アンニュイな悪魔

 芹沢邸二階の書斎は、音楽監督の仕事場である。
 ホールでの練習がないときには、音楽監督である鷹山はここで過ごすことが多い。

 今日もその例にもれず、鷹山は朝から書斎にこもって、楽譜の研究にいそしんでいた。
 その側には、コンサートマスターを務める美濃部達朗の姿もある。

 美濃部は、鷹山と常に行動を共にしているわけではない。
 彼のマネージメントはアシスタントを務める芹沢華音が行っている。
 しかし、高校生という立場上、学校のある時間は鷹山の側についていられないため、日中は美濃部が代わって雑務をこなしている。

 今日の鷹山は、いつになく落ち着きがない。自分専用のデスクに座り、楽譜を開いたり閉じたり、何度も繰り返している。
 奇妙な行動だ。
 しかし鷹山は普段から感情の起伏が激しく、持ち前の饒舌さを発揮してひたすら喋りまくることもあれば、まるで西洋人形のように動かずじっとしていることもあるため、この程度の挙動不審は、取り立てて珍しがることでもない――のだが。
 美濃部は書棚に向かって演奏会記録の整理をしながら、あくまで自然を装って尋ねた。
「鷹山さん、何かご予定でも?」
「どうしてだい?」
「先程から時間を気にしていらっしゃるようなので。今日は急ぎの案件もありませんし、早めに戻られたらいかがですか? 華音さんには私から伝えておきますから」
 それに対しての、鷹山からの返事はなかった。
「芹沢さん、今日は随分と遅いようだけど」
「今日はバレンタインですからね。女子高生だといろいろとあるんじゃないですか?」
「いろいろって?」
 鷹山の憂いに満ちた大きな瞳が、訝しげにゆっくりと瞬いた。
 彼女の行動が、とにかく気になっているらしい。
「ああ、ひょっとして華音さんのことを待っていらっしゃるんですか?」
「待ってなんかいないよ。訳の分からないイベントにうつつを抜かしてバイトの時間に遅刻でもしてきたら、説教の一つでもしてやらないと、と思っているだけさ」
 鷹山はまくし立てるようにして言い切った。
 それが本心でないことは、傍から見ても明らかだ。
 美濃部は試すようにして、さらにツッコんだ。
「へえ、華音さんからのチョコを待っていらっしゃるというわけじゃないんですか」
「別に僕はチョコなんか欲しくないよ」
「ですよねぇ。鷹山さんだったら毎年食べきれないほどもらえるでしょうし。私たちみたいにチョコレート一つに嬉々としてはしゃいだりなんか、しませんよねぇ」
 美濃部は感心したように頷いた。
 その言葉は決して嫌味などではなく、純粋に尊敬の念から来るものらしい。
 鷹山はおもむろに立ち上がると、着衣を軽く整えて部屋の中ほどへと進み出た。
「もういい、僕は帰る。芹沢さんが来たら、今日はバイトなしだと伝えてくれ」
「分かりました」
 ドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
 美濃部が大きく息をつくと、またすぐに足音が近づいてきた。
 そして再び、ドアがゆっくりと開く。
 美濃部は驚きもせず、淡々と尋ねた。
「忘れ物ですか?」
「いや――やっぱり自分で言うよ。彼女の上司は僕だし」
「そうですね。じゃあ、私が先に帰りましょうね」
 美濃部はどこまでも天邪鬼な音楽監督を一人残し、こみ上げてくる笑いを堪えながら、そそくさと書斎をあとにした。


(了)