恋愛指導要領

 学生たち十数人の賑やかな宴会も御開きという頃、成沢圭太の周りで、仲の良い女友達三人がこぞって騒ぎ出した。
 会場の座敷内をくまなく見回し、にわかに焦った様相を呈している。
「あれ、永瀬くんどこ行っちゃったんだろ? まさか帰っちゃった?」
「あ、ホントだ。ちょっと目を離した隙にぃ」
「成沢、ちょっとトイレ見てきて! 倒れてるかもしれないから!」
 いつものことながら、圭太の友人・永瀬秀平は、女子学生たちの注目を一手に集めている。
 圭太は座敷の出入り口に腰かけ、のんびりと靴を履きながら、さらりと答えた。
「大丈夫だってー。あいつ、酔っ払うほど飲んでないし」
 永瀬秀平という男は、お酒で体調を崩したりすることはない。
 一人暮らしの大学生ともなればさまざまな誘惑も多いが、彼の生活態度はまさに品行方正で、とにかく真面目だ。
 大学三年ともなれば、同じ学科の仲間たちもその気質を充分承知しているはずなのだが、そのあまりの実直さが逆にミステリアスな魅力に繋がり、なおいっそう興味をかきたててしまう結果となり、女子学生たちの心をとらえて放さないようだ。
「今日こそは二次会に連れて行くんだから。永瀬くんの歌声、ぜひ聞いてみたい!」
 女子学生は、いつにない意気込みを見せている。まるで獲物を狙うハンターの如く、目を光らせる。
 圭太はようやく靴を履き終え立ち上がり、背後の乙女ハンターたちに釘を刺した。
「次はカラオケ? 永瀬、カラオケなら絶対に行かないだろ。流行りの曲、全然知らないっぽいし」
「そうなんだ。そういえば永瀬くんって、普段何聞いてるんだろうね」
「ひょっとしてクラシックとか? あー、なんか絵になるー」
「洋楽とかもアリじゃない? 歌詞も全部聞き取れちゃったりするんだよね、きっと。カッコいいー」
 居酒屋の狭い通路を塞ぐようにして、女子学生たちははしゃぎ始める。
 圭太は呆れたように、深々とため息をついた。
「まったくお前たちはよー。そんな好き勝手な妄想膨らませてないで、本人にちゃんと聞けば?」
「聞いても、ちょっと困ったような笑顔でさらっとかわされちゃうんだもん。でも、途惑うその姿がまたイイんだけどねー」
「あ、分かるそれー」
「成沢、知ってるんなら教えてよ」
 もう、何を言っても無駄らしい。
 皆、程よくアルコールが入っているため、ついつい会話が弾んでしまうようだ。
 圭太はあきらめて、女子学生たちのおしゃべりに付き合い始めた。
「んー、なんて言ったかなー。なんか、一人だけやたらと詳しいアーティストがいたな、そういえば」
「うそ、誰? 誰?」
 圭太の言葉に、女子学生たちはいっせいに食いついた。
「ほら、あの春に流行った、激甘ドラマの主題歌唄ってた――」
「ええ、意外! 永瀬くん、ああいうの好きなんだー」
 キャア、と悲鳴にも似た歓声がわき上がる。
「お前たち、ほんとにおめでたいな……永瀬がそれ聞いてるのは、彼女がそのアーティストのファンだから、ってだけなんだけど」
「ああ、彼女。ふうん…………そうなんだ?」
 女子学生の一人が、明らかにがっかりしたように、白々しく相槌を打った。

 この反応はどうなんだろう、と圭太はいつも思う。
 永瀬秀平には、高校時代から付き合っている遠距離恋愛中の彼女がいる――ということは、周知の事実だ。
 それは噂だけではなく、実際に大学の学生食堂でその姿を目撃されたこともあるくらいなのである。
 彼女に嫉妬をしてみたところで、到底太刀打ちできるはずもないと圭太は思うのだが――。

「いまだってどうせ、彼女にラブコールしに行ったんじゃないのか?」
 圭太がそう言うと、女子学生たちはここぞとばかりに話を膨らませ始めた。
「あ、そういえばさっき、飲み会中に電話かかってきてた。あれ、きっと彼女だよ」
「ホント? 何で分かるの?」
「なんか飲み会のことを問い詰められて、永瀬くんが言い訳してるっぽかったから」
「ひょっとして上手くいってないんじゃない?」
「遠距離なんて、難しいもんね。そばにいるほうに心が動いて当然でしょ?」
「普通そうだよねー? 永瀬くんはなかなか落ちないけど」
 女子学生たちの本音が見え隠れしている。いや、決して隠れてはいない。むしろあからさま過ぎる。
 しかし。
 そんなことを言えるのも、彼がどんなに彼女を想っているか、知らないからだ。
 彼は普段から、プライベートをほとんど明かさないため、このような好き勝手なことを陰で言われてしまうのである。

 圭太は半ば不可抗力で、彼と彼女の恋愛事情を知ることになり、そして間接的に助けてやったりもした。
 そのお陰で、圭太は秀平に唯一『友人』認定され、誰もが知りえない彼のプライベートな恋愛事情を、話してもらえるようになっているのである。
 だから、圭太には分かる。
 圭太は女子学生たちの顔を順番に見回して、フフンと軽く鼻で笑った。
「落ちるわけないだろーが。あの永瀬が『言い訳』をするほど、許されたい相手なんだからさ。よーし、確かめてみるか」


