君と最後の晩餐を

 とある金曜日の夜、安藤類は高校時代の友人・永瀬秀平と居酒屋で待ち合わせていた。

 秀平が指定してきた店は、類は初めてだった。
 学生向けの居酒屋とは違い、落ち着いたたたずまいだ。仕事帰りのサラリーマン風の男たちが多い。
 秀平は同僚に連れられて、たまにこの店を訪れているらしい。


 二人が顔を合わせるのは、秀平の結婚式以来――実に一年ぶりのことだった。
 秀平は、じっと食事のメニューに目を落としている。ここで夕飯を済ませるつもりらしい。
 類はアルコールのメニューを友人に向かって差し出した。
「何にする、お前」
「お茶でいい」
 それきり黙ったまま、ドリンクメニューを押し返す。
 類は相変わらずの無愛想な男に向かって、これ見よがしにため息をついてみせた。
「いいじゃん。一杯くらい付き合えよ。一緒に飲むなんてこれが最初で最後だろうし」
「……」
 聞こえているのかいないのか――テーブルを挟んで向かい合っただけの距離では聞こえていないはずはないのだが――秀平は黙ったまま、メニューの文字を淡々と目で追っている。
「あ、お前ひょっとしてお酒弱いのか?」
「……人並だよ。じゃあ、安藤と同じでいいよ」
 秀平は諦めたのか、面倒くさそうに友人をあしらった。
 類はそんな態度に臆することなく、そのまま興味深く様子を見守っていた。

 秀平が片手を挙げると、顔見知りらしいアルバイトの若い男性店員が、にこやかにテーブルに近づいてきた。
「永瀬さん、今日は神原さんと御一緒じゃないんですね」
「神原は合コンだって言ってたよ。仕事も早々に切り上げて、浮かれてたから。この人はうちの会社の人間じゃなくて、高校の教師をしてる俺の――」
 そこまで言って、秀平は続く言葉を詰まらせ、首を傾げた。
 そして、じっと向かい合う類の顔を見つめ、小さな声で呟くように言った。
「俺の……特に『何』というわけでもない、かな」
「お前な……その説明おかしいだろ。社交辞令でもいいから『大親友』って答えておけよ」
 そのやり取りを聞いていた居酒屋の店員が、注文票を胸に抱えたまま、軽快に笑い出した。
「永瀬さんって、本当に面白いですよねえ。そうやって真面目な顔してさらりと冗談言うんですからー」
 それに対して秀平は肯定も否定もせず黙ったまま、メニューの中の一つを指差した。
 はたして今のは冗談なのか本心なのか――類には甚だ疑問だった。


 二人は手早く注文を済ませ、ようやく本題に入った。
「……で? どうしたんだよ永瀬」
「何が?」
「お前、自分から人を誘っておいて、何が? はねーだろ。用がなけりゃ、俺に連絡してこないくせして」
「……別に用事がなくたって、お腹が空いたら食事くらいするだろ」
「それを言うなら、用事がなくたって会って近況を語り合いたい、だろ。腹が減ってるだけなら一人で食えよ」
「……」
 言いたいことが真っ直ぐに伝わらずに、途惑っているらしい。しかしそれを言い訳することはなく、秀平はさらに黙り込んでしまう。
 気難しい男だ。昔から、まるで変わっていない。
 類は、彼が何故自分を誘ってきたのか、すでにその理由が分かっていた。
 長い長い沈黙に身をゆだねながら、ひたすら待つ。
 しかし。
 一向に口を開こうとしない友人に、類は早々に根負けしてしまった。
「で? 妻に離婚届けを突き付けられた男が、俺に何の相談だ?」
 秀平の透き通った焦げ茶の両瞳が、ひときわ大きく見開かれた。
「……何で知ってるの?」
「何でって、聞いたからだよ」
「誰に」
 秀平の声は淡々としているものの、いつになく食いつきが鋭い。
 『誰に』と聞いているが、求める結論はおそらく一つだ。
「お前な。まだ俺がリオとなんかあると思ってるのか?」
「別に、そんなこと言ってないだろ」
 秀平はツイと顔をそむけた。
 図星を指されると、意地を張って冷たくあしらう――本当に昔と変わらないな、と類は心の中でそう呟いた。
「美月にだよ。又聞きだって又聞き」
 秀平は明らかにホッとしたように、静かにため息をついた。
 そのあまりにも分かりやすい反応に、類はあきれたように肩をすくめた。
「やっぱり気にしてたんじゃねーか。ハッ、バカじゃねーの? つーかお前……あのとき、頑張るって言ってたじゃねーかよ。ったくよー」
 タイミングがいいのか悪いのか、先ほどの店員が二人のテーブルに、注文した飲み物を運んできた。
 類はビールのグラスをとり、それを無理矢理秀平のグラスにぶつけて形だけの乾杯をした。
 無言のまま、互いにグラスを傾ける。
 秀平は水で喉を潤すように、ビールを一気に半分ほど飲んだ。
 自棄酒をするようなタイプには見えないのだが――やはり彼なりに抱えているものを、ときには吐き出したくなることもあるのだろう。
 それが『妻』のことであれば、吐き出す相手はおそらく一人しかいない。
「お前、リオにちゃんと説明してなかったのかよ? 結婚式のときにそんなこと言ってなかったか?」
「説明はしてたよ。いずれは海外へ出張もある――って」
 秀平はアルコールが入り、ようやく口数が多くなってきた。
「でも、『その時は仕事を辞めてついてきてほしい』とまでは、言ってなかったんだろ?」

