この世の果ての小さなオアシス

 芹沢邸は、閑静な住宅街の広大な敷地に建てられた、大きな大きな洋館である。
 噴水を有する英国式の前庭と、手入れの行き届いた芝生と花々が美しい中庭が、芹沢邸の自慢だ。
 屋敷の主は、日本屈指の指揮者である。この広大な邸宅に、妻と幼い孫娘と三人暮らしである。

 いや、家族ではない人間がもう一人。
 芹沢氏の一番弟子である若者が居候中だ。

 弟子の名は、富士川祥という。
 富士川がこの芹沢家で暮らし始めてから、すでに六年という歳月が経っていた。
 居候当初は高校一年生だった彼も、今では音楽大学の三年生である。いつのまにか飲酒が認められる歳になっていた。

 富士川青年の部屋は芹沢邸の離れの、ちょうど執事の部屋の向かいに位置している。
 住み込みの弟子と言っても、付き人として生活を共にするような関係ではない。師の身の回りの世話などは、すべて執事や通いの家政婦がしていた。

 芹沢氏の妻は、ほとんど自室としているサロンにこもっていて、富士川が頻繁に顔を合わせることはなかった。
 息子を事故で無くしたショックから、精神を病んだ――と、師の芹沢英輔から説明をされた。
 夫人が比較的気分が落ち着いている日には、富士川が話相手を務めることもあったが、その話題はいつも『自慢の一人息子』の話だった。


 息子夫婦の不慮の事故で残された忘れ形見――芹沢華音という少女の相手をするのが、この芹沢家においての富士川青年の主な役目だった。
 といっても、給料を貰っているわけではない。学費と生活費を出してもらっているせめてものお礼にと、富士川が自主的にやっていることだ。
 幼い子供の面倒を見ることが芹沢夫妻には困難で、執事や家政婦だけでは精神面の養育に不満があったのだろう。芹沢氏もそれを見越して、住み込み可能な弟子を捜していたためか、富士川の申し出を快く承知した。
 かくして、音楽を学びながら幼い少女の面倒を見るという生活が、富士川青年にとっての日常となっていたのである。



 音大での富士川は、真面目で堅物だと周囲に評されていた。コンパなどの誘いに一切応じることはないのも、その理由の一つだ。
「富士川ってさ、あの芹沢先生のお宅に住んでるんだって?」
 好奇心を満たそうと富士川に声を掛けてきたのは、直井という同期の学生だった。
 特に仲が良いわけではない。
「ああ、そうだけど」
「親戚か何かなの?」
「そういうわけじゃないけど」
 訊かれることに、肯定否定のみの返答をする。
 隠しているわけではなかったが、余計な詮索が煩わしくて、これまで多くを語ろうとはしてこなかった。
 直井は不服そうにして、さらに富士川に詰め寄った。
「じゃあ、なんで?」
 直井の口調がさらに強くなる。
「みんな不思議に思ってる。大した経歴もないのに、どうやって推薦枠で大学に入学してきたんだ――って」
 まさに、『煩わしい余計な詮索』である。
 彼ははっきりと口にしただけで、周囲の同期はみな同じことを思っているにちがいない。
「まあ、芹沢英輔っていえば学長とも懇意だというし。ようはコネなんだろうけど」
 それは分からない。
 口添えがあったかもしれない。
 しかし、芹沢英輔という音楽家は厳格な音楽性の持ち主である。決して実力も才能もない人間を、推薦したりはしないはずだ。
「でも、先生とお前は他人なんだろ? なんでそこまで優遇されてるの?」
「やめなよ直井くん」
 見るに見かねたのか、側にいた女子学生が直井を制した。
「ひがんでるヒマがあったら、有名な演奏家の目にとまるように練習を積めば?」
 図星をさされ、直井はばつが悪そうにしている。
 空気が淀んでいる。個人の実力がすべてものを言う音大においては、このような些細な嫉み僻みはよくあることだ。楽器が一緒だと、その敵愾心がマイナスに働くこともある。
 なんでそこまで優遇されてるのか――直井の疑問はもっともなことだった。
 他の学生はお金も時間も使っているというのに、富士川は衣食住を保証され、お小遣いも与えられ、学費の心配もせずにいるのだ。
 女子学生はさらに富士川を援護する。
「あんな大邸宅に住んでるって言ったって、別に御曹司じゃあるまいし、ねえ。四六時中付き人みたいにして、雑用こなしてるんでしょ? 大変じゃない?」
 それを聞いて、直井は面白くなさそうに吐き捨てた。
「ハッ、雑用ったって、幼女の遊び相手をさせられてるだけなんだろ?」
 その言い方はどうなんだか――しかし、決して間違ってるとは言い切れないため、富士川は反論できずに深々とため息をついた。



