恥ずかしい人……。

 バドミントンの試合が始まった。
 一番手の類少年とペアを組む佐藤という女子生徒が、コートの中に入っていく。
 ペアを組む選手はコート脇に固まって座ってたほうがいい――そう、美月がクラスメートに提案してくれたお陰で、梨緒子と秀平は触れるか触れないかの微妙な距離で、隣り合うようにして座らされた。
 親友の強引ともいえる後押しが、梨緒子のなけなしの勇気を奮い立たせる。

 ――何か話しかけなくちゃ。ええと……。

 しかし。意識をすればするほど、緊張が高まっていく。考えを巡らしながら、意味もなくジャージの袖を上げたり下げたりまくってみたり、どうにも落ち着かない。
「どうしたの、江波」
 挙動不審の梨緒子に気づき、秀平は一瞥をくれるようにして、ちらりと視線を向けてきた。
「えっと、うん、何だか、き……緊張しちゃって」
 特に会話を続けるわけでもなく、秀平は再び、目の前で繰り広げられるバドミントンの試合に見入っている。

 ――せっかくのチャンスなのに、上手く喋れないよ……。

 緊張と焦りが増すばかりだ。こんな状態でバドミントンのダブルスなどはたしてできるのか、梨緒子はいっそう不安に駆られてしまう。
 すると。
 シャトルの動きから目を離すことなく、秀平が呟くように言った。
「そんな気負わなくてもいいと思うけど。俺たち、出番ないかもしれないし」
 向こうから話しかけてくれた。
 梨緒子はチャンスとばかりに、少しずつ自分の気持ちを表に出していくことにした。
「それは……ちょっと残念、かも」
 しかし。
「残念? そんなにバドミントンがしたかったんだ、江波は」
 やはり。梨緒子は思わず脱力してしまう。
「あのね、秀平くん……そうじゃなくて」
 梨緒子は秀平の表情を確かめようと、顔をそちらに向けた。
 視線に気づいたのか、秀平も梨緒子のほうを振り向いた。
 黙ったまま数秒。その時間が永遠に続く気がした。
 いま、ここで。はっきり言ってもいいのだろうか。

 ――『秀平くんと一緒に』ってことが、重要だってことを。

 秀平が隣に座って、じっと見ている。

 いま。
 いま、なのかもしれない。

 いましかない、のかもしれない。

 梨緒子がなけなしの勇気を振り絞り、思わず口を開きかけた、その時――。
 秀平が、予想外の反応をした。
「江波……ちょっとそのまま動かないでいて」
 肩が触れてくる。そして秀平の左手が、梨緒子の顔のすぐ側まで近づいてくる。
「な、な、なに? あっ……」
 梨緒子は体育館の壁に張り付くようにして、身じろぎもせず、呼吸をするのも忘れたまま――。
「シャトルの羽根の切れ端が、江波の髪にからまってた。ほら」
 顔から火が出そうだった。軽く肩が触れただけでも、心臓の鼓動が追いつかないというのに。
「あ……ありが、とう」
「さっき頭で羽根、受けてたからだよな。さすがだな、梨緒子先生」
 秀平がさり気なく軽口を叩いた。

 ――りっ、……梨緒子先生?

 馬鹿にされているのだ、きっと。
 でも。それよりも。
 彼がふざけて自分の下の名前を呼んだことに、梨緒子は動揺しまくっていた。
 『江波』と、いつも苗字で呼ぶ彼が。
 初めて『梨緒子』と、口にした。たとえそれが、軽いおふざけであったとしても。
 逆に、彼が自分に対してくだけた喋り方をしたことが、梨緒子には嬉しいやら恥ずかしいやら――もうすでに頭の中はパニック状態だ。

 ――ええっと、こういうときは、どう切り返したらいいの?

 傍らに座り動揺しまくる少女の気持ちなど、まるでお構いなしに、秀平は物憂げに自分の指先を擦り合わせている。
「なんか……女の子の髪の毛って、手触りが違う」
 初めてその事実に気づいたかのように、孤高の王子様は言う。
 まるで無垢な子供が学習していく過程のようだ。

