくなったらきっと女の子にモテるわよ。バレンタインデーとか、チョコレートいっぱい貰えたりしてねー』
『何言ってるんだ。駄目だそんなの』
『どうして?』
『物を貰ってハイおしまいというわけにはいかないんだ。それ相応のお返しをしなければならないし、それが知っている人間ならまだしも、知らない人間と来た日には余計な気を遣わされて、しなくてもいい苦痛を強いられることになるんだ』
『そんな、大袈裟ねぇ』
『いいかチビすけ、知らない人間から絶対に物を貰ったりしたら駄目だぞ』
『そんな小さいうちからしつこく刷り込んでどうするの? もう……』
優作は白い袋を携えて、キッチンへと向かった。
中から値札のシールがついたままのイチゴのパックを取り出し、フィルムを取ってその上から水をかけてやる。
水で洗ったイチゴを大きなボウルに移し、食器棚からガラスの小皿を二枚取り出して、それを一緒に持って居間へと戻った。
弟はひとり大人しく、座って待っていた。
欲しいのに欲しいと言えない。ただひたすら、相手がくれるのをじっと待っているだけだ。
「はい、秀平の分」
秀平は黙って小皿の上のイチゴに手を伸ばし、それを口の中へと押し込んでいく。
「おいしい?」
優作少年が尋ねると、弟はイチゴにかじりついたまま、小さくうずいた。
「お絵かきする? ぼくの自由帳と色えんぴつ、使っていいよ」
「ニイは?」
「ぼくは勉強があるの。これから予習と復習するから」
「シュウもよしゅうとふくしゅうする」
「あのね、秀平。予習と復習は、学校に行って勉強してからでないとできないの。秀平にはまだ早いよ」
「……シュウもやる」
「お絵かきは? 秀平、野菜とか果物、上手に描けるよね」
「おえかきしない。よしゅうとふくしゅうする」
優作は深々とため息をついた。
もう、何を言っても無駄らしい。
「わかったよもう。秀平は一度言いだしたらきかないんだから。じゃあ、算数を教えてあげるから、僕のとなりへおいで」
優作と向かい合うように座っていた秀平は、ぐるりと回って優作の隣の席へと移動した。
優作は宿題の問題に目を落とし、幼稚園児の弟にも分かるように、好物を使って例えることにした。
「イチゴが7個あります。それを僕と秀平とで仲良く分けたら、いくつ余る?」
「あまらない」
それだけ言うと、秀平は隣で黙った。
はっきり答えているからには、問題を理解して自分なりに考えたのであろうが、言葉少なである弟はその後が続かない。
優作は幼い弟の考えを、ゆっくりと優しく問いただしてやる。
「それはどうしてなの?」
「シュウが4こ、たべるから」
優作は思わず目を丸くした。
弟がその結論に至った経緯を、優作少年は素早く把握する。
二人で分けると、余りが出る。
その余った一個は、自分が食べる。
分け合った分に、余りを加えると――。
「……とりあえず割り算はできてる……のかな。じゃあ、イチゴが8個あって、そこにひかるちゃんが遊びにきて、僕と秀平と三人で仲良く分けたら、イチゴはいくつ余る?」
「あまらない」
「なに、また秀平は一人占めするの?」
弟は首を横に振った。父親そっくりの眼差しで、黙ったまま優作の顔をまっすぐに見上げている。
やはり、その先が続かない。
「秀平、理由を教えてくれる?」
「ひかるおねえちゃんが2こ、ニイが2こ、シュウが2こ、お父さんとお母さんが1こずつたべるから、あまらない」
優作少年は唸った。そして、実弟の思考とその学習能力に素直に感心する。
「そうだね、それで正解だよ。さすがは僕の弟だ!」
弟は瞬きを数度繰り返し、微妙な表情をしながら、兄の顔をじっと見上げた。
恥かしいのか。嬉しいのか。ハッキリとは分からない。
優作は自分の小皿に残されていたイチゴを一つ取り、弟の小さな手の上に載せた。
甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
「はい、ご褒美」
数秒後――。
何も言わずにイチゴにかじりつく弟を見て、やっぱり嬉しいんだな、と優作少年は思った。
(了)