逢引ごっこ
梨緒子がこの店を訪れるのは三年ぶりだった。
中に入る前に、隣接する駐車スペースを覗いてみる。しかし、梨緒子がいつか乗ったことのある車は見当たらなかった。
――どうしよう。
梨緒子はバックから携帯を取り出した。そして、昨夜貰ったメールの文面を、もう一度確認する。
【明日夜7時に、あの店にいる。時間があったらでいい】
たったこれだけだ。名前も書かれていない。
このような簡素で強引な文章は、間違いなく『あの男』のものだ。
携帯のメモリから彼のデータを消してしまっていたが、梨緒子はまだアドレスを覚えていた。
織原直人。
その昔、梨緒子がまだ学生だった頃、交遊のあった研修医だ。
梨緒子には遠距離中の彼氏がいて、織原にはこれまた遠距離状態の婚約者がいた。
そのため、二人はお互いの寂しさを埋めるように、友達以上恋人未満な関係となった。
しかし、その関係は長くは続かなかった。お互いが置かれている境遇を考えると、それが自然な流れだった。
いまとなってはいい思い出である。
そう。思い出になってしまった男なのである。
しかし。
彼からの実に三年ぶりのメールが届いたとき、梨緒子の心臓は跳ね上がった。
梨緒子は気持ちを落ち着けようと、入り口の前で大きく深呼吸をした。
もう一度、携帯で時刻を確認する。もうすぐ午後七時だ。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりと開く。
来客を知らせるベルの音が、軽やかに響いた。
梨緒子の視界に、カウンター席に座っている男性客の後姿がすぐに目に入ってきた。
――本当に、いる。
見覚えのある懐かしい背中のラインに、梨緒子の心拍数は一気に上昇した。
「あの、こんばんは」
そっと声を掛けると、織原は無言でカウンターの椅子を引いた。自分の左隣に座れと、そう言っている。
梨緒子はそれに素直に従った。
よく知っている端整な横顔が、すぐそこにある。
織原はメニューを梨緒子のほうへ滑らせながら、ようやく口を開いた。
「結婚したんだって?」
「あ……はい、去年」
「彼氏と上手くいったってわけか。よかったじゃないか」
三年ぶりに言葉を交わすというのに、まるで毎週会っているかのように、どこまでも自然に言葉をつむいでいる。
時間がどんどん巻き戻っていく。
梨緒子はもう、自分の気持ちをコントロールできなくなってしまっていた。
「織原先生、ご結婚は?」
「ハッ、気になるか?」
「もちろんです」
織原は梨緒子の質問に答えようとはしない。はぐらかすように、お前は何を食べるんだ、と注文を急かしてくる。
梨緒子は仕事帰りでおなかが空いていたため、特製オムライスを選んだ。
織原はカウンターの中にいた店主に、オムライスを二つ注文する。
「まだ独身だ、俺は」
突然、織原は先ほどの答えを梨緒子に返してきた。
ほの暗い照明の中、織原は絶妙な間合いを取って、梨緒子に揺さぶりをかけてくる。
「あの……婚約者さんとは――」
「来月結婚する。今日、院長と会ってきた。披露宴での挨拶を頼むつもりだから」
「あ…………ああ、そうだったんですか。おめでとうございます」
梨緒子は拍子抜けしてしまった。
まさか復縁を申し込まれるのでは、と思わなくもなかったが――三年ぶりのお誘いが、彼の『結婚報告』だとはさすがに予想していなかった。
なぜだろう。上手く言葉が出てこない。
彼に婚約者がいたことは、出会った頃から知っていたことである。婚約者と結婚をすることは、驚くことでもなんでもない。
しかし、こういう状況でどう反応して良いのか、梨緒子は途惑ってしまった。
「それは本心か?」
目が合った。
織原の力強い眼差しが、梨緒子をとらえて離さない。
