Holy night music

 空から雪が無限に舞い落ちる、凍てついた夜――。
 富士川青年は両手にたくさんの荷物を抱え、積もる雪を踏みしめながら、芹沢邸へとやってきた。
 隣接する離れに明かりがついている。すでに執事が母屋から移ってきたらしい。

 富士川は離れのドアを叩いた。
 すぐに芹沢家の執事の乾が、夜更けの訪問者を出迎えた。
「どうなさったんですか、富士川様?」
「夜分遅くにすみません、乾さん。先生はもうお休みですか」
「まだ書斎のほうへいらっしゃいますよ。お急ぎのご用件ですか?」
「急ぎというか、あの、お願いがありまして」
 富士川青年の説明は、何故か歯切れが悪い。
 執事は、そんな富士川が手にしていた両手の荷物を眺め、『お願い』の事情を悟ったようだった。


「どうしたんだね、こんな時間に」
 芹沢老人は自身の書斎で一人、柔らかなランプの光の中で、リクライニングチェアに腰かけて、静かに本を読んでいた。
「サンタクロースが、私にプレゼントでも持ってきてくれたのかね」
 芹沢氏は、弟子が手にしている袋の中の『包み』に目をとめ、勘繰るように尋ねた。
「え? あ、いえ、これはその――」
「冗談だよ。分かっている、あの子へのだろう?」
 富士川は思惑を簡単に見破られ、照れたように頷いた。
「華音ちゃんの部屋の近くで、クリスマス向けの小品をいくつか演奏したいんです。お騒がせすることになると思うので、先生にお許しを頂こうと思いまして」
 隣の部屋から演奏し、目的の人物が目覚めて、様子を見にやってくる――それが富士川の用意した『クリスマスのサプライズ』である。
「それは構わないが……その格好で演奏するのかね?」
 芹沢氏はプレゼントの包みが入った紙袋の、さらに後ろのほうにあったもう一つの紙袋の中身に目をとめた。
 赤い布と白いボンボンが、紙袋の端からのぞいている。
 富士川は、にわかに動揺し始めた。
「え、あ、その、華音ちゃんももう六年生ですし、こんな格好して喜ぶとは思わないですけど、チェロの宇佐美さんがこういうパーティー用の衣装なんかたくさん持っていて、せっかくだから貸してくださるということで、断り切れずに――」
「別に責めているわけではない。二役をこなすのは大変なのではないかと思ってね」
 芹沢氏は読んでいた本を静かに閉じた。
 そして、ようやく弟子の顔をしっかりと見つめ、さらりと事も無げに告げた。
「私が代わりに弾いてやろう。祥、お前はサンタクロース役に専念したらいい」
「いえいえいえそんな! 先生に弾いていただくなんてとんでもないことです!」
 富士川青年は激しく首を振り、師の申し出をすかさず断った。
 現在はオーケストラの指揮者として活躍しているが、その昔は世界に通用するヴァイオリニストとして名を馳せた経歴の持ち主だ。
 冗談でも、気安く演奏をお願いできる存在ではない。
「しかし、弾きながらプレゼントは渡せまい? なに、気にすることはない。腕は鈍っているが、演出の添え物程度には、まだ役立つだろう」
「添え物だなんて、そんな……」
 敬愛する師に謙遜までされてしまっては、どうしたらよいものか――富士川青年はひたすら悩んだ。
 すると。
 師弟のやり取りをそばで見守っていた執事が、富士川青年に助け舟を出した。
「旦那様、富士川様が華音様に演奏して差し上げてこそ、価値があろうかと存じますが」
「なんだと? 私では役不足と?」
「静かに見守られるのもまた、楽しいではないですか」
「私だってこんなことでもなければ、あの子に何かをしてやれることもない」
 そのひと言に、弟子と執事の心が、ともに揺れた。
 芹沢氏は、その厳しく頑なな気質が災いし、お世辞にも孫娘と良好な関係とはいえなかった。
 もちろん芹沢氏に孫娘への愛はある。それは弟子の富士川も、執事の乾もよく分かっている。
 しかし息子夫婦を事故で亡くすなど、その複雑な家庭環境からか、孫娘に対して真っ直ぐな愛情を注ぐことができずにいるのが現状なのである。
「そうだ! だったら、先生がこれを!」
「ああ、そうですねえ。ご年齢を考慮いたしますと、旦那様がサンタクロース役を務められますほうが、自然かと……」
「待ちなさい。私がこんなものを着られるとでも思っているのかね」
 芹沢氏の声は淡々としているが、明らかに面食らっているようだ。
「別に外に出られるわけではありませんし、華音ちゃんが寝ている枕元に、そっとプレゼントを置いてくるだけですから!」
「だったら尚のこと、衣装に着替えることもあるまい」

