ちゃんと名前あるのに…。

 その日の個人授業も終わり、カバンに問題集や参考書をしまう優作を、梨緒子はじっと見ていた。
 とりあえず、教え方は丁寧だ。「男の家庭教師」という構えもほとんど薄れていたし、憧れの彼・永瀬秀平の兄だということを除けば、何の問題もない好青年――それが、梨緒子が下した優作への評価だった。

 ――秀平くんはいつもこうやって、優作先生のことを見ているのかな。

 同じ物を食べ、同じ空間の空気を吸って、言葉を交わし。
 うらやましすぎる――梨緒子は目の前の優作を見ながら深いため息をついた。

 ふと。
 顔を上げた優作と、目が合ってしまった。
 見つめていたのがバレてしまう――梨緒子はとっさに話題を振った。
「あ、ねえ優作先生、携帯の番号教えて。あとメルアド」
「携帯? どうしたの?」
 いきなり聞かれ、驚いたらしい。人の良さげなたれ目を見開いて、梨緒子に聞き返してくる。
 そんなに驚くことでもないと思うが――。
「分からないことがあったら、いつでも聞けるように」
 梨緒子がそう説明すると、優作は唸った。
「……それはちょっと困ったな。梨緒子ちゃん、パソコンは? ネットにつなげる環境はないの?」

 ――パソコン?? どういうこと??

「……薫ちゃんの部屋にはあるけど、自由に使えないよ。大切なデザイン画とかたくさん入ってるから、人に触らせたくないみたい」
「へえ、すごいんだねぇ。詳しいのかな?」
 話の方向が、さっそくずれている。
 いまは兄・薫の話ではなくて、優作の連絡先のことだったのだが、いつの間にやら微妙にはぐらかされているようだ。
「……もう。優作先生、もしかして薫ちゃんのこと気にいったの?」
 兄の薫は、その辺の女性よりも女性らしい、立派な成人男性なのだ。
 冗談で冷やかしてみるものの――よくよく考えると洒落にならない。
「素適な人だとは思うけど。……そうか。どうしても困ったらここにかけて。呼び出しだけど」
 そう言って優作がシステム手帳のメモ用紙を一枚はじいて走り書きしたのは、090で始まる数字の羅列――。
 確かに携帯電話の番号のようだ。
 しかし、優作はなにやら不可解なひと言を口にしていた。
「呼び出し……? 優作先生、自分の携帯は?」
「僕ね、自分の携帯持ってないんだ」

 ――カルチャーショック。まさに。

「いまどきの大学生が携帯持ってないって、そんなのアリなの? ……というか、この番号は何なの?」
「ああ、それね。秀平の番号だから。それにかければ僕に繋がるよ」
 何でもないといった風に、優作は軽く言ってのけた。
 梨緒子はその言葉がすぐに理解できず、番号の書かれた紙と優作の顔を交互に見て――しばし呆然。

 ――秀平の……番号? 秀平の、って。

「ええっ! ち、ちょっと待った!?」



 夜。
 晩御飯は梨緒子の大好きなオムライスだったのに、三分の一を残してお腹が一杯になってしまった。
 とにかく秀平の携帯電話の番号のことで頭が一杯、胸一杯……。

 分からない問題だって山ほどある。
 優作が、何かあったらかけろと言った。
 でも、これは秀平の携帯電話の番号。
 つまり。
 必ず秀平と一度は言葉を交わさなければならない――ということになるだろう。

 梨緒子の頭の中では、思考が堂々巡りをしている。


『私、あなたのお兄さんに家庭教師をしてもらっているものですが――』

 ――なんかイマイチ。

『あ、永瀬くん? ほら私、同じクラスの江波梨緒子』

 ――違う。こんなんじゃ駄目。

 いったいどんな態度で、秀平の携帯電話にかけたらいいのだろう。
 それに、本当に優作に取次いでくれるのか――秀平に、電話をかけることになった経緯をどう説明したらよいものやら……。

 ――とにかく、一度だけ試してみよう。

 梨緒子の心は、もはや不安で埋め尽くされていた。しかしその一方で、初めて永瀬秀平と言葉を交わせるかもしれない、という未知の世界へ足を踏み入れる好奇心もあった。

 優作から聞いた番号を、まずは自分の携帯の電話帳に登録する。
 そして、ありったけの勇気を振り絞って、いざ――発信ボタンを押した。
 呼び出し音は3コールで止み、やがて通話可能状態となる。

「永瀬……秀平くんですか?」
 梨緒子はおずおずと切り出した。
 すると間髪入れずに、電話の向こうの相手が応答してきた。
『兄貴なら、いないけど』

 ――ま、間違いない。本物だっ!

 正真正銘、永瀬秀平である。梨緒子が憧れてやまない孤高の王子様、その人だ。
 梨緒子の心臓はさらに心拍数を増した。自分でもその拍動がはっきりと分かるほどだ。
 梨緒子が名のる前に、秀平は先回りして状況を察知したためか――、予想していなかった反応パターンだった。
 梨緒子は思わず途惑い、言葉を失ってしまった。

 ――どうしよう。言葉が出てこない。

 梨緒子の心は、これほどまでにないほどの緊張下に置かれていた。
 『兄貴ならいない』と言ってるということは、とりあえず優作が梨緒子のことを、この弟の秀平に話しているということで――。
 動揺している梨緒子の心が電話の向こうの秀平に伝わったのか――彼はかすかにため息をつき、落ち着いた声で喋り始めた。
『ホントにかけてきたんだ……兄貴が言ってたこと、冗談だと思ってたのに』

 ――冗談?

 そう。よくよく考えたらおかしな話だ。
 いくら自分が携帯を持っていないとしても、連絡を取るために、弟の携帯番号を教えるなんて。
 家の電話番号を教えてくれたらいいだけのはずなのに――。

 梨緒子はようやく、優作が自分のために、わざわざ秀平と話すきっかけを作ってくれたのだということに、気がついた。

 ――やだ、もう。

「あの……ごめんなさい」
 しかし、秀平には兄・優作の思惑は読み取れていないようだ。
『なんで君が謝るの? 兄貴に言われたからかけたんだろう? …………それで?』
「それで?」
『俺が聞いてるんだけど。何か分からないことでもあるの?』
「は、はい……」
『言ってみて。俺が分かることなら、兄貴の代わりに教えるよ』

 ――ええっ? 嘘!

 秀平の声は優しかった。
 普段授業中に発せられる無機質な声とは違う。いや、もちろんその声も大好きなのだが。

 いま彼は、梨緒子に喋りかけてる。
 梨緒子と話すために、声を発している。
 それは友達にでも恋人に対してでもない、事務的なやり取りのようだったが、それでも梨緒子にとっては初めて体験する至極のひとときだ。
 自分の携帯から、あの『永瀬秀平』の声が聞こえている。


「ああ、ちょっと待って。帰ってきた――兄貴……電話。家庭教師のトコの女の子だって」

 ――うわー……嘘。

 なんてタイミングの悪い、と梨緒子は恨めしい気持ちで一杯だった。
 それより何より。

 家庭教師のトコの女の子――。

 秀平が、梨緒子の声を聞いても『同級生』だと言うことに気づかなかった、なんて。

 ――……ちゃんと名前、あるのに。

 初めて秀平と話せた天にも上る気持ちから一転、その存在にすら気づかれていないということを思い知らされ、どん底に叩き落された。