 華音の面倒を見ることは、富士川青年にとって、もう生活の一部なのである。
 朝起こして、着替えさせて、一緒にご飯を食べて。
 帰ったら宿題をみてあげて、富士川の自主レッスンの時間には、華音は同じ部屋の隅で本を読んだりお絵描きをして過ごす。
 晩御飯を一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、午後九時に寝かしつける。

 華音が朝目を開けて一番最初に見えているものが、富士川の顔。
 華音が夜まぶたを閉じるその直前に見えているものも、富士川の顔。

 それが当たり前なのである。華音が物心ついたときからずっと、毎日そうしてきたのだ。

 華音が眠りについた後は、ようやく富士川一人の自由時間だ。
 離れの自室で、誰に気兼ねすることなく気ままに過ごしている。
 文献を読んだり、楽譜の研究をしたり、講義のレポートを書いたり――ほとんどの時間は勉強につかわれる。そのため、富士川の部屋にはテレビなどない。お陰で、若者の流行り廃りにはきわめて疎かったりする。
 簡素な部屋だ。
 大きなものといえば、音大にストレートで合格したお祝いにと、師の芹沢氏から貰った祝い金で購入したオーディオシステムくらいだ。

 ふと、直井の言葉が脳裏をかすめていく。

 四六時中付き人みたいにして。
 幼女の遊び相手を、させられて――。

 させられている、のだろうか?
 富士川は腑に落ちない。
 少なくとも大学の同期たちの目には、そう映っている。

 両親のいない彼女に同情している。それもある。富士川自身、中学時代に母親を亡くし、身寄りと呼べるような近い親戚もいない。華音の境遇に自分のそれを重ね合わせ、つらいことがあれば助けてやりたいと感じている。
 それは確かなのであるが――。


「富士川様。まだ起きていらっしゃいますでしょうか」
 芹沢家の執事だ。離れでは、富士川と隣同士の部屋で暮らしている。
 時刻を確認すると、すでに日付が変わりそうだった。母屋の芹沢家の人々は就寝が早いため、乾も十一時頃には休んでいることが多い。
「まだレポートができていなくて。どうかしたんですか?」
「華音様がなかなかお休みになられなくて……旦那様も奥様もすでに休まれておりますし、どうしたものかと」
 富士川はパジャマの上にもう一枚上着を羽織り、母屋の洋館へと向かった。


 華音は二階の自分の部屋のベッドの上で、鼻をすすりながらぐずって泣いていた。
「どうした? 怖い夢でも見たの?」
 富士川は掛け布団を引き剥がし、ベッドの上の華音を抱き起こした。
 背中に回される手が小さい。しかし、力強くシャツを握りしめてくる。
「あのね、祥ちゃんがいなくなっちゃったの。だから悲しくなって……」
「夢だからね、それ。俺はここにいるじゃないか。どこへも行かないよ。華音ちゃんを放っておいて、いなくなるわけがないじゃないか?」
「ずっとここにいて」
 華音は富士川に抱きついたまま、離れようとはしない。
「学校の宿題があるんだよ。だから」
「一人ぼっちにしないで、祥ちゃん」
 泣き止まぬ彼女をひとり残して、部屋へは戻れない。
 しかし、明日提出期限のレポートはあと一息というところ。
 富士川青年は観念したようにため息をついた。
「枕持って、俺の部屋においで」


 富士川は自分のベッドに華音を横たえ、部屋の照明を落とした。
 机の上のスタンドの明かりだけで、レポート作成を続ける。
 部屋の中は静かだ。背後から泣き声も聞こえてこない。
 きっとすぐに眠ったのだろう。もう深夜である。子供には遅すぎる時間帯だ。

 レポートが一段落したところで、富士川は椅子の上で大きく伸びをした。
「終わった?」
 突然背後から聞こえてきた少女の声に、富士川は勢いよく振り返った。
「華音ちゃん! まだ起きてたの?」
「うん」
 俺が終わるの、待ってたのか――富士川はえもいわれぬ気持ちで一杯になった。
「だって、祥ちゃんが一緒じゃないと眠れないもん」
「学校で居眠りしたらどうするの……まったく」
 富士川が自分のベッドに近づくと、華音は嬉しそうに仰向けのまま横に身体をずらしスペースを空ける。
 ここが二人の安らぎの世界なのだ。
 富士川は空いたスペースに隙間をつくらないように、自分の身体を横たえた。
「狭いけど、我慢して」
「祥ちゃん、落ーちーるー」
 さすがにシングルベッドでは、二人で眠るにはかなり狭い。富士川は寄り添う華音を掛け布団ごと引き寄せる。
「寒くない? ちゃんと布団掛かってる? ほら、もっとこっちへ寄って」
 言われるがままに素直にもぞもぞ動いている。
 富士川の胸の中から、安らかな寝息がすぐに聞こえてきた。

 直井をはじめとする同期の学生たちには、きっと理解などできるまい。
 必要とし、必要とされる小さな楽園の存在は、自分たち二人だけが知っているのだから。


(了)