優しき旋律  (1)

 その日の夕刊に、ベルリン発ニューヨーク行きの飛行機が、大西洋上空で消息を絶ったという記事が小さく載っていた。乗員乗客の数はそれほど多くはなく、その中に日本人がいるかどうかは不明とのことだった。その日はそれきりで、夜のニュース番組でも、キャスターが夕刊と同内容の原稿を読むだけだった。俺の記憶するのはその位で、たぶんこの日も適当にテレビを見て、風呂にも入らないで寝てしまったような気がする。
 朝になっても、いつまでもベッドの中で愚図愚図していた。大学は既に二年留年していて、同期の友人たちは既に社会人という有様だったから、今更真面目に大学に行く気も起きず、ただ毎日だらだらとしていたのだ。適当にアルバイトをして、適当に食べ、適当に寝て、そんな生活が自分の中に染み付いてしまい、社会の流れにのって生活している奴の気が知れないとさえ思うのだった。
 枕元に置いてあった携帯電話が鳴った。小汚い安アパートの室内一杯に響き渡る。
 まだ九時である。俺は腕だけ伸ばして携帯電話を取った。受話ボタンを押すやいなや、甲高い声が聞こえてくる。
『もしもし、高野君? 赤川ですが……もしかして寝てた?』
「寝てた。何だよこんな朝っぱらから。仁美ちゃん、仕事は?」
 立派に社会に出た大学の同期だ。彼女、赤川仁美は俺と同じ音楽科のピアノ専攻で、四年できっちり卒業し、今は音楽教師として、彼女の地元の高校で教鞭を執っている筈である。
『一時間目は授業が無いの。それより高野君! 今起きたってことは、新聞もテレビも見てないよね?』
「当たり前だろ……なんか凄いことでもあったか? 稲葉がライン河に落ちたとか、稲葉がバウムクーヘン食いすぎで入院したとか、稲葉がドイツに永住する気になったとか」
『高野君って相当執念深いのねえ。そんなに稲葉君のこと嫌なの? ああ逆ね。いまだに稲葉君のことを気にかけてるんだから』
「くだらない事を言うなよ。だいたいだな、仁美ちゃんが俺の所に電話するっていったら、九割九分九厘、稲葉のことだろうが」
 そうだったっけ、などと彼女はとぼけてみせる。
 何が執念深い、だ。
 稲葉と俺が一生相容れない仲になったのは、元はと言えばこの赤川仁美のせいだというのに。
 何も知らないとはホント、いい身分だ。
 稲葉もまた俺と彼女の同期・音楽科のピアノ専攻だった。俺と稲葉と仁美ちゃんは同じ教授についていたので、必然的に一緒にいる時間が長かった、というだけのことだった。稲葉とは特に親しく付き合っていたという訳でもない。稲葉は大学を優秀な成績で卒業し、現在ベルリンへ留学中である。
『高野君、昨日飛行機が墜落したって知ってる?』
「へえ、やっぱり墜ちたの、あれ。消息絶ってたのは知ってたけどな」
『その乗客の中に、日本人がいたんだって……』
 日本人。
 この仁美ちゃんの言葉に、俺は返答に詰まってしまった。
 電話機を握り締めている左の掌がじっとりと汗ばんでくる。
 仕事中にわざわざ俺の所に電話を掛けてきたのだ、俺の知っている奴がその飛行機に乗っていた、そういうことなのだ。
 俺は急いで郵便受けに挟まっている朝刊を取りに行った。電話機を左肩で挟み込み、スーパーのチラシが足元に散らばるのも構わず、乱暴にページをめくった。
 あった。昨日の夕刊よりも三倍のスペースで記事が載っていた。
(……嘘だ。何で、何であいつが……)
『高野君? 高野君ってば! 聞こえてるの?』
「どういうことなんだ、これは」
『どういうって、……ねえ、高野君落ち着いてね? あたし今日仕事終わったら、高野君の所行くから! バイトとかも休んじゃって部屋でおとなしくしてて。なるべく、急いでいくからね……』
 仁美ちゃんがそう言って電話を切ってしまってからも、しばらく俺は電話機を耳にあてたまま、新聞の記事を眺め続けていた。
 乗客乗員全員の死亡が確認された。墜落したのは、日本時間で昨日の午後二時過ぎ。
 ちょうど俺が、コンビニで昼飯のカツ丼を温めて貰っていた頃だ、そう考えたら無性に寂しさが込み上げてきた。



 今になって冷静に考えてみると、稲葉と俺の仲違いは大学二年の学内コンクールに端を発している。このコンクールは、あらかじめ用意された課題曲一曲と自由曲一曲を演奏する方式で、予選通過者だけが本選へ進めるというものだった。
 いざ自由曲を選ぶという段階になって、稲葉は俺にこう言った。
