悪魔と小悪魔のカフェ

「あ、すごい。膨らんできた……」
 華音はオーブンのガラスに顔を近づけて、中をじっと覗き込んでいた。
 甘い匂いがキッチンじゅうに漂っている。

 執事や家政婦のいる芹沢家に生まれ育った華音は、当然のことながら料理をする機会はほとんどなかった。
 そんな華音がお菓子作りに挑戦している、その理由は――。

 もちろん、食べてほしい対象が存在しているためである。


 今日の鷹山は珍しく静かだ。ソファに行儀悪く寝転がって、のんびりと本を読んでいる。決して暇ではないはずなのだが、仕事をする気にならないようだ。
 このように一度腑抜けた状態になってしまうと、必然的に彼のアシスタントである華音の仕事もなくなってしまう。楽譜の整理をしたり、スケジュール帳を眺めてみたり――しかし、たとえ仕事がなくても、彼のそばには控えていなければならない。


「どこに行くの?」
 書斎を出て行こうとする華音を、鷹山はすかさず呼び止めた。
 華音はドアノブに手をかけた状態で、背後を振り返った。
「トイレとか」
「『とか』って何?」
 いつもながら、鷹山は華音の行動をいちいち詮索し、そして束縛しようとする。
 華音は深々とこれ見よがしにため息をついてみせた。
「……何なんですかもう。一人じゃ寂しいんですか?」
「寂しいわけないだろう。上司が部下の行動を把握して何がおかしいんだ? 黙って出て行こうとする君が悪いんじゃないか」
 相変わらずの減らず口だ。
「家の中にはいますから、至急の用事だったら携帯で呼んでください」



 鷹山という男は、コーヒーをこよなく愛している。
 甘い物好きだという印象はないが、決して嫌いではないらしい。

 いつものコーヒーの時間は、華音が準備をすることになっている。
 彼の居室である書斎にも、コーヒーを淹れるための専用のスペースがあるのだが、今日は適当な理由をつけて書斎を出て、階下のキッチンまで降りてきた。

 ――今日は特別。

 執事の乾が出かけるのをいいことに、華音はティータイムの準備を請け負った。
 芹沢家の人間である華音に執事は、とてもそんなことはさせられない、前もってコーヒーとお茶菓子は用意していく――と、頑なに拒んでいたが、その理由を伝えると、簡単に納得してくれた。
 執事の乾にしてみれば、一見仲睦まじい兄妹の姿は、他の何にも代え難い喜びなのである。
 そう、『一見』――。



 鷹山が芹沢邸にやってくる前に、下ごしらえはある程度済ませてあった。
 華音が作っているのは、ブラウニーとフィナンシェを足して二で割ったような、ココアとナッツのたくさん入った焼き菓子だ。
 オーブンの中で、小さなカツプ型に入れたその生地は、予想以上に膨らんでいる。
 もうすぐ、完成だ。

 華音はでき上がったものをオープンから慎重に取り出しながら、ふと首をひねった。

 ――材料の配分がイマイチだったかな?

