36度が恋しい悪魔

 寝入り端に脳天へ響いてくる携帯の着信音に、華音は不機嫌をあらわにして、のそのそと枕元に手を伸ばした。
 曲は、彼の好きなワーグナーの、『ワルキューレの騎行』だ。
 当然、かけてきた相手は、悪魔な音楽監督・鷹山である。
「はい、芹沢です」
『水』
 たったの二文字。
 彼の声に間違いはない――が、しかし。
「…………はい?」
『早く、水持ってきて。飲み過ぎた』
「持ってきてって、鷹山さん今どこですか?」
『部屋にいるよ』

 ――水なら乾さんに頼めばいいのに。

 今夜は確かに会合が入っていたはずだった。
 彼がアパートに一人暮らしをしていたときには、当然自分のアパートの部屋へと帰っていたわけで、お酒に酔った彼の姿を目にしたことは、華音はいまだかつてなかった。
 華音は途惑った。
 鷹山が芹沢邸に住まいを移してからは、公私の線引きが難しくなっている。
 彼のアシスタントとしてのアルバイト中ならまだしも、パジャマに着替えた状態で、彼の部屋を訪れるのは抵抗があった。
 もうじき日付が変わろうというこの時間であれば、執事の乾に酔っ払いの介抱を任せたいところである。
 しかし、彼には逆らえない。彼の言うことなら何でも受け入れてしまう自分がいるのである――。



 水差しとグラスをトレイに載せて、鷹山の部屋を訪れた。
 鷹山の部屋は、華音の部屋のある棟と向かい合う、反対側の端に位置している。もともとは客間として使われていた部屋だ。

 中へ入ると、薄暗かった。
 ベッドサイドのランプの暖かな光の中に、ベッドに横たわる鷹山の姿がほんのりと浮かび上がる。
 華音はサイドテーブルの上に水差しをトレイごと置いた。
「水、ここに置いておきますから」
「何、その言葉遣い。今は仕事中じゃないだろう?」
 薄暗闇に、鷹山の艶のある声が響く。
 華音はひどく嫌な予感がしていた。
 自分のアシスタントに水を持ってこさせた――という思惑ではないようだ。
「君、可愛いね」
 完全に酔っている。二重人格で天邪鬼の彼が、間違っても面と向かって『可愛い』と褒めることなど、ありえないのだ。
「服、脱がせて」
「ええ?」
「苦しいから、早く」
 華音は渋々鷹山の横たわるベッドの側まで寄った。そして、ネクタイを解きにかかる。
 アルコール臭が鼻についた。泥酔一歩手前らしい。
 ときおり苦しそうに眉間にしわを寄せ、もどかしそうにシャツのボタンをかきむしる。
 華音は鷹山のその手を避けるようにして、何とかシャツのボタンを外した。
「下も」
「自分で出来るでしょ?」
「出来ない。脱がせて」
「……」
「恥ずかしがるなよ」
 どうにでもなれ――華音はもはや諦めの境地で、鷹山のベルトに手をかけた。しかし、薄暗い視界と慣れない作業に、予想以上に手間取ってしまう。
 鷹山の両手が、華音の両手を掴んだ。
「ここをこうやって……こうするの。解った?」
「んもう! やっぱり自分で出来るんじゃない!」
「寒い……」
「今もう一枚毛布持ってくるから」
 華音は毛布の在り処を考え巡らしながら、半裸でぐったり横たわる鷹山に背中を向けた。
 目眩がした――立ち眩みを起こしたという感覚に近い。平衡感覚がなくなり、背中に衝撃を受けた。
 何が起こったのか、華音はすぐに分かった。原因は背後から抱きついているであろう男の仕業である。
 敵に背後を取られてしまった自分が、あまりにも情けない。
「人肌が一番、気持ちいい」
 鷹山は華音のピタリと張り付いている。脱げかけた服の擦れる感触と、生肌の滑らかな感触。両腕はしっかりと華音のウエストに回されている。
「止めて止めて止めてってばーっ!」
「いいだろ別に。君は服着てるんだし。脱いでくれたらもっと嬉しいけど」
 完全に抑えがきかない――華音は自分の身の危険を察した。
「酔ってる男なんてイヤ! 放して、放して、はーなーしーてーっ!」
 狭いベッドの上で、鷹山を引き剥がそうと必死に抗った。
 鷹山はようやく諦め、腕の力を緩めた。華音は勢い余って、ベッドの端から床へと転がり落ちる。
 鷹山は助けの手を差し伸べるでもなく、いい気味だと言わんばかりに吐き捨てるように言った。
「ホント、君って女は行儀が悪いんだから」
「それを言うなら、鷹山さんは手癖が悪い、でしょ!」
 華音は痛む腰をさすりながら、自力で床から起き上がった。本当に油断も隙もない。華音は半裸で横たわる鷹山を睨みつけた。
 すると。
 鷹山は、突然真顔になった。
 大きな瞳が妖しい光を帯び、ゆっくりと瞬く。
「酔ってる男はイヤって……酔ってなかったら、いいんだ? そういうことだよな?」
「え……っと、いや、その」
 やられた――華音は、鷹山の憂いに満ちた微笑みの中に、悪魔の影を見た。
「明日の夜が楽しみだ。おやすみ、湯たんぽ君」
 それだけ言うと、鷹山は薄い掛け布団を自分で引っ張り、ミノムシのように包まった。

 結局鷹山は、華音が持って来た水差しには手をつけることなく、そのまま寝入ってしまった。
 いったい何がしたかったのか、そして彼の言葉が本気なのか冗談なのか――華音には到底判断することなができない。
 悪魔な彼を愛してしまった少女は、深い深いため息をつきながら、彼の部屋をそっとあとにした。


(了)