「高野君さ、このコンクールで優勝する自信はある?」
 稲葉の細く吊り上がった目が一層細くなる。薄ら笑うその余裕の表情が、その時はやけに癪に触った。
 このコンクールで、といちいち断る必要などないのだ。つまり稲葉の言いたいことはこうだ。
 僕に勝てる自信があるのか。
 稲葉には自分が二位以下になるというシナリオは、初めから用意されていないのだ。
 僕に勝つ、それがイコール優勝、とまで言い切る稲葉は大した自信家である。勿論その自信に見合うだけのご立派な技術があるからこその発言である。
 俺が黙っていると、稲葉はさらに悦に入った表情でこう言った。
「僕は音楽の寵児なんだよ。女神が僕の肩に止まってささやくんだよ」
「幻聴なら、俺に言わないで、耳鼻科で診て貰えよ」
 稲葉はよく俺に何やら訳の解らないことを言ってきた。自分は特別なんだ、というような彼の選民意識を窺わせる台詞を、しょっちゅう口にしていた。
「神じゃなくて女神という辺りが、何だか稲葉君らしいよね」
 俺と稲葉の会話を聞いていたのか、仁美ちゃんが後から声を掛けてくる。
「それで? 女神様は稲葉君になんてささやいてくれたの?」
「完全優勝の実現を約束してくれたのさ」
「コンクールの完全優勝?」
「審査員全員一致の、文句無しでの優勝さ。勿論すべてノーミス、完璧な演奏ができるってね」
「そりや大した女神だな。それじゃ俺がいくら頑張ってみたところで、絶対に優勝は出来ないって事だな。まあ、俺は別にコンクールなんかどうだっていいんだけど」
 芸術に優劣を付けるのは、非常に無意味だと思う。
 陸上競技の様に、記録の良い方が勝ちとか、球技の様に、ルールに則って多く得点を挙げた方が勝ちなんて言うなら話は解るが、美術や音楽において一位を競うというのは、俺には全く理解しがたい。
 審査をするのは人間なのであって、彼らが対象となるものをどう思うかによって決まるわけだ。あまりにも基準が曖昧なのだ。
 ピアノのコンクールに限ってみても、明らかに楽譜に無い音を弾いたり有る音を弾かなかったり(いわゆるミスタツチ)というのであれば別だが、楽譜通り間違いなく弾けて、そこそこ自分の個性が演奏出来ているという段階で、こっちの演奏がいいとか、そちらの方がいいとか、結局最後は審査員の好み、ということになってしまう。いくら叙情的に美しい演奏をしたところで、審査員の半分以上がテクニックとスピードとパワーを重視する人達だった場合、優勝は出来ないということになる。勿論、その逆のパターンだってあるのだ。テクニックだけでは駄目だ、ということはよく聞く話だ。
 コンクールとはそういうものなんだ、審査員の好みがすべてなんだ、と割り切ってしまえば別に大したことが無いように思える。しかし、問題なのはコンクールでの優勝経験がないと、演奏家として認めてもらえないということなのだ。音楽家にとってコンクール歴はどこまでもついてくる非常にやっかいなものなのだ。
 コンクールで優勝しないと演奏家として認められない。優勝するには審査員の好みに合わせなければならない。そのために自分の音楽をねじ曲げて……。
 下らない。なんて下らないのだ。
 そんなコンクールに息巻いている稲葉はもっと下らない。ライバル視されるのだって迷惑なのだ。
「ほーら、高野君たら、そんなに恐い顔しないで。稲葉君もね、競争相手のやる気を削ぐのはフェアじゃないなー。そうよ、あたしだって頑張るんだからね! 油断してると穴馬にやられちゃうんだから」
 仁美ちゃんが稲葉にぴしりと言ったので、俺の気持ちがわずかに軽くなった。いい気味だ。
「でも高野君がさ」
 稲葉は仁美ちゃんの方へ向き、そして俺を横目でちらり見やる。
「コンクールとかテストで力を出し切った演奏をしないから、つまらないのさ。だから挑発してでも本気を出させたいと思うのは当然だろう?」
 仁美ちゃんに言ってはいるが、刺のある言い方が俺に向けられたものであることは間違いなかった。それに対して、俺は一層不機嫌さを増し、稲葉と仁美ちゃんに背中を向けて、そのまま歩きだす。一言だけ言い残して。
「買い被り過ぎなんだよ」
 力を出し切らない演奏? 稲葉、お前に俺の何が分かってそんな台詞を吐くんだ。
 お前は一生、俺のことを理解することが出来ない。お前には絶対に解らないんだ。
 人前であがることの無いお前にはな。
 解る訳が無い。俺は、俺はいつだって。