 ――完全、ノックダウン。もう、ダメだ……私。

 気のきいた切り返しの言葉など、完全に脳みそから吹っ飛んでしまった。
 勇気を振り絞って体当たりする前に、梨緒子自身が壊れてしまいそうだ――。


 ふと気づくと、コートを取り囲む空気が淀んでいる。二人に向けられた嫉妬の目。奇異の眼差し。おびただしい数の視線が突き刺さる。
 隣に座って話をするばかりか、成り行きとはいえ、秀平が梨緒子の髪を撫でるようにして触れたこと。
 それが多くの女子生徒のヒガみやネタみをかってしまったらしい。
 心無い言葉が、梨緒子にはっきり聞こえるように囁かれる。当然それは、隣に座る秀平にも聞こえているはずだ。
「俺のせいなのかな、江波まで責められてるの。……随分と目の敵にされてるんだな、俺」
「ええ? ……正反対だと思うけど」
 秀平の言葉は、ふざけているとしか思えなかった。
 そうでなければ、きっと秀平が気をつかって、さり気なくなだめようとしているのだ、と梨緒子は思った。
 しかし、秀平の表情は憂いに満ちている。孤高の王子様は梨緒子の目の前で、自虐的なため息をひとつ、ついてみせた。
「そんな、江波に慰めてもらわなくても、平気だから。陰口には慣れてる」
「かっ、……陰口?」
 梨緒子の声が、思わず裏返った。
 孤高の王子様とあがめられてる人間には、まるで相応しくないセリフだ。
「女子が俺のこと遠くからゴソゴソ言ってるのは、何となく気づいてる」
 返す言葉も見つからない。
 そのゴソゴソは確実に陰口なんかではなく、黄色い囁きに違いない。
「江波だって、この間までそうだっただろ?」
「ええ? ……それって、真面目に言ってる?」
「みんな話しかけづらそうにして、腫れ物にでも触れるかのように腰が引けてるし、俺のこと怖いのか……どもっているヤツも一杯いる」
 目の前の光景が、梨緒子には信じられなかった。
 どこをどう曲解したら、こんなふうに思い込めるのだろうか。
「なんか、疲れるんだ――ひとりでいるほうがずっと落ち着く」
 それがいっそう『孤高』と呼ばれる原因となって、どことなく神秘的な魅力につながり、憧れる女子は遠巻きに秀平を眺め、そして騒ぎ立てる。
「でも、江波は普通だから、なんか――楽だけど」
 ふと。
 その言葉を、以前にも言われたような気がした。

【――江波って、なんか普通なのな】

 梨緒子がそれを言われたときは、『普通』という言葉の意図するところを掴みかねていた。けれど、いま秀平が言ったことと合わせ考えてみると――。
 秀平の『普通』は、彼にとっての『特別』だということに気づかされた。
「それにさ……兄貴から聞いたよ。何となくだけど」
「優作先生に? …………な……何を?」
「うちの学校の、ジンクスってやつを」

 ――何だ、そのことか。

 一気に力が抜けてしまった。まさか自分の気持ちを、すでに秀平に言ってしまったのではないかと、焦ってしまった。
 しかし。
 胸を撫で下ろしたのもつかの間。ふと、重要なことに気づいてしまう。

 ――ん? 待って……うちの学校のジンクス? って、まさか!

「しゅっ、秀平くん、……あのはちまきの持つ意味、分かったの?」
 すっかり、油断していた。
 はちまきのジンクスなど秀平には通じない、と諦めてしまっていたのだ。
 確かに昨日、梨緒子は家庭教師の優作に、学校のジンクスを話してきかせた。

 ――女の子は好きな男の子に、手作りのはちまきを……って、優作先生、言っちゃった?

 優作は、梨緒子の気持ちをそのまま話したわけではないのだろう。
 けれど、そういうジンクスがあるということを弟に話して聞かせたのなら、完全に本人にバレている。
 そこでようやく、自分に対する秀平の態度ががらりと変わった理由が、梨緒子には分かったのだった。
「驚いた――かなり」
「そう……だよね。驚くよね。秀平くんだって、困っちゃうよね」
「いや、江波がいま突然、大声出したから驚いたんだよ。そんなに大きい声、出さなくても」
 どうもつかみどころのない受け答えをする。
 しかし、決してふざけているわけではないらしい。
 あくまで表情は涼しく、梨緒子が見とれてしまうほどの端整な面持ちだ。

 聞きたい。聞きたくない。怖い。もしかして。いや、そんなはずない。

 秀平は、淡々と言葉を紡ぎ出す。
「兄貴からそれ聞いてさ、なんか俺――」
 秀平の続く言葉を遮るようにして、二人の間に遠くから大声で邪魔が入った。
「リオ! リオ! いまのちゃんと見てたかよ?」

 そこには、熱戦繰り広げられているコートの中から叫ぶ、一人の男子生徒の勇姿が――。
「スゴくね? 俺、かなりカッコよかっただろ?」
 ラケットを大袈裟に振り回し、類は鼻血を出しながら活躍をアピールしている。
「まったくもう――恥ずかしい人……」
 類少年のファインプレーのお陰で、梨緒子は肝心な秀平の気持ちを聞き逃した。
 そして、空を仰ぐような秀平の微かなため息が、梨緒子の耳にもはっきりと聞こえた。