 秀平とその妻は、ともに二十二歳という若さで結婚した。
 彼氏彼女の状態ではなく、夫婦という形にこだわったのは――長い遠距離恋愛を経たからこその決断だったのである。
 遠距離の辛さは、彼らが身にしみて分かっていることだ。
 結婚に踏み切ったのは、どんなことがあっても離れないという、彼の決意の表れに他ならない。

 しかし、夫の海外出張に、妻なら仕事を辞めてついてくるのが当然――そういう秀平の言い分に対して。
 妻の返事は――離婚届だった。

「……梨緒子はいつだって、『俺が良ければそれでいい』って、言うことを聞いてくれていたから……まさか拒否されるなんて思ってもみなかったし」
「拒否って……お前さぁ。リオだってようやく仕事が面白くなってきたところだろうし」
 秀平は憔悴しきった顔をして、珍しく本音をのぞかせている。
 この男は何故自分に対してはこうやって本心をさらしてくるのか、類は不思議に思うこともあるが――おそらく、当の本人は気づいていないのだろう。
「なあ、その離婚届って、いま持ってんのか?」
「……」
「俺、実物見たことないんだよなー。どんなもんか見せて。後学のためによ」
 秀平は脇に置いてあった自分のカバンの中から、一通の封書を取り出した。そして無言のまま、机の上を滑らせるようにして押しやった。
 類は素直にそれを受け取り、中身を確認した。
「なんだよ、お前、自分の名前も署名捺印してあるじゃん」
「梨緒子がそうしたいって言ってるんだから、仕方ないだろ。婚姻関係はお互いの同意があって成り立つものなんだから」
 そう言って秀平は、グラスに残ったビールを飲み干した。すかさず替わりのビールを注文し、淡々と飲み進める。
 あくまで冷静な振る舞いだ。
 しかし類は、秀平のわずかな瞳の揺れを見逃さなかった。
「で? これいつ出しに行くんだよ」
「さあ。それは向こうに任せるつもりだけど」
「じゃあ、リオにいつ渡す?」
「向こうから取りに来れば、いつでも渡せるようにはしてある」
 秀平の強がるさまが、類の目にはひどく滑稽に映った。
 要するに秀平は、自分から行動を起こす気は『ゼロ』、ということだろう。
「――めぇ」
「ごめん。よく聞こえない。何?」
「めぇだよ、めぇ」
「意味分からない」
 類は離婚届を豪快に丸めると、それを口の中へと押し込んだ。
「安藤! 何やってるんだよ!」
 くしゃくしゃと耳障りな音をたてながら、類は力ずくでの咀嚼を繰り返す。当然噛み切れるわけも、そのまま飲み込めるわけもなく、やがて類は、使っていない灰皿の上に紙の塊を吐き出した。
「マズイ。腹減ってても食えねーな。あー早く食い物来ないかなー」
 秀平は唖然としたまま、ヤギ男と吐き出された離婚届だったモノを交互に見つめている。
 類は確然とした表情で言い切った。
「バーカ、リオが本当に離婚したがってるわけねーだろ? そんなもん、端から必要ねえよ」
「だったら……どうすればいいんだよ」
「お前が単身赴任すりゃいいだけだろうが。ほとぼりが冷めたら素直に頭を下げれば、それで犬も食わない夫婦喧嘩はお終いだろうよ」
「……」
 その心中は相当複雑なものらしい。
 夫婦である以上は一緒にいるべきだと考える秀平にとって、単身赴任するという選択肢はそもそも彼の中にはなかったのだろう。
「お前って、こういう奴だったんだな。リオのこと、そんなに好きか?」
「……」
「好きかどうかって聞いてんだよ」
「何でそんなこといちいち言わなくちゃいけないんだよ」
「俺になら言えるだろ」
「……好きじゃなかったら、結婚なんかしないよ。気に入らない人とは、そもそも付き合ってないし――」
「まだるっこしいな。好きだってはっきり言えよ」
 秀平は憑き物が落ちたように、空を見上げて静かに大きく息を吐いた。
「安藤に頼みがある」
「頼み?」
「俺がいない間に何かあったら、梨緒子の力になってやって欲しいんだ」
「……は?」
 類は思わず聞き返した。
 秀平は淡々と説明を続ける。
「さすがに海外じゃ、簡単に帰れないから」
「俺にそんなこと頼んでいいのかよ? リオが寂しがって俺を頼ってきたりなんかしたら、その先はどうなっても保障できねーぞ?」
 もちろんこれは本心ではない。彼女の気持ちが完全に自分のほうへ向くのであればまだ分からないが、そんなことは絶対にありえないと、類はもう分かっている。
 ただ、この男はそう思っていないはずだ。それは先ほどの『誰から事情を聞いたのか』というくだりで、すでに証明済みである。
「安藤だから、頼んでる」
「……永瀬?」
「安藤は、梨緒子が不幸になるようなことは絶対に――しないだろ」
 秀平はじっと類の顔を見つめ、ゆっくりとその透き通った焦げ茶の瞳を瞬かせた。
 感情という名の糸が複雑に絡み合う。
 どうして自分に、という疑問は、すぐに消え去っていく。
 これが俺たちの関係のあり方なんだろう――類は漠然と思った。
「言っとくけどな、リオがどうこうとかじゃなくて、俺はお前が不幸になるようなことだって、絶対にしねーんだよ」
 そう、類がハッキリ言い切ると。
 秀平は小さな子供のように、ウンと頷いた。 


(了)