 飲み会をしていた居酒屋は、雑居ビルの二階にあった。店を出ると細長い廊下が伸び、両側に何軒かの飲食店が並んでいる。
 目的の人物は、その薄暗い廊下の先にある階段の出入り口の辺りにたたずんでいた。
 こちらに背中を向けて、誰かと携帯で話をしているようだ。
 圭太は秀平に背後から近づき、羽交い絞めにするようにして飛びついた。
「ほーら、やっぱり。永瀬ーっ! 梨緒子ちゃんにラブコールかー?」
「成沢? ちょっ……」
「もひもひー、梨緒子ちゃーん、ああっ――」
 突然の出来事に秀平は動揺したのか、持っていた携帯電話を滑らせて床に落とした。そして秀平の携帯は勢いあまって、そのまま階段を転がり落ちていってしまった。


 二人は足早に階段を駆け下り、落下物の状態を確認した。
 やはりコンクリートの階段の上を落ちていったため、衝撃が大きかったらしい。電源が落ち、起動しなくなってしまったようだ。
 秀平は憔悴しきった表情で、真っ黒のままの待ち受け画面をじっと見つめている。
「ま、マジでゴメン! 弁償するから、笑って許せ! な?」
「いや、携帯は別にいいんだけど……」
「なんだ、そんな暗い顔して。梨緒子ちゃんとケンカでもしちゃったか?」
「なんか……泣いてた」
 事態は予想以上に深刻らしい。
 圭太は上の階から降りてくる女子学生たちから逃れるため、秀平の腕を掴まえて移動を促し、隣の雑居ビルの階段下に身を隠した。
 薄暗い電灯の光を頼りに、圭太はできるだけ声をひそめて、秀平に事の真相を問いただした。
「泣いてたって、何で?」
「よく分からない。もうどうなっても知らないからって……意味が分かんないんだけど」
 完全に混乱しているようだ。表面上は淡々としていても、その途惑いと動揺が、声の震えからわずかに伝わってくる。
「その前は? ちゃんと順番に話せって」
「……だから、帰ってくる予定はないのかって聞かれて、無理だって答えたんだよ。それで……観たい映画があるって泣くから、そんなに観たいんなら観てくればいいんじゃないのかって。そしたらなんか、機嫌損ねた」
 おそらく悪気はなかったのだろう。
 彼女の言葉をそのままとらえて、機械的に解釈をして、返答しただけにすぎない。
 しかし、彼女が求めている答えと大きくかけ離れてしまっていることに、どうやら彼は気づいていないようだ。
「馬ッ鹿だなー、永瀬」
「馬鹿って、俺が?」
「あのさ、映画がどうこうじゃなくて、梨緒子ちゃんはお前と行きたいって、そう言ってるんだろ?」
 秀平は言葉を詰まらせた。
 圭太の助言と、先ほどの彼女とのやり取りを思い返し、ようやく納得したらしい。秀平は哀しげにゆっくりと瞳を瞬かせた。
「……そんなこと言われても、無理なものは無理だし」
「我慢させてるんだろ? たまにはワガママ聞いてやれよ」
 秀平は黙ったままだ。じっと圭太の顔を食い入るように見つめている。
「ちょっと小ぎれいなホテルとか行ってさ、目一杯抱き締めてくればいい。梨緒子ちゃんは満たされて、永瀬も癒してもらえる。一石二鳥だな。ああ、そうだ。突然帰ってさ、梨緒子ちゃんを驚かせてやれば? それが遠距離恋愛の醍醐味でもあるし」
「……なんで、驚かせる必要があるの」
「あのさー、驚かせるって別に、嫌がらせじゃないんだからさ。サプライズって言葉、分かるだろ? 例えばさ、梨緒子ちゃんの家の前から電話をかけてやって、本当は遠くにいると思わせておいて、実はすぐそばにいる……みたいな演出をするんだよ」
「それで?」
「当然、梨緒子ちゃんは喜び倍増で家から飛び出してくるから、そこをすかさず永瀬は思いっきり抱き締める、という感じでどうだ?」
「どうだって……言われても」
 圭太の描くシナリオは、秀平には半信半疑のようだ。
 ドラマティックな恋愛の演出の素養がまるでないため、その効果の程がまったく計算できないのだろう。
 秀平はわずかに首を傾げ、演出家の友人に聞き返した。
「本当に、喜ぶのかな」
「好きなら絶対に喜ぶだろ」
「……そうなんだ」
 圭太は秀平の煮え切らない反応に、呆れたように深々とため息をついてみせた。
「というか永瀬、最後に梨緒子ちゃんと逢ったの、いつだよ」
「いつって……二月末かな」
「二月ってお前、もう半年も前じゃないか。よく我慢できるな。他の女としたくなったりしないの?」
「全然しない」
 珍しく即答が返ってくる。
 そこに迷いは見られない。
「成沢に逆に聞きたいんだけど。知らない人間とよくそういうことができるよな」
「知らない人間って……知ってる女の子だって、いっぱいいるだろ?」
「そうじゃなくて。自分のことをよく知らない人間ってことだよ」
 その気になれば、思うがままに女性と関係を持てそうなのに、当の本人の価値観はきわめて狭く、そして深い。

 壊れてしまった携帯電話を手に、秀平は一人帰途についた。
 その背中を目で追いながら、圭太は感嘆にも似たため息を一つついた。
「……なんか、梨緒子ちゃんって偉大だな」
 そして。
 これではやはり、女子学生たちに落とせるわけがない――と、圭太はしっかりと再確認した。


(了)