あ、忘れてた。

 梨緒子には服飾デザイナーを目指す兄がいる。
 江波薫――えなみかおる、という。
 このカオルという名前のせいで、女と間違われることもしょっちゅうだ。
 いやそれは、決して名前のせいだけではない。
 彼は男性的な要素が非常に薄い人間だった。
 肌は白くきめ細やかで、ひげも薄い。思春期には確かに変声期らしきものもあったのだが――ボーイソプラノがアルトに変わっただけで、一般の成人男性よりもずっと声質が高かった。
 身長だけが173センチと、そこそこあるのだが、いまの時代、女性でもそんなにめずらしいことではない。
 モデルだと言えば、おそらく万人が納得するだろう。
 自分でデザインした服を自分で着こなし、街を歩き、行き交う女性の反応を確かめる――そんなことが当たり前のようにできるほど、梨緒子の兄貴は『姉貴』だった。
 小中学校からの友達には梨緒子に兄がいることは知られているが、高校に入ってからは「姉がいる」と説明することが多かった。


 梨緒子は優作に薫の存在を告げていなかった。
 初めて会ったときに梨緒子の母が「上の子は専門学校に通っているんですよ」と、優作に説明をしていた。
 母親もあえて明確な物言いを避けるようになっている。息子でも娘でもなく――。

 優作は時間より少し早めに江波家を訪れていた。梨緒子の母と雑談をしながら、帰りを待っていたらしい。
 類や美月と喋りながら帰っているうちに、随分と時間を費やしてしまったようだ。約束の時間より三分ほど遅れてしまっていた。
 梨緒子は制服のまま、あわてて優作の待つリビングの応接セットへと向かい、手ぐしで何度も髪を整えながら、こんにちは、と挨拶をした。

「ただいまー」
 玄関からの声がリビングまではっきりと聞こえてくる。
 よく通るアルトの声――薫だ。
「母さん、腹減った。なんか食うもんないの?」
 薫はそう言いながら、リビングと一続きになっているキッチンへと姿を見せた。
 背中の中ほどまで伸ばした髪は、まったくくせのない完璧なストレートヘアだ。
 一本に結わえているときもあるのだが、こうして髪を下ろしていると、男性だとは誰も信じない。
 しかし、薫は『見た目が女性』というだけで、中身はまったく普通の男だ。もちろん同性愛の気もない。
 その証拠に、声色高くとも言葉遣いは雑である。
「薫ったら、行儀の悪い。お客様のいる前で」
「客? 誰?」
「か、薫ちゃん……」
 梨緒子はこの状況をどう収めたらよいか、途惑っていた。

 ――女装癖のある兄貴です、と?

 優作は、ぼさぼさの頭を照れくさそうに掻きながら、薫に向かって座ったまま会釈をした。
「客じゃないですよ。妹さんに勉強を教えることになりました永瀬です。これから定期的にこちらへお邪魔することになりますので、どうぞよろしく」
「こちらこそ。あんまりデキの良くない妹だけど、見捨てないでやってね。何を血迷ったか、北大行きたいとか言い出すんだから」
 優作が梨緒子をちらりと見た。
 梨緒子が北大を目指している理由を、この家庭教師はおそらく気づいている。

 ――やりにくい。

 これ以上、話の流れがそちらへ進むのはどうしても避けたかった。
 梨緒子は「きれいなお兄さん」に、八つ当たり気味にけしかけた。
「か、関係ないでしょ別に! もう、いいから早く部屋に行ってよ。勉強の邪魔だから」
 薫はおとなしく梨緒子の言うことをきき、そのままキッチンを物色したあと、いろいろ食料を抱え込んで自室のある二階へと去っていった。



「きれいなお姉さんだね」
 さっそく、間違えている。
 しかし、梨緒子はいちいち説明するのも面倒だったので、そのまま会話を続けた。
「全然似てないでしょ」
「そうだね」
 優作は迷うことなく即答した。
 そのひと言で、梨緒子の心拍数ははね上がった。
 自分でその鼓動がハッキリと感じられるほどに。

 ――言われなくても、分かってる。

 しかし、兄の薫よりも、女としての容姿に劣るということは、ある種の屈辱を感じさせる。
 これで自分が、優作にどう思われているか――垣間見えた気がした。

「どうしたの? 梨緒子ちゃん」
「……そんなにはっきり言わなくても」
 ははは、と優作は楽しそうに笑った。
「似てるか似てないかって聞かれたから、『似てない』と答えただけだよ。梨緒子ちゃんはイコールの使い方が間違ってるね」
 いきなり間違いだと断言され、梨緒子は言葉を失った。
 優作は穏やかな表情を保ったまま――。
「ある一人のきれいな女性に似ていない人は、すべてきれいじゃない人? 梨緒子ちゃんの論理で言ったら、きれいな人はみんな似ている、ってことかな」
 何を言ってるのか、分からなかった。
 思考能力のレベルの差なのだろう。
 しかし、梨緒子が思っていたことを優作が瞬時に読み取って、それに対して持論を披露しているということだけは分かった。

 ――普通だったら、「そういうつもりで言ったんじゃない」とか言い訳するもんじゃないの? 変なの……。


「ねえ、梨緒子ちゃん」
 数学の問題集をじっと眺めていた優作が、ゆっくりと問いかける。
 気の弱そうなたれ気味の目を瞬かせて、梨緒子の顔をじっと見つめてくる。
「なんですか?」
 その視線の先は微妙に定まらない。梨緒子の顔と梨緒子の後にある何かを交互に見比べているかのように――。
「さっきから気になってることがあるんだけど……彼は……お友達?」
 梨緒子は優作の視線を辿り、背後を振り返った。
 すると。
 庭に面したリビングの窓に張り付く、一人の少年の姿――。
 さっきまで一緒だった、安藤類だ。
 隠れることなく、堂々と中を覗き込んでいる。
 
『永瀬の兄貴って、どんなやつかと思ってさ』

「あ、忘れてた」
 そもそも今日一緒に帰ってきたのは、そのためだったはずだ。
 しかしこの状況を、優作にどう説明してよいものやら――。
 梨緒子の気苦労は、まだまだ続きそうである。