恋歌
休日の午後になると、彼女はいつも俺にピアノを弾いてくれとせがむ。
もちろん、大抵の曲なら彼女のリクエストに応えられる。これでも一応、音大のピアノ専攻科を卒業したのだから――そんな彼女だって大学時代の同期。俺よりずっと誠実な演奏を披露してくれるはずなのだが。
「高野君が弾くピアノがね、好きなの」
窓際に置かれた一点物の青いソファに身を預けるようにして座り、彼女が俺の名を呼ぶ。
そして俺は、部屋の中央にある小型の家庭用グランドピアノの前にいて、彼女の声を聞いているのだ。
――引っ越したら、スタインウェイのピアノが欲しいよねぇ? 高野君。
彼女の屈託のない明るい笑顔は、出会った頃から変わることはない。
「もうそろそろ――その呼び方、変えてくれない?」
「えー? どうして?」
俺がどうしてそんなことを頼んでいるか、その理由を知っていて、彼女はあえてはぐらかすように言う。
ときおり見せる子供っぽい無邪気な仕草が年甲斐もなく――ほんの少しだけ、可愛い。
「どうして、じゃないよ。もうじき自分だって『高野』になるんだから」
何となく。
自分で口にしておいて、ものすごく気恥ずかしくなってしまった。
彼女が遠くない未来に、俺と同じ苗字を名のる。
それは至極自然なことのようでもあるし、すごく特別なことのようにも思える。
「んー。でもねー、いまさら何て呼ぶ? 何て呼ばれたいの?」
確かに、いまさらという気が俺もしていた。付き合いだしてからはまだ三年ちょっとだが、出会ってからは既に八年――。
ずっと『高野君』だった俺のことを、何て呼んで欲しいかだなんて。
「呼び捨てでいいよ」
「うん、分かった。じゃあ早速……」
俺は思わず唾を飲み込んだ。
彼女と二人きりでいたって、こんなに緊張したことがあっただろうか。
「おい、『高野』――なーんてね。あははは」
……あははは、じゃないだろう。まあ、彼女らしいといえば彼女らしい。
しかし期待が大きかった分、そのダメージも大きい。
「呼び捨てって……そうじゃないでしょうが?」
思い切り、拍子抜けしてしまった。
そんな俺を見て、彼女はウソウソーと、からかうように笑った。
「ええと……和久――君?」
どうしても『君』がないと抵抗があるようだ。
おどけたように疑問形で呼ばれると、かえってこっちの方がこそばゆい。
でも、俺は充分満足だった。こみ上げてくる笑いを何とか押さえようと、鍵盤の上に指をかけ、頭に浮かんできた五線譜の上の音符の羅列をひたすらなぞっていく。
「珍しい選曲なのねぇ。高野君がシューマン弾くなんて」
もう既に、『高野君』に戻っている。まあ、いい。まだまだ先は長いのだ。
彼女は俺の左側に寄り添うようにして、俺の座るピアノの長椅子に移動してきた。弾きにくいことこの上なかったが――俺は構わず演奏を続けた。
もちろん彼女も弾ける曲だ。隅々知り尽くしている曲だから、俺が低い音を弾くために左へ腕を伸ばせば、彼女もそれに合わせてそっと身体を寄せる。反対に高い音を弾くときは俺と一緒に右側へ身体を傾ける。
俺と彼女は、いつのまにか重なり合っていた。やがてこの空間が二人だけの演奏会となる――。
いや、そうじゃない。もう、「一人」。
きっと、聴いているに違いない。
「もし、女の子だったら――ワカナにしようと思うんだけど」
鍵盤上に指を走らせながら、俺は言った。会話を妨げぬよう、強弱記号をまるで無視して、ピアニシモで弾き通す。
「気が早いのねぇ。どんな字?」
彼女はまだほとんど出ていない自分の腹部に手を置き、軽くさするような仕草をする。
「和久の『和』に『奏』でるで、和奏……」
「あ、ずるいんだ。自分ばっかり」
音楽はそこで途切れた。ラストまでわずか数小節を残して――頭の中が彼女と生まれてくる子供のことで一杯になり、弾けなくなってしまったのだ。
俺は鍵盤から両手を下ろした。
彼女は突然の無音状態に驚いたのか、俺の顔を覗き込むようにして心配そうに見つめてくる。
この瞳。本当に出会った頃と変わらない。
俺は彼女の、この瞳に弱いのだ。
「シューマンは――得意じゃないんだよ……」
俺は照れ隠しに、彼女のひたいめがけて、自分のひたいを軽くぶつけてやった。
派手な音がした。
痛みを感じる。と言うことは、当然彼女も――。
彼女が何か文句を言いかけようと、開いたその唇を、俺は有無を言わさず、塞いだ。
彼女は驚いたようにわずかに身を引いたが、俺は彼女の身体を左手で引き寄せ、再び唇を重ねてやる。
すると彼女は、抵抗することなく、俺に身を預けてきた。
愛しい――とても。
彼女の全てと、彼女のお腹の中にいる「俺たち二人」の子供と。
俺の右の手のひらに、彼女の左手が重ねられるのを感じた。俺はその小さな手を包み込むようにして、そっと握り返してやった。
