写想

 西の空が薄紅に染まる、ある春の日の夕方――。
 波多野美月は、この街随一の大型百貨店へとやってきた。

 正面入り口から入ると、五階まで吹き抜けの巨大なエントランスがある。季節ごとに華やかなオブジェで飾られる空間だ。
 いまは一面カーネーションの赤――母の日が近いためである。
 美月は大きな壁掛け時計で時刻を確認し、辺りを素早く見回した。待ち合わせの時刻はわずかに過ぎている。
 そのときである。
「美月ちゃん、久しぶりー!」
 エントランスに姿を現したのは、美月の無二の親友・江波梨緒子だ。
 高校を卒業してから、二人が顔を合わせるのは初めてだった。卒業してからも毎日メールのやりとりはしているが、やはり直接会って言葉を交わすと、途端に安心できるのだから、親友とは不思議なものである。

 二人は連れ立って、百貨店の最上階フロアを目指した。お目当ては最近オープンしたばかりという、お洒落なカフェ兼レストランである。
 夕食には幾分早い時間帯のためか、店内に客はまばらだった。美月と梨緒子はカフェの店員に案内されて、窓際のカウンター席に並ぶようにして座った。
 親しい間柄の二人連れには、テーブル席よりも眺めのいいカウンター席のほうが語らいやすい――という店側の配慮だろう。
 深い橙色の街並みが一望できる。
 二人はお冷を運んできた店員に、カフェお勧めのオムライスとデザートの小さなフルーツパフェを揃って注文した。

 話したいことや聞きたいことはたくさんある。
 お互いの学校の話。
 共通の友人の話。
 気になるドラマや注目している芸能人の話。
 そしてもちろん、女の子同士だからできる、恋の話――。
 美月は、気になっていたことを遠慮なくストレートに尋ねた。
 それは、親友とその彼の、恋の行方についてである。
「永瀬くんとはちゃんと連絡取り合ってる?」
「ちゃんと……かどうかは、よく分からないけど」
 親友とその彼は、遠距離恋愛という道を選んだ。
 頭脳明晰な彼は遠い北の大地で、理想と希望に満ちあふれたキャンパスライフを送っているはずだ。
 そして彼女は地元に残り、医療系短大へと進んだ。看護師目指して毎日忙しい日々を過ごしている。
「んもう。梨緒ちゃんってば、頼りないなあ」
「回数でいったら、秀平くんよりもむしろルイくんとのほうが頻繁にやりとりしてるかも。あとね、優作先生がね、とうとう携帯デビューしたんだよ。だから最近は、美月ちゃんと同じくらい優作先生とメールしてるかな」
 親友があまりにからりと説明するので、逆に美月は途惑った。
 わざと明るく振る舞っているのかもしれない――そんな気がしてならない。
 それにしても。
 こんなことになるんじゃないかと、美月は少なからず危惧していたのだが――。
「永瀬くん、存在薄すぎじゃない?」
「用があるときじゃないと電話なんか掛けてこないし、メールだって文字はほとんどないし」
「文字がないって、まさか絵文字だけで表現してるの?」
「絵文字使ってるの、見たことないよ。いや、そうじゃなくてね……たぶん今日もそろそろ」
 メールに文字がほとんどない――そう説明する梨緒子の言葉の意味を、美月はまだ理解できないでいた。
 すると。
 梨緒子がカバンから携帯を取り出したちょうどその時、着信ランプが点灯した。
「毎日ね、写メ送ってくれるの。その日の晩御飯をね、こうやって…………あ、珍しい。外食なのかな」
 どこかの洋食屋のようだ。皿の柄や盛り付け具合から、どうやら学生向けの店らしいことが想像つく。
 送られてきた写真に写っていたのは、ライスの皿とハンバーグのプレートだった。色とりどりの野菜が添えられていて、栄養バランスも考慮されている一品だ。
「……毎日こんな写真送ってくるの? 頭のいいヤツの考えることって、ホント解んない」
「私も初めはビックリしたけど、なんかもう慣れちゃった」
「ねえ梨緒ちゃん、返事ここで送ってみてよ」
「ええ? えっと……ちょっと待ってね」