 しかし、硬いよりは軟らかいほうがまだいけるだろう――華音はひとりそう勝手に決め込んだ。

 その時である。

「ねえねえ、君さ、何作ってるの?」
 背後から突然声を掛けられ、華音は心臓が止まりそうになった。
 振り返るとすくそこで、美貌の悪魔が不思議そうにして、あちこち観察するようにキッチンじゅうを見回している。
 あんなにやる気を見せずにだらだらとしていたはずなのに、わざわざ下まで降りてくるとは――さすがに予想していなかった。
 鷹山を驚かせようと企んでいた華音の思惑は、もろくも崩れ去ってしまった。
 華音は見破られてしまったことがなんだか悔しくなって、とても素直な気持ちにはなれなかった。
「……何でもいいでしょ? 別に、鷹山さんのために作ったわけじゃないですから」
 もちろん嘘だ。心にもないことを、口走っている。
 しかしこの男には、もうすでにそれが嘘だということが――ばれてしまっている。
 その証拠に、鷹山は訝しげに焼き菓子と華音を交互に見つめ、じわりと問い詰めてくる。
「ふうん……誰に食べさせるの?」
「自分で食べるんです」
「こんなにたくさん、一人で?」
「んもう。あとから余ったのを持っていきますから、あっち行っててください。言っておきますけど、鷹山さんはついでですから」
 そう言うと、鷹山は大きな瞳を意味ありげに瞬かせた。
 目が合ったと思ったその次の瞬間、鷹山は表情を崩さず淡々と、焼きあがったばかりの焼き菓子に、片っ端から指を突き刺し始めた。
「あ、ちょっと!」
 華音が止めるも鷹山は聞く耳持たず、気付いた時には、すべての焼き菓子に無残にも穴が開けられてしまっていた。
「信じられない……それが大の大人がすること?」
「まだ熱いじゃないか。火傷したよ絶対。慰謝料払って」
「…………念のため聞きますけど、慰謝料って何ですか」
「慰謝料? 『生命・身体・自由・名誉・貞操などを侵害する不法行為によって生じた精神的苦痛に対する損害賠償』のことだよ」
「もう、言葉の意味じゃなくて! ホントは解ってるくせに、どこまでも天邪鬼ですよね、鷹山さんって」
「君こそ、いちいち聞かなくったて解ってるだろう?」
 鷹山はわずかな隙を突いて、華音を背後から抱き締めた。そして逃れられないように、しっかりと羽交い締めにしてくる。
 これは愛情だけではない。
 プライドが高い悪魔な彼の、完全な仕返しだ。
「やっ、やっ、止めてよ! んもう、エロオヤジーっ!!」
「フン、何とでも言えばいい。乾さんは用事足しに出かけちゃったし、大声出したって誰も来ないよ」
 まずい。だか、しかし――。
 ここでひるんでいては、悪魔の思う壺だ。
 華音は気を取り直し、悪魔の誘惑を一蹴した。
「嫌がる女子高生に無理やり手出しして、恥ずかしくないんですか? 誰にも言うななんて脅しは私には通用しませんよ。鷹山さんに何をされたか、事細かく美濃部さんに言いつけますから!」
「美濃部君が君の世迷言なんか本気にするもんか。ハッ、言いつける相手がオーナーじゃないところが、どうしようもなく可愛いところだな」
 饒舌な彼はためらうことなく流暢に『可愛い』などと耳元で囁いてくる。
 大した意味もなくさらりと口にしただけかもしれないが、しかし華音の頬を赤らめるのには充分な色気があった。

 やはりどんな事があっても――この男にだけは絶対に勝てないのだ。

 華音は鷹山に背後から抱き締められその腕の中で、静かにため息をつき、抗うのを止めた。
「あれ、もう嫌がるのは止めたの?」
「どうして……大人しく、素直に、待っていて……くれないんですか」
「僕は人一倍、こらえ性がないんだよ」
「それは充分、よく知ってます」
 華音の答えに鷹山は満足そうに頷くと、テーブルの上の焼き菓子を一つ手に取った。
 そして、それを後ろから上手く、華音の口にあてがうようにする。
「はい、口開けて」
 毒見させる気らしい。
 華音はとっさに顔をそむけた。
「ヤだ、鷹山さんが指突き刺したやつでしょ、それ?」
「分かったよ。君もいちいちうるさい人だね」
 すぐ耳元で、さくりと音がした。
 彼の咀嚼の振動が、温もりとともに伝わってくる。
「これでいいだろ。はい」
 鷹山は指を突き刺した部分を食べ、残りの部分を華音の口元に再び向けてきた。
 当然のことながら、彼の歯形がしっかりとついている。
「間接キス……ですよ、これ」
「そうだよ。美味しさ倍増」
「そんなことよく自分で言えますね。自信過剰――――んんんっ」
 華音の反論は、焼き菓子とともに無理矢理口の中へと押し込まれた。
「いいから早く食べろよ。続きは書斎へ戻ってからするから」
「つっ、続きって、何を!?」
 鷹山はようやく華音を解放し、呆れたようにため息をついた。
「何をって、お茶の続きに決まってるじゃないか。まったく君って人は……」
 その答えが、はたして本当なのか嘘なのか、華音には分からない。
 悪魔と呼ばれる男の相手をするのは、至難の業なのだ。天邪鬼で気まぐれで、言動不一致はしょっちゅうだ。

 華音は、悪魔からの挑戦をすべて受けて立ってやる――そう心に決め、残りの焼き菓子を抱え、先を行く鷹山のあとを追い、書斎へと向かった。


(了)