ジンクスなんか信じない

 ジンクスなんか、信じない。

 彼女は俺のことが好きだと言った。
 でも、気がついたら他の男と付き合っていた。

 第一、もらったはちまきを返すとか返さないとか、そんなことで気持ちを伝えるなんて――おかしい、絶対に。
 ただ理由もなく、それを返したいときはどうすればいいのだろうか。
 いちいち付き合わなくてはいけないのか?
 逆に理由があって、それを返したくないときはどうすればいいのだろうか。

 俺には理由があった。
 でも。
 気がついたら、彼女は他の男と付き合っていたのだ。


 彼女の名前は江波梨緒子。高校の同級生だ。
 そして、彼女の彼氏も同級生。
 だから、嫌でも毎日、二人の浮かれた声を耳にすることになる。

 そして彼女は、俺の兄貴が家庭教師をしているという絡みもある。
 兄貴は、毎日のように彼女の話を俺にしてくる。
 学校のこと。
 友達のこと。
 たわいもない日常のこと。
 俺は兄貴を通して、はちまきのジンクスの存在を知ったのだ。



 いま、俺は北海道に来ている。
 兄貴の策にまんまと嵌められて、遠ざけることですべてを忘れようとしていた彼女と、わずかな間ではあるが、同じ屋根の下で過ごすこととなった。
 そして今日は二人きりで札幌に出かけ、えらい目に遭わされた。
 ――本当に。

 俺は夕食のあと、別荘の外へ出て、涼みながら考え事をしていた。
 ドアの開く音がする。誰かが出てきたのだろう
「……やっぱり北海道だね。夏でも夜は涼しいもんね。ちょっと寒いくらい」
 その声で、彼女が近づいてくるのが分かる。
「確かにそれ、夜出歩く格好じゃないな。そんなに手足出してたら、虫に刺されるよ」
 彼女は半袖のワンピース姿だ。あまりに無防備すぎる。
 俺は上に着ていた長袖のシャツを脱いで、彼女にそれを放った。
「着てていいよ」
「そ、そんな。秀平くん寒いでしょ」
「それは江波だって同じだよ。それ着て、早くこっちへ」
 彼女にあるものを見せたいと思った。
 暗闇に包まれる林の中を、一人先を歩く。
 彼女が必死に追いかけてくるのが分かる。

 今、彼女は俺だけを追いかけている。

 すぐに視界は開けた。といっても、街灯もない真っ暗闇の中だ。薄っすらと輪郭が分かる程度で、お互いの顔の表情はまったく見えない。
 彼女は恐る恐る歩いている。視界を遮られ、不安なのだろう。
 俺は彼女の腕を探り、こちらへ引き寄せた。

 彼女がこんなにも俺のそばにいる。

「江波……震えてる」
「秀平くんだって」
 俺は江波と違って寒いんだ――そう自分に言い聞かせる。
「震えてなんか――ほら、天から星が降ってくるよ」
 ここは俺が気に入っている場所だ。

 流星が降り注ぎ、まさに天空の虜となる。
 彼女にだけはどうしても見せたいと思った。

「天の川、はっきり見えるだろ」
「え? 今日、七夕じゃないけど?」
 返答に困った。
 彼女が何を言いたいのか、会話の流れから察するに、結論は一つ。
「江波さ、ひょっとして……天の川って、七夕にしか見えないものだと思ってる?」
「……違うの? だって、彦星と織姫が、一年に一度出会うための天の川なんじゃないの?」
 当たってしまった。
 表情は見えないが、声はふざけているように感じられない。
 本気でそう思っていたのか――俺は愕然とした。
 同時に、参った、とも思った。
 大きくため息をつきながら、説明をしてやる。
「天の川って、自分たちが今いる銀河系を真横から眺めたときに見える、星々の集まりが帯状に見える部分を指して言うんだ。だから、地球上のどこにいても、一年中見ることができる」
「あ、そうなんだ……」
 素直に感心しているところをみると、完全に知らなかったようだ。
 仮にも進学校の理系クラスにいてその反応はないだろう――しかし何となく、彼女らしさを改めて認識できたような気がした。
 世間知らずのお嬢さんで、まさに温室育ちなんだろう。
「それにしても、彦星と織姫って…………江波の頭の中って、相当メルヘンチックなんだな。やっぱり面白い」