 本文:【ブロッコリーもちゃんと食べて】

「それだけ?」
「うん。外に出てるみたいだから、長いのは送らないでおく。秀平くんね、野菜の好き嫌いが多いんだよ」
「へえ、なんだか意外」
 すぐに返信があった。
 梨緒子はその画面を確認し、それを美月に見えるように向けてくる。
 画面を覗き込み、送られてきたらしい画像に美月は驚いた。今度はハンバーグプレートを中心に、寄り気味のアップ画像だ。
 先ほどまでハンバーグの側に添えられていたはずの緑鮮やかなブロッコリーだけが、キレイになくなっているのがハッキリと確認できる。
「すごーいっ! 梨緒ちゃんに言われてホントに食べてる! 永瀬くん、なんだか可愛いかも」
「……そう?」
 しかし、梨緒子の表情は冴えないままだ。
 そして、嬉々とする美月を横目に、すぐさま返信を打ち始めた。

 本文:【誤魔化してもダメだよ】

 美月は梨緒子と頬を寄せ合うようにして、梨緒子の携帯画面を一緒に見ていた。
 すると。
 わずかな間をおいて、再び着信ランプが点灯した。
 送信してきた相手はもちろん、彼氏の永瀬秀平である。

 本文:【さすが】

 たった三文字の本文には、先ほどのアングルでは写っていなかった、ご飯の皿の隅に除けられた緑の物体の写真が、ご丁寧にも添付されていた。
 美月は言葉を失ってしまった。
 愛の言葉を語らうわけでもない恋人同士の奇妙なメールのやり取りに、衝撃を受けてしまったのである。

 ブロッコリーが苦手であろう彼に、それを食べてと伝えると。
 ブロッコリーだけが無くなった写真が送られてきて。
 彼女はそれを見ただけで、食べないで脇に除けただけだとすぐに分かり。
 その彼女の判断に、彼は賞賛を表す三文字を――。

 絶句する美月をよそに、梨緒子は淡々と説明を続けた。
「文字だとね、こんな感じ。たいてい五文字以下。たぶん今日はもう、メールはこれでおしまい」
 梨緒子は携帯を閉じ、そそくさとカバンにしまい込む。もうメールは来ないと決め込んでいるようだ。
「オヤスミなさいのメールは?」
「しないよそんなの。遅くまで起きて勉強してるみたいだから、邪魔したくないしね。向こうもきっとそう思ってる」
 ちょっと会わないでいるうちに、彼女がこれほどまでに変化しているとは――美月は驚きを隠せずに、じっと梨緒子の表情を覗うようにして見つめた。
「でもね、こうやって晩御飯のときだけは、毎日欠かさず写真送ってくるの。文字なしがほとんど。でも――」
「でも?」
「でも、それだけでなんか……嬉しい、かなーって」
 軽く首を傾けて照れたように笑う親友に、美月は思わずドキリとさせられた。
 ほんのり染まる頬。つややかな唇。
「ただのご飯でもね、毎日見てるといろいろなことが分かるようになるんだ。ちゃんと自炊してるなーとか、誰か友達と一緒なんだなーとか。最近何にハマってるのか、なんてのも分かってくるし」
「永瀬くん、ちゃんと自炊してるんだ」
「みたいだね。こうやって私に写真送るから、料理の本とか読んでいろいろと工夫してるみたい」
 美月は感心したように頷きながら、梨緒子の話に耳を傾ける。
 親友の彼氏・永瀬秀平と美月は同級生だったが、特別仲良くすることはなかった。しかし、その厳格なまでの生真面目な性格は、嫌というほど思い知らされている。
 ちゃんとした目的があれば、きちんと計画を立てて自炊をすることも充分考えられる。
 そう、それはすべてこの彼女のため――。
「この間なんかね、ちょっと美味しそうにできてたから『食べたいな』って返したら、『今度ね』って一言だけまた返してきてね。たったの三文字だよ。でも、秀平くんのことだからちゃんと覚えてくれてて、今度会った時には何も言わなくても本当に作ってくれるんだろうなーって。秀平くんって、難しそうに見えて結構単純な人だから」
 彼女がずっと彼に片想いをしていたことは、美月が一番よく知っている。
 幾多の苦難を乗り越えて、ようやく想いが通じ合って、慣れない恋愛ゆえにささいなことで一喜一憂して。
 遠距離が二人の仲を裂いてしまうのだと、彼女自身も感じて、先の見えない恋愛にあんなに落ち込んでいたというのに――。
「なんだか梨緒ちゃん、彼女の風格がもう完璧に備わったって感じだよね」
「風格? アハハ、何それー?」
 何があったのかは、美月には分からない。
 しかし。
 幸せそうな親友の顔を見て、きっとこれでいいのだろうと、理由もなく納得してしまった。

 その一方で。
 ひょっとしたら、自分も彼の策に落ちたのかもしれない――美月はふとそんなことを思った。


(了)