名曲喫茶ヴァルハラより

 名曲喫茶『ヴァルハラ』に、一人の青年がやってきた。
 午前十一時の開店時間と同時に、来客を告げるドアのベルの音が響く。
「いらっしゃい。珍しいねぇ、こんな早い時間に」
 青年は店内を見回した。他に客の姿は見当たらないのを確認して、カウンター内の店主に話し掛ける。
「高野楽器に用事があったんですけど、マスターのほうが詳しいからって」
 初老の店主は頷いた。隣が楽器店ということもあって、そこから客が流れてくることは珍しくはない。
 特に、この青年・美濃部達朗が属する交響楽団のメンバーは、ほとんど常連だった。

 店内には大きな窓がない。薄暗い空間に優しいランプの光。ムーディーな雰囲気が漂っている。上品な大人のためのカフェだ。
 もちろん名曲喫茶と謳っているだけあり、この店主は無類のクラシック音楽好きだ。
 朝から晩まで、ご自慢のオーディオシステムを生かした栄えあるサウンドを、惜しげもなく披露している。
 その音源は、半分以上お隣さんの楽器店店長の持ち物だったりするのだが。
「それで? 何を探してるんだね?」
「チャイコンなんですよ。再来月の定演でやることになったでしょう? 実はですね、私初めてなんですよ、チャイコン」
「ええ? 美濃部君、それ……本当なのかい?」
 店主があり得ないといったように首を横に振った。
 そういう反応をされるのは慣れているのだろう、美濃部は理路整然と説明を始めた。
「そりゃあ、曲は知ってますよ? 有名ですから。でも演奏したことはないんです。だから、少しでも多くの演奏に触れて、感覚をつかめたらなあと思いまして」
 店主はため息をついた。そして、背後の専用棚にずらりと並べられているCDを、慣れた手つきで素早く、ひとつひとつ確認していく。
「コンサートマスターがチャイコン未経験というのも、なんだか凄い話だよねえ」
「私は音大出身じゃないですから。あくまでアマチュア上がりですし。自分だって、何でプロオーケストラのコンサートマスターになれたのか、不思議なくらいですよ」
 美濃部は、マスターが次々とカウンターテーブルの上に取り出してくるCDをざっと見渡した。
 十数枚あるそれは、すべてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だった。
 世界トップクラスのヴァイオリン奏者がソリストを務める物がほとんどだったが、その中で一枚、ジャケットが白いままのCDがあるのに気付き、思わず手にとった。
「これはなんですか?」
「ああそれ」
 ヴァルハラのマスターは淡々と言った。
「聴いてみるかい?」
「ええ。これもチャイコンなんですか?」
 美濃部は手にしたCDケースを、カウンターの中のマスターへ手渡した。
 マスターが手馴れた風にCDを入れ替えると、しばらくして音が鳴り始めた。
 やはり、チャイコフスキーである。
「これはね、ソロが富士川君なんだよ」
「えっ? ってことは、バックは芹響なんですか?」
 美濃部はわずかに椅子から飛び上がるようにして、大袈裟に驚いてみせた。
 富士川とは、美濃部の前に芹響のコンサートマスターを務めていた男である。
 諸事情あって退団したが、それでも美濃部にとっては今でも尊敬する、雲の上の存在ともいえるヴァイオリン奏者だ。
「……そういえば僕がまだ入団する前に一度、芹響がチャイコンをやったって、まさかそれが、これ、なんですか?」
 美しい調べに耳を傾けながら、美濃部は店主に尋ねた。
「そうだなあ、確か一昨年だよ。そうか、君はまだこのとき学生だったのか。なんかずっと前からいるような気がしてたけど、そうでもないんだよね」
 美濃部が芹沢交響楽団へ入団したのは、ここよりもずっと北の方にある某国立大学の工学部を卒業した年である。それまでは大学のオーケストラに所属していただけだった。

