2度はないからね?

 試合開始まであと五分と迫った。練習タイムも終了である。
 各クラスごとに、選手と応援要員がそれぞれの陣地へ集合する。
 いよいよだ。

 秀平はラケットで器用に床上のシャトルをすくい上げ、そのまま梨緒子に近づいてきた。そして空いている左手をゆっくりと差し出してくる。
「ラケット寄越して。返してくるから」
 自然だ。彼の発するたった一言が、梨緒子の気持ちを幸せにさせてくれる。
 自分のために、彼が何かをしてくれる――それだけで梨緒子は、二人が特別な関係になれたような錯覚さえ覚えた。
 秀平のひたいには、うっすらと汗が光っている。
「あ、秀平くん、ちょっと待って」
 応援用のうちわと一緒にしてコート脇に置いてあったフェイスタオルを、梨緒子は急いで取りに行き、ラケットの面に載せるようにして秀平に差し出した。
「これ、よかったら使って」
 ラケットを返すついでに、さりげなく渡そうとした。
 しかし。
「……江波のだろ、それ」
 秀平は差し出されたタオルをじっと、不思議そうに見つめている。
 いままでの秀平とのやり取りで、彼の反応は充分予想できた。しかし、素直に受け取ることはしないと思っていたが、その態度は予想以上に頑なだ。
「秀平くん、もう汗かいてるから」
「江波が俺を走り回らせてくれたから――運動不足だな、俺。タオルは、いい。遠慮しておく。俺が使ったら、江波が使えなくなるだろ」
 どうやら秀平は、真面目に言っているらしい。
 そうやって冷静に喋りながらも、反応を探るようにしてくる秀平が、梨緒子はおかしくてしょうがなかった。
「いいよー、別にそんなの気にしなくても」

 そんな二人のやり取りの横で――。
 類が聞き耳をたてて、こちらの様子をうかがっている。ウォーミングアップのはずの練習ではしゃぎすぎたのか、滝のような汗がひたいから頬へと滴っている。
「……安藤の方が、もっとタオルが必要みたいだけど?」
 秀平が余計なひとことを言った。
 もちろん、類がそれを聞き逃すはずはない。
「そうだな、じゃあ遠慮なく。リオ、ちょっと借りるぞ」
「え? あ、うん……」
 類は梨緒子のタオルを勢いよく広げると、汗だく状態の顔と首を隅々まで拭った。
 そして、使ったそれを、梨緒子の顔面にぎゅうっと押し付ける。
「さあ、アイドルの汗が染み込んだタオルだ! 喜べ、リオ!」
「わーっ、もうやだルイくん、やめてよー」
 類はふざけてちょっかいを出してくる。梨緒子をからかうのが楽しくてしょうがないようだ。
「何言ってるんだよ、コンサート会場だったらこれ、取り合いだぜ? ルイさまの汗の染み込んだタオルよ! 私これ一生洗わない! ってな」
 梨緒子は美月とは違い、類を上手くあしらえない。結局のところ、簡単に丸め込まれてしまうのだ。
「アイドルだって、汗くさいのは汗くさいでしょ? もう、気ぃ失っちゃうよー」
「この汗くささが、男のフェロモンってやつだ? 目眩がするほどいい香りだろうがー」

 ふと、気づくと。
 秀平が白けきった表情で、梨緒子と類のやりとりを眺めていた。
「ラケット、返してくる」
 くるりと向けられた秀平の背中が、いつも以上にクールだ。

 どうも秀平は類のことが苦手のようだ。
 相容れぬ人種なのか、あるいは――。


「ちょっとそこのフェロモン馬鹿。梨緒ちゃんから離れて、こっち来なさい」
 ルイはジャージの背中を美月に引っ張られ、引きずられるようにして体育館の壁際に連行された。
「ルイ、あんたねえ……」
「なんか俺、めっちゃ火ぃついてんの」
 類は美月に自虐的な笑みを見せた。
「リオが永瀬のことが好きなのは知ってるよ。だから? それがどうした? 大人しく身を引けってか?」
「分かってるんじゃないの、ちゃんと。だったら――」
 美月の言葉を途中で遮るようにして、類は割り込んだ。
「あのさ、美月。俺の答えは『ノー』だから。お前もさ、親友思いなのは結構だけど、幼馴染の俺の気持ちも少しは察してくれ。な?」
「どこまでも鈍感なルイさんに気持ちを察しろだなんて……言われたくないんですけどー」
「何言ってんだ。こんな硝子のハートを持つ繊細な少年つかまえて、鈍感とか言うなよ。…………まあ確かに、お前は両側から挟まれて辛い思い、してるんだよな。だったら、リオを説得して、永瀬のことを諦めさせろって。そうすれば楽になるぞー?」
「……楽になるわけないでしょ、馬鹿ルイ」