もちろん、大抵の曲なら彼女のリクエストに応えられる。これでも一応、音大のピアノ専攻科を卒業したのだから――そんな彼女だって大学時代の同期。俺よりずっと誠実な演奏を披露してくれるはずなのだが。
「高野君が弾くピアノがね、好きなの」
窓際に置かれた一点物の青いソファに身を預けるようにして座り、彼女が俺の名を呼ぶ。
そして俺は、部屋の中央にある小型の家庭用グランドピアノの前にいて、彼女の声を聞いているのだ。
――引っ越したら、スタインウェイのピアノが欲しいよねぇ? 高野君。
彼女の屈託のない明るい笑顔は、出会った頃から変わることはない。
「もうそろそろ――その呼び方、変えてくれない?」
「えー? どうして?」
俺がどうしてそんなことを頼んでいるか、その理由を知っていて、彼女はあえてはぐらかすように言う。
ときおり見せる子供っぽい無邪気な仕草が年甲斐もなく――ほんの少しだけ、可愛い。
「どうして、じゃないよ。もうじき自分だって『高野』になるんだから」
何となく。
自分で口にしておいて、ものすごく気恥ずかしくなってしまった。
彼女が遠くない未来に、俺と同じ苗字を名のる。
それは至極自然なことのようでもあるし、すごく特別なことのようにも思える。
「んー。でもねー、いまさら何て呼ぶ? 何て呼ばれたいの?」
確かに、いまさらという気が俺もしていた。付き合いだしてからはまだ三年ちょっとだが、出会ってからは既に八年――。
ずっと『高野君』だった俺のことを、何て呼んで欲しいかだなんて。
「呼び捨てでいいよ」
「うん、分かった。じゃあ早速……」
俺は思わず唾を飲み込んだ。
彼女と二人きりでいたって、こんなに緊張したことがあっただろうか。
「おい、『高野』――なーんてね。あははは」
……あははは、じゃないだろう。まあ、彼女らしいといえば彼女らしい。
しかし期待が大きかった分、そのダメージも大きい。
「呼び捨てって……そうじゃないでしょうが?」
思い切り、拍子抜けしてしまった。
そんな俺を見て、彼女はウソウソーと、からかうように笑った。
「ええと……和久――君?」
どうしても『君』がないと抵抗があるようだ。
おどけたように疑問形で呼ばれると、かえってこっちの方がこそばゆい。
でも、俺は充分満足だった。こみ上げてくる笑いを何とか押さえようと、鍵盤の上に指をかけ、頭に浮かんできた五線譜の上の音符の羅列をひたすらなぞっていく。
「珍しい選曲なのねぇ。高野君がシューマン弾くなんて」
もう既に、『高野君』に戻っている。まあ、いい。まだまだ先は長いのだ。
彼女は俺の左側に寄り添うようにして、俺の座るピアノの長椅子に移動してきた。弾きにくいことこの上なかったが――俺は構わず演奏を続けた。
もちろん彼女も弾ける曲だ。隅々知り尽くしている曲だから、俺が低い音を弾くために左へ腕を伸ばせば、彼女もそれに合わせてそっと身体を寄せる。反対に高い音を弾くときは俺と一緒に右側へ身体を傾ける。
俺と彼女は、いつのまにか重なり合っていた。やがてこの空間が二人だけの演奏会となる――。
いや、そうじゃない。もう、「一人」。
きっと、聴いているに違いない。
「もし、女の子だったら――ワカナにしようと思うんだけど」
鍵盤上に指を走らせながら、俺は言った。会話を妨げぬよう、強弱記号をまるで無視して、ピアニシモで弾き通す。
「気が早いのねぇ。どんな字?」
彼女はまだほとんど出ていない自分の腹部に手を置き、軽くさするような仕草をする。
「和久の『和』に『奏』でるで、和奏……」
「あ、ずるいんだ。自分ばっかり」
音楽はそこで途切れた。ラストまでわずか数小節を残して――頭の中が彼女と生まれてくる子供のことで一杯になり、弾けなくなってしまったのだ。
俺は鍵盤から両手を下ろした。
彼女は突然の無音状態に驚いたのか、俺の顔を覗き込むようにして心配そうに見つめてくる。
この瞳。本当に出会った頃と変わらない。
俺は彼女の、この瞳に弱いのだ。
「シューマンは――得意じゃないんだよ……」
俺は照れ隠しに、彼女のひたいめがけて、自分のひたいを軽くぶつけてやった。
派手な音がした。
痛みを感じる。と言うことは、当然彼女も――。
彼女が何か文句を言いかけようと、開いたその唇を、俺は有無を言わさず、塞いだ。
彼女は驚いたようにわずかに身を引いたが、俺は彼女の身体を左手で引き寄せ、再び唇を重ねてやる。
すると彼女は、抵抗することなく、俺に身を預けてきた。
愛しい――とても。
彼女の全てと、彼女のお腹の中にいる「俺たち二人」の子供と。
俺の右の手のひらに、彼女の左手が重ねられるのを感じた。俺はその小さな手を包み込むようにして、そっと握り返してやった。
(了)