 彼女と並んで、ずっと天の川を眺めていた。
 学校に戻ったら、どうせ話せなくなる。
 暗闇も手伝って、俺は彼女といろいろなことを話した。

 これまで自分がどんな気持ちでいたか。
 どうして彼女は、他の男と付き合っているのか。
 そして。
 俺の思ったことは、いつも相手に伝わらないのだ――と。

「本当は、安藤と仲良くして欲しくなんか……ない」

 俺はおかしくなっていた。
 彼女になんというを口走ってしまったのだろう。
 安藤という彼女の彼氏を、名指ししてしまうとは。

 そう。
 俺はあいつに嫉妬しているのだ。
 いつだって、彼女の側で楽しそうにはしゃいでいる、調子のいいあの男。
 誰とでも仲良く話ができて、男子にも女子にも好かれている。

 嫌なのだ。
 彼女が――江波が安藤と仲良くするのは嫌なのだ。
 俺のことが好きだというなら、安藤じゃなくて、俺なんじゃないのか?

 答えなんか出ない。
 現に彼女は、俺なんかよりもよっぽど安藤と仲がいい。
 距離が縮まりそうで縮まらない。
 北海道へ来てから、いろいろと彼女のことを知ることができたけれど、それももうすぐ終わりだ。

「そろそろ帰ろう。江波たち、明日、飛行機早いんだろ」
「もう少しだけ、星を見ていたいの」
「じゃあ俺、先に戻ってるから」
「秀平くんと一緒に、見ていたいの」
 心臓が止まるかと思った。
 どうしてこういうことを言うのだろうか。
「……来年また、見に来ればいいよ」
「そんなの分からないじゃない。来年どうなってるか……これが最後かもしれないでしょ?」
「江波、これが最後じゃないから。星は半永久的に天にあって、なくなったりしないから。だから、風邪引く前に戻ろう」
 俺の説得が悪かったのか、彼女の心は頑なだ。
 彼女は何を待っているのだ?
 俺にどうしろと――告げているのだ?
「じゃあ、先に戻ってて」
「……」

 俺はいったんその場を離れた。
 林の途中まで引き返し、そこで待っているつもりだった。彼女を一人置いては、さすがに別荘まで戻ることができない。

 ふと。
 俺はあることを思いついた。
 そう、ようやく。
 ずっと肌身離さず持っていたアレを、いま――。

 再び野原へと戻ると、そこにはまだ彼女がいた。
「江波、どこ?」
「ここにいるよ」
 俺が呼びかけると、彼女が返事をする。
 お互いの姿が見えない闇夜では、その声だけが頼りだ。
「もっと大きな声で。どこ?」
「ここだよ、秀平くん」
 彼女が、俺の名を口にする。
「江波……」
 近い。
 手を伸ばせばすぐそこに、欲しくて欲しくてたまらないものがある。
 でもそれは、自分のものではない。いまはあいつの……。

 そんなもの、ここには存在しない。
 ここは、俺と江波の二人だけの世界。

 気がつくと、俺の両腕が勝手に彼女を抱き締めていた。
「秀平くん? あ、あの……」
 彼女は嫌がる素振りを見せない。
 それが俺の心を狂わせる。
「北海道に来ること、あいつは知ってるの?」
「……言ってないから、きっと知らないと思う」
「そう――」
 柔らかな感触。
 滑らかな髪の毛。
 甘い香りが鼻につく。
「じゃあ、今夜の天の川は、俺と江波の二人だけの思い出だ」
 せめて今だけでも。
 俺だけのものであって欲しい。

 ふと。
 俺は我に返り、慌てて彼女を押しのけるようにして身体を引きはがした。
 いくらこんなことをしたところで、彼女は自分のものにならないのだ。
「身勝手だ、俺。江波は安藤のものなのに」
「……秀平くん。私は誰かの『もの』なんかじゃない」
 彼女の言葉の真意は分からない。
 しかし、可能性はゼロではないのだ。
 むしろ、まだ五割は残っている、ということを告げている気がした。

 俺はズボンのポケットから、彼女がくれた水色のはちまきを取り出した。
「江波――」
 俺はジンクスなんか信じないけれど。
 想いを伝える手段を『はちまき』に頼るだなんて、そんなのおかしいけれど。
 彼女がそれを信じてこれをくれたというなら、俺もいまだけ信じてみよう。

 俺は闇の中、彼女の声を探っていた。
 そして手にしていたはちまきを、そっと彼女の首へかけてやる。
「これ、何?」
 彼女の後頭部に手をかける。
 迷っている時間はない。
「どうしたの、しゅうへ――」
 俺は彼女の驚く声を遮るようにして、一気に唇を重ね合わせた。


(了)