 まもなく、柔らかな旋律の流れるヴァルハラに、隣の楽器店店長が姿を現した。
「オハヨーさん。マスター、見つかった?」
「あら、高野さん? 珍しいじゃない、こんな時間にここに顔出すなんて」
 高野楽器店は開店時間がまちまちだ。
 パートの店員が昼から夕方まで店番をする以外は、基本的に店長の高野の気分次第なのだ。
 午前中のうちにこの名曲喫茶『ヴァルハラ』姿を見せるのは滅多にないことだった。
 高野はだるそうにカウンターに近づくと、そのまま席に腰掛ける。
「だって、美濃部ちゃんがナンだかを探してるって言うから。ウチの店の在庫と俺の私蔵ライブラリは、マスターのほうがずっと詳しいんだよね」
「そうなんですか。そんな調子じゃ、いつか乗っ取られちゃうんじゃないですか?」
 美濃部はふざけたように言った。
 言われた本人は全くこたえていない。鼻の下を撫でさすりながら――。
「じゃあ俺が喫茶店のマスターやるわ。チョビ髭も生やしてみたりして」
「高野さんには、似合わないねえ」
「喫茶店のマスターが? それともチョビ髭?」
 両方でしょ、とヴァルハラのマスターは楽しそうに笑った。

 高野はふと首を傾げた。
 先ほどから流されつづけていた音楽に、ようやく意識が向いたらしい。
「あれ……? これ、あの時のだ」
「あの時って、……高野先生、これが何だか判るんですか?」
 美濃部は目を丸くした。
「見損なわないでくれよ美濃部ちゃん。俺、これは生で聞いてたんだよ。この演奏って、物凄い『いわくつき』だって、二人とも知ってた?」
 マスターと美濃部はお互い顔を見合わせ、首を横に振った。
 高野は得意げに、うっすらと笑みを浮かべた。
「何で富士川ちゃんが血を吐いたか、とか」
「血を吐いたぁ?」
 美濃部とマスターの声が重なった。
「そうそう、胃に穴があいちゃったのね、ぽっかりと」
 高野の能天気な説明に、二の句が告げずに黙ったまま。
 予想通りの二人の反応に、高野は気を良くし、事の顛末を話しだす。
「また止せばいいのに、芹沢のオヤジがさ、富士川ちゃんの代役として楽ちゃんを呼び寄せようとしたから、静養するどころではなくなってね。ソロ交代などさせまいと、その時の富士川ちゃんといったらもう、まさに鬼気迫るというか……。楽ちゃんは楽ちゃんで、「代役」なんて真っ平ごめんだといって、ウィーンから戻ろうとしなかったしね」
「さすがは富士川君。そういう『いわく』はね、クラシック音楽好きにはたまらないんだよねえ……」
 店主は驚きを通り越し、不謹慎にもうっとりした表情で頷いている。
 富士川祥と鷹山楽人という二人の弟子の確執は、関係者の間ではあまりにも有名でいまさら説明をするまでもなく、皆が納得する暗黙の事項となっている。
 高野の横で、美濃部は釈然としないのか、しきりに目を瞬かせている。
「あの、高野先生、ちょっと聞きたいことがあるんですが。鷹山さんって、ヴァイオリン上手いんですか?」
 思いがけない質問をぶつけられ、高野は面食らった。
 コンサートマスターである美濃部が、ヴァイオリニストでもあった音楽監督のことを何も知らないというのが、高野には驚きだったらしい。
「そりゃあ美濃部ちゃん、オヤジの二番弟子なんだよ? 上手いの上手くないのって」
「そうなんですか……実際に弾いたところを見たことがないので、あんまりイメージが湧かないんですよね」
「簡単には聴けないだろうねえ。楽ちゃん、日本では弾く気ないみたいだし」
「鷹山さんのヴァイオリンかあ……是非、聴いてみたいですね」
 美濃部は富士川の弾くチャイコフスキーのソロパートに酔いしれながら、いまだ聴けぬ鷹山の名演に思いを馳せている。
 それを見て、高野は面倒くさそうに言った。
「録音は多くはないけど、探せばあると思うよ。ねえ、マスター?」
 高野の他力本願な眼差しを受け、ヴァルハラのマスターは困ったような笑みを浮かべる。
 しかし、好奇心も手伝ってか、まんざら嫌な仕事でもないようだ。使命感に燃えているふうにすら思わせてしまう。
「暗に私に探せと言ってる? 高野さんの私蔵ライブラリ、あさるの大変なんだけどねー」
 きっと鳥の巣状態だしね――と、ヴァルハラの店主は楽器屋の主に、親しみを込めて悪態をついた。


(了)