 いつものように、類と美月がじゃれあうような言い合いを始めている。梨緒子はそれを、少し離れたところでぼうっと眺めていた。
 辺りの喧騒にかき消され、はっきりとその内容は聞こえてこない。

 ――やっぱり幼馴染だと、気心知れてて楽しそうだな。扱いも上手いし……。

 類の汗が染み込んだタオルを、ため息をつきながら折り畳んでいると、梨緒子の耳に届くように、陰口ともとれる囁きが聞こえてきた。
 それも、一人や二人ではない。


【何、あのタオル。すっかり彼女気取りじゃん】
【3Aの子から聞いたんだけどさ、永瀬くんがあの女のこと名指ししたんだって】
【どういうこと?】
【ええ? ショックじゃない? 永瀬秀平ともあろう男が、あんなツマんない女のこと? 冗談でしょ】
【本人は満更でもないんでしょ。あー、やだやだ、身の程知らず】


【ほら、あの女。ルイ先輩のこと、もてあそんでるんだって】
【うそ、サイテー】
【ルイ先輩、可哀想】
【何なのムカつく、あのちょー勘違い女】


 耳を塞いでしまいたい。
 しかし、そんな不自然なマネしたら、もっとひどい目に遭わされそうな気がしたため、梨緒子はひたすら聞こえていないフリをした。
 どうしてここまで言われなくてはいけないのだろうか。切なすぎる。

 類をもてあそんでいる――――だなんて。
 もちろん、梨緒子にそんなつもりはまったくない。
 類とは仲のいい友達だ。類は誰にでもあのような調子なのだから――。

【……安藤は本当に江波のことが好きなんだな】

 先ほど秀平に言われたばかりの言葉が、梨緒子の脳裏をよぎっていく。
 確かにそうなのかもしれない。それは梨緒子も理解する。
 しかし。
 類からはっきりと告白されたことはないのだ。
 何かしらちょっかいを出してきて、気に入られているのは分かるが――しかし、それ以上のことは何もない。
 いまの梨緒子には、『類は仲のいい男友達』としか言えないのである。
 それに類は、梨緒子が誰のことを想っているのか、唯一知っている男子なのだ。

 ――難しい。

 だから類は、はっきり言わないのかもしれない。言えないのかもしれない。そして、秀平にもやんわりと絡むのかもしれない。
 それを秀平は――類に嫌がらせをされていると、思ってしまうのだ、きっと。

 抜けられぬ悪循環の中で、梨緒子も類も秀平も。
 身動きがとれず、もがくことすらできずにいる。

 確かにタオルはやりすぎだったかも――とっさに秀平にとってしまった行動に対して、梨緒子は自己嫌悪に陥ってしまった。
 そしてあらためて、秀平の人気の凄さを身をもって思い知らされた。
 梨緒子にもよく分からないのだ。どうやって秀平と距離を縮めることができたかなんて――たまたま、頼んだ家庭教師が秀平の実の兄だった。たったそれだけのことなのだ。
 それがきっかけで、誰もが手を触れられずにいた聖域に、運良く入り込んでしまっていた――しかし、そんな理由が、秀平の数多のファンたちに、到底通じるはずもない。
 自分が秀平に対してどういう態度をとるのがベストなのか、梨緒子は迷い始めていた。
 さらに踏み込むべきか、距離を置くべきか――。


 類にお灸をすえた美月が、ようやく梨緒子の元へ戻ってきた。
 美月にも耳障りな陰口が聞こえていたらしい。彼女が周囲に軽く睨みをきかせると、梨緒子一人のときとは見違えるようにして、悪意のこもった囁きが急速に収まっていく。
 しかし、これでは先が思いやられる――梨緒子は深々とため息をついた。
「やっぱり、組み合わせをもう一回変えてもらう。これ以上私と組んでたら、秀平くんにも迷惑がかかっちゃう、きっと」
「いまさら何、怖気づいてるのよ、梨緒ちゃん!」
 ひたむきなまでの美月の眼差しに、梨緒子は思わず目を瞠った。
 優しくなだめられて、同情してくれるものだとばかり思っていたのだが――親友はいつになく力強く凛とした声で、梨緒子を叱咤した。
「これまでどれだけ勇気を出したと思ってるの? 永瀬くんはいま、手を差し伸べようかどうか迷ってる。梨緒ちゃんはルイじゃなく、永瀬くんのことだけを見てればいいの! これを逃したら一生後悔するよ?」
「美月ちゃん……」
「好きな人にだったら、少しくらい迷惑かけられたってなんてことないんだから! いい? こんなチャンス、2度はないからね?」
 親友の言葉に心が揺らぎ、梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
 ラケットを返し終えた秀平が、再びこちらへ近づいてくるのを、梨緒子はしっかりとその両目で確認する。
 恋する乙女の心臓は、もはや壊れる寸前――。