「も……ちろんです。嬉しいと思っています」
「そうか」
そのまま、織原は黙ってしまった。
いったい彼は、梨緒子にどんな答えを求めているのだろう。
いまの自分の立場では、これが精一杯なのである。
「俺は、お前が結婚したと聞かされたとき、ちょっと悔しかったけどな」
そう言って、織原は珍しく穏やかな笑みを見せている。
「感謝してるよ。彼女と向き合えと言ってくれたのは、江波だからな」
「織原先生……」
「今はもう江波じゃなかったな。永瀬、か」
梨緒子はゆっくりと頷いた。
織原の透き通った二つの瞳が、真っ直ぐに梨緒子の顔をとらえている。
「あの頃よりもきれいになったな」
心臓の音が聞こえてしまいそうなほどの緊張と動揺で、梨緒子はどうにもならなくなっていた。
そんな胸の内を知ってか知らずか、織原はどんどん梨緒子の心の隙間に容易に入り込んでくる。
「でも、中身はまるで変わっていない。従順で、素直で、それでいて流されない芯の強さもある――あの頃のままだ」
ここは、異空間だ。
現実でも、空想でもない。誰も足を踏み入ることができない、二人だけの世界――。
「俺は、お前のそういうところが好きだった」
さらりと過去形で、織原はどうしようもないほどの狂おしい想いを、淡々と口にする。
「ずるい」
「なにがだ?」
「人には一生黙っておけって言っておいて、自分はそんなこと言うなんて――ずるい」
その言葉の意味は、二人にしか分からない。
織原は黙った。
「私、彼とは別居中です。あんまり勝手なことばかり言うから、離婚届突きつけちゃいました。彼はそのまま海外へ長期出張になったので、まだ決着はついていませんけど」
「ふうん、そうか」
「ずっと遠距離恋愛だったので、別居しても全然なんてことないんですけどね」
「嘘つけ。俺の誘いにのっている時点で、説得力はないだろ。そんな強がらなくてもいい。少なくとも、俺の前ではな」
何が嘘で、何が本当なのか。
自分の気持ちが分からない。
「でも、お前は別れない。これまでもそうだった。結局、最後には彼氏のところへ戻る」
「…………そう、かもしれません」
織原は決して間違ってはいない。
梨緒子は離婚の同意を待っているわけではない。離婚届は彼にお灸を据える小道具でしかないのである。
彼が絶対に離婚に踏み切るはずがないと、梨緒子は感覚的に知っている。
「織原先生」
「なんだ?」
「どうぞ、お幸せに――なってください」
「ああ。どうもありがとう」
「絶対ですよ」
心からそう願う。
この男には、とにかく幸せになって欲しいのである。
「お前、人の心配してないで、さっさと彼氏と仲直りしろ。今すぐ、メールの一つでも送ってやれ」
「でも……」
「ぐずぐずしてたら、今度こそ本当に、お前を持ち帰るぞ」
今度こそ――。
織原のその言葉に、思い当たることがある。
「……じ、冗談ですよね?」
「俺は冗談が嫌いだと、何度言ったら分かるんだ?」
しかし。
そんな言葉とは裏腹に、織原の表情は柔らかかった。焦る梨緒子の反応を見て、ただ楽しんでいるだけのようだ。
梨緒子は拗ねたように頬を膨らませてみせた。
「そんなこと言って。優作先生に告げ口して、婚約者さんに今の発言、ばらしますよ?」
「ハッ、それは困るな」
その表情には余裕がある。本当に困ったような必死さはない。
そこへタイミングよく、目の前に注文していた特製オムライスが並べられた。
とろとろの卵から、食欲を誘う香気が立ち上っている。
「いまさらだが、俺と一緒にご飯を食べていいのか?」
「ご飯を食べるのに、いちいち理由なんか要らない。一人より二人で、何か話しながら食べたほうがいい――ですよね?」
「その通り。さあ、冷めないうちに食べるぞ」
二人は頷き合うと、揃ってスプーンをオムライスに差し入れた。