 そのときである。
 突然富士川青年の背後から、何者かが抱きついてきた。
「祥、ちゃん……」
 富士川は驚きのあまり、抱きつかれた腕を振り解くようにして振り返った。
「か、か、華音ちゃん?」
 そこに立っていたのは、パジャマ姿で眠たそうな目を瞬かせている孫娘・華音だった。
 普段であれば、華音が祖父の書斎に近づくことはほとんどない。しかし、執事がドアをわずかに開けていたため、その隙間から様子をうかがい、富士川青年の姿を見つけたため、中へと入ってきたらしい。
「祥ちゃんの声が聞こえたから、起きちゃった。どうしたの、こんな夜中に?」
 華音の問いに、富士川青年は黙ったまま、困惑の表情を浮かべてたたずんでいる。サプライズを敢行できなかった焦りが、富士川青年の言葉を失わせてしまっているようだ。
 祖父も口を真一文字に結び、厳しい顔で状況をうかがっている。
 華音は不思議そうに首を傾げるばかりだ。

 確かに、仕事絡みの話をするには遅すぎる時間だ。しかし、富士川は数年前までこの芹沢邸に居候していたことがあり、マンションで一人暮らしをしている今も、里帰りをするように芹沢邸に泊まることも多い。
 そのため、夜遅くに邸内にいても不思議ではないはずなのだが、やはりその理由は、華音は気になってしまうようだ。

 場の状況を見かねた執事が、後ろのほうから補足するように説明をした。
「華音様、サンタさんがプレゼントを持ってきてくれましたよ」
「ホントに? やった、祥ちゃんありがとう!」
 執事の説明で、『サンタクロース』は富士川祥であるということを、華音はすぐに悟ったようだ。
「喜んでもらえて、嬉しいよ」
 富士川青年は安堵したように、ふわりと和やかな笑顔を見せた。

 小難しい演出など、必要なかったのである。
 赤い衣装を着ていなくても、トナカイを連れていなくても、鈴を鳴らしてそりに乗っていなくても、大きな袋にプレゼントを入れて煙突から家の中へと入らなくても――いいのである。

 執事はさらに付け加えるようにして、華音に説明をした。
「今夜は特別に、華音様のためにサンタさんたちがヴァイオリンを弾いてくださるそうですよ」
「サンタさん『たち』?」
 芹沢老人は咳払いをした。
「ちゃんと着替えてから、奥の客間まで来なさい」
「――はい、おじいちゃん」
 華音は厳格な祖父の言いつけを素直に聞き、リボンの掛けられた大きな包みを抱え、一度自分の部屋へと引き返した。

「さあ祥、私たちも着替えるとしよう。どんなに小さくても、演奏会を開く以上は身なりを整えるのが礼儀だからな」
「あ――はい、先生!」
 そのまま、祖父は諸々の準備をするため、書斎と隣接している寝室へと一人消えていった。

 富士川青年は荷物を携えて、執事とともに芹沢氏の書斎をあとにした。
 長い芹沢邸の廊下をゆっくりを歩きながら、富士川はいまだ途惑いを隠せずに、執事に語りかけた。
「驚いたな……まさか本当に弾いてくださるとは思っていなかったので」
「楽しみでございますね。一緒に弾かれるのはしばらく振りのことでしょうから」
「どうしよう……俺、ステージ衣装を持ってきていないんですけど」
「富士川様は、ご持参したものをそのまま身につけられたらよろしいかと」
 執事は紙袋に入っている赤い衣装に目配せをした。
「これですか? ……俺だけ浮きませんか?」
 身なりを整えると言っていた以上、師は礼装するのだろう。
 安物のサンタクロース衣装で、師の隣に立つのはおそろしく気が引ける――富士川青年は困り顔で、廊下の天井を仰いだ。
「大丈夫、今夜は特別ですよ。愛する家族のための『聖なる夜』ですから」
「でも俺は、家族じゃないですよ?」
 富士川青年のその言葉を、執事はわずかな隙もなく押し止めた。
「何をおっしゃいますか。富士川様はご家族の一員です。華音様にとって、何よりも大切な御方なのですから」
「そうであって――欲しいですけどね」
「どうぞ華音様に、素適なヴァイオリンをお聴かせになってくださいませ」
 そう言って、芹沢家の老執事は慈しみ深く穏やかに微笑んだ。


(了)