ちょー大事

 そもそもの始まり――。

 それは、永瀬秀平がずっと北の方にある有名国立大学を第一志望としている、という情報が梨緒子のもとに入ったことだった。
 地元の医療系短大を目指していた梨緒子にとって、その情報はまさに寝耳に水だった。
 永瀬秀平は学年イチの秀才だ。どこの大学でも余裕で合格できるに違いない。
 しかし、どうしてわざわざ遠い北海道の大学に行ってしまうのか。


 今日から春季講習が始まる。
 春休みくらい自由に遊びたいと、生徒の九割はそう思っているはずだ。もちろん梨緒子も例外ではない。しかし休日返上の講習は、進学校の『宿命』である。
 それでも。
 梨緒子は、学校に来るのは嫌いではなかった。ほかの生徒のように講習をサボるなどということも、梨緒子にはまったく考えられないことだった。
 もちろんその理由は、ただ一つ。

 憧れの彼・永瀬秀平に会えるから――。

 別に、話ができるわけではない。同じ空間にいて、同じ話を聞いて、同じ空気を吸って。
 無口な秀平の声を聞けることはほとんどなかったが、そこは同じクラスの強みだ。授業で教師に質問されたときの、迷いをまったく感じさせない秀平の返答を、梨緒子はいつもうっとりしながら聞き入っていた。
 たったそれだけのことで、いつだって幸せ一杯のはず――なのに。


 一時間目の終わった休み時間、梨緒子は背後から声をかけられた。
「なーに、朝からしけた顔してんだよ」
 安藤類(ルイ)。ムードメーカー的存在で、はしゃぐのが大好きなお調子者の男子である。
 梨緒子と類は、中学一年からクラスが一緒だ。かれこれ五年の腐れ縁ということになる。何かにつけてからかい半分に話しかけてくるのは、いつものことだった。
「で? で? どうだったんだよ、リオの家庭教師」
 類は、梨緒子の前の席のイスに、逆向きにまたがるようにして座った。そのままじいっと、梨緒子の顔を覗き込むようにしてくる。
「どうって?」
「何とぼけてんだよ。さては、永瀬秀平を超えるイイ男だったりしたか?」
 類はいつものおせっかい口調で、梨緒子に屈託のない無邪気な笑顔を向けてくる。

 類は梨緒子の気持ちを知っている唯一の男友達だ。
 女友達と違って、すぐに冷やかすような態度をとってくるのが、梨緒子はあまり好きではなかった。
 それでも、類は気心が知れている。梨緒子の好きな人を誰かにばらすということは絶対にしない、そう信じることができる希少な存在である。

 そんな類の追及に困っていると、女子生徒が二人の間に割り込んできた。
「あんた、すぐそうやって梨緒ちゃんにちょっかい出す! んもう、分かりやすすぎー」
 波多野美月。梨緒子と一番仲の良い女友達だ。
 類と美月は、梨緒子よりもさらに付き合いが長い。いわゆる『幼馴染』という関係である。
 小学校から一緒だということなので、実に人生の半分以上を、二人は一緒に過ごしていることになる。
 中学に入学して、梨緒子はまず美月と仲良くなった。そして、必然的に類と話す時間が増え、いつの間にか友達になった、そういうことなのだ。
 そうでなければ、異性相手に物怖じしてしまう梨緒子に、男友達ができるはずがない。
「まさか、そいつに何かされたんじゃないだろうな!? そうなのか? おい、リオ! ……だから男の家庭教師なんて俺は反対したんだ」
「一人で勝手に想像膨らませて盛り上がらないでよ。馬鹿ルイ」
 一人興奮する類を、美月は抑えようと試みる。しかし、制止を簡単に突き破って、更にエスカレートしていく。
「いや、充分ありえるさ。女子高生の部屋に大学生の男が入って、二人っきりになったら……あとはマッターホルンを転げ落ちるが如く……うわ、リオ! お願いだから嘘だと言ってくれえ!」
「……いったいどんな例えよ。ホント……馬鹿?」
「美月お前、馬鹿を疑問形で言うのやめろ。無性に悲しくなるじゃん」
 いつものように仲良く言い合う二人を前にして、いまひとつ梨緒子のテンションは上がってこない。
「美月ちゃん、類くん……私、どうしていいんだか、分かんない」
 感情もなく淡々とつぶやく梨緒子を見て、類と美月はいまいち事情が飲み込めずに、顔を見合わせた。


「えええ? 永瀬秀平の兄貴だって??」
 類はイスの上で派手に飛び上がり、バランスを崩して床に転げ落ちた。
 オーバーリアクションは安藤類の十八番だ。
 美月はいつものことと、至極冷静に類の制服の袖を引っ張って、起こす手助けをする。
 渦中の人、永瀬秀平の姿は教室にはなかった。授業時間以外、教室にいることはほとんどない。どこで何をしているのか、謎に包まれている。
「てことは、負けず劣らずのカッコいい人なの?」
 美月の目は期待に満ちている。美月は永瀬秀平のことが特別に好きではないはずだったが、それでも見目麗しいことは認めている。その兄とくれば、やはり興味を持たないわけにはいかないようだ。
「ううん、全然似てない。だから、苗字が永瀬って言われたときも、秀平くんと同じだな、ぐらいにしか思わなかったんだけど……」
 事実をそのまま告げると、美月はなあんだ、とがっかりしたように言った。
「で、どうして梨緒ちゃんはそんなにへこんでるの? むしろチャンスじゃない? 知られざる永瀬秀平のレア情報、ゲットできるかも!」
 美月は嬉々とはしゃぐようにして言った。
 しかし、梨緒子の表情は冴えない。大きな大きなため息を一つつき――。
「秀平くんのお兄さんに――優作っていうんだけど、その優作先生にね、秀平くんのことが好きだって……知られちゃった」
 自分から思いを伝えることができずにいるというのに、よりによって、身内に知られてしまうとは。
 この先どうなっていくのか、梨緒子の不安はつのる一方だ。
 また、ため息が出た。昨日から、いったいいくつため息をついただろうか。
 類は小さな子供をなだめるようにして、ポン、と梨緒子の頭に軽く手を置いた。
「気にすんなって! な? 第一、あの堅物男が人づてに聞いたことを信用するわけねえって! それであいつの様子がおかしくなるようなら、そん時は俺が、さりげなく永瀬秀平に根回ししてやるよ。だから、そんな心配すんなーっ!」
 類の過剰なまでの明るい慰めに、梨緒子の気持ちは少しだけ晴れた。
「……うん。ありがと、ルイくん」


 二時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
 ようやく、どこからか永瀬秀平が教室へと戻ってきた。
 美月と類も梨緒子の席から離れ、それぞれの席へと戻っていく。
 その途中で、美月は幼馴染にすばやく耳打ちした。
「あんたってば梨緒ちゃんのこと、ちょー大事なのね」
「はあ? ち、違うっての。友達として心配してんの」

 幼馴染は、ときに残酷――。