中に入る前に、隣接する駐車スペースを覗いてみる。しかし、梨緒子がいつか乗ったことのある車は見当たらなかった。
――どうしよう。
梨緒子はバックから携帯を取り出した。そして、昨夜貰ったメールの文面を、もう一度確認する。
【明日夜7時に、あの店にいる。時間があったらでいい】
たったこれだけだ。名前も書かれていない。
このような簡素で強引な文章は、間違いなく『あの男』のものだ。
携帯のメモリから彼のデータを消してしまっていたが、梨緒子はまだアドレスを覚えていた。
織原直人。
その昔、梨緒子がまだ学生だった頃、交遊のあった研修医だ。
梨緒子には遠距離中の彼氏がいて、織原にはこれまた遠距離状態の婚約者がいた。
そのため、二人はお互いの寂しさを埋めるように、友達以上恋人未満な関係となった。
しかし、その関係は長くは続かなかった。お互いが置かれている境遇を考えると、それが自然な流れだった。
いまとなってはいい思い出である。
そう。思い出になってしまった男なのである。
しかし。
彼からの実に三年ぶりのメールが届いたとき、梨緒子の心臓は跳ね上がった。
梨緒子は気持ちを落ち着けようと、入り口の前で大きく深呼吸をした。
もう一度、携帯で時刻を確認する。もうすぐ午後七時だ。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりと開く。
来客を知らせるベルの音が、軽やかに響いた。
梨緒子の視界に、カウンター席に座っている男性客の後姿がすぐに目に入ってきた。
――本当に、いる。
見覚えのある懐かしい背中のラインに、梨緒子の心拍数は一気に上昇した。
「あの、こんばんは」
そっと声を掛けると、織原は無言でカウンターの椅子を引いた。自分の左隣に座れと、そう言っている。
梨緒子はそれに素直に従った。
よく知っている端整な横顔が、すぐそこにある。
織原はメニューを梨緒子のほうへ滑らせながら、ようやく口を開いた。
「結婚したんだって?」
「あ……はい、去年」
「彼氏と上手くいったってわけか。よかったじゃないか」
三年ぶりに言葉を交わすというのに、まるで毎週会っているかのように、どこまでも自然に言葉をつむいでいる。
時間がどんどん巻き戻っていく。
梨緒子はもう、自分の気持ちをコントロールできなくなってしまっていた。
「織原先生、ご結婚は?」
「ハッ、気になるか?」
「もちろんです」
織原は梨緒子の質問に答えようとはしない。はぐらかすように、お前は何を食べるんだ、と注文を急かしてくる。
梨緒子は仕事帰りでおなかが空いていたため、特製オムライスを選んだ。
織原はカウンターの中にいた店主に、オムライスを二つ注文する。
「まだ独身だ、俺は」
突然、織原は先ほどの答えを梨緒子に返してきた。
ほの暗い照明の中、織原は絶妙な間合いを取って、梨緒子に揺さぶりをかけてくる。
「あの……婚約者さんとは――」
「来月結婚する。今日、院長と会ってきた。披露宴での挨拶を頼むつもりだから」
「あ…………ああ、そうだったんですか。おめでとうございます」
梨緒子は拍子抜けしてしまった。
まさか復縁を申し込まれるのでは、と思わなくもなかったが――三年ぶりのお誘いが、彼の『結婚報告』だとはさすがに予想していなかった。
なぜだろう。上手く言葉が出てこない。
彼に婚約者がいたことは、出会った頃から知っていたことである。婚約者と結婚をすることは、驚くことでもなんでもない。
しかし、こういう状況でどう反応して良いのか、梨緒子は途惑ってしまった。
「それは本心か?」
目が合った。
織原の力強い眼差しが、梨緒子をとらえて離さない。
「も……ちろんです。嬉しいと思っています」
「そうか」
そのまま、織原は黙ってしまった。
いったい彼は、梨緒子にどんな答えを求めているのだろう。
いまの自分の立場では、これが精一杯なのである。
「俺は、お前が結婚したと聞かされたとき、ちょっと悔しかったけどな」
そう言って、織原は珍しく穏やかな笑みを見せている。
「感謝してるよ。彼女と向き合えと言ってくれたのは、江波だからな」
「織原先生……」
「今はもう江波じゃなかったな。永瀬、か」
梨緒子はゆっくりと頷いた。
織原の透き通った二つの瞳が、真っ直ぐに梨緒子の顔をとらえている。
「あの頃よりもきれいになったな」
心臓の音が聞こえてしまいそうなほどの緊張と動揺で、梨緒子はどうにもならなくなっていた。
そんな胸の内を知ってか知らずか、織原はどんどん梨緒子の心の隙間に容易に入り込んでくる。
「でも、中身はまるで変わっていない。従順で、素直で、それでいて流されない芯の強さもある――あの頃のままだ」
ここは、異空間だ。
現実でも、空想でもない。誰も足を踏み入ることができない、二人だけの世界――。
「俺は、お前のそういうところが好きだった」
さらりと過去形で、織原はどうしようもないほどの狂おしい想いを、淡々と口にする。
「ずるい」
「なにがだ?」
「人には一生黙っておけって言っておいて、自分はそんなこと言うなんて――ずるい」
その言葉の意味は、二人にしか分からない。
織原は黙った。
「私、彼とは別居中です。あんまり勝手なことばかり言うから、離婚届突きつけちゃいました。彼はそのまま海外へ長期出張になったので、まだ決着はついていませんけど」
「ふうん、そうか」
「ずっと遠距離恋愛だったので、別居しても全然なんてことないんですけどね」
「嘘つけ。俺の誘いにのっている時点で、説得力はないだろ。そんな強がらなくてもいい。少なくとも、俺の前ではな」
何が嘘で、何が本当なのか。
自分の気持ちが分からない。
「でも、お前は別れない。これまでもそうだった。結局、最後には彼氏のところへ戻る」
「…………そう、かもしれません」
織原は決して間違ってはいない。
梨緒子は離婚の同意を待っているわけではない。離婚届は彼にお灸を据える小道具でしかないのである。
彼が絶対に離婚に踏み切るはずがないと、梨緒子は感覚的に知っている。
「織原先生」
「なんだ?」
「どうぞ、お幸せに――なってください」
「ああ。どうもありがとう」
「絶対ですよ」
心からそう願う。
この男には、とにかく幸せになって欲しいのである。
「お前、人の心配してないで、さっさと彼氏と仲直りしろ。今すぐ、メールの一つでも送ってやれ」
「でも……」
「ぐずぐずしてたら、今度こそ本当に、お前を持ち帰るぞ」
今度こそ――。
織原のその言葉に、思い当たることがある。
「……じ、冗談ですよね?」
「俺は冗談が嫌いだと、何度言ったら分かるんだ?」
しかし。
そんな言葉とは裏腹に、織原の表情は柔らかかった。焦る梨緒子の反応を見て、ただ楽しんでいるだけのようだ。
梨緒子は拗ねたように頬を膨らませてみせた。
「そんなこと言って。優作先生に告げ口して、婚約者さんに今の発言、ばらしますよ?」
「ハッ、それは困るな」
その表情には余裕がある。本当に困ったような必死さはない。
そこへタイミングよく、目の前に注文していた特製オムライスが並べられた。
とろとろの卵から、食欲を誘う香気が立ち上っている。
「いまさらだが、俺と一緒にご飯を食べていいのか?」
「ご飯を食べるのに、いちいち理由なんか要らない。一人より二人で、何か話しながら食べたほうがいい――ですよね?」
「その通り。さあ、冷めないうちに食べるぞ」
二人は頷き合うと、揃ってスプーンをオムライスに差し入れた。
(了)