傍にいたいから。

 球技大会が終わってから、早二日が経とうとしていた。
 梨緒子の高校では、あさってから夏季休業に入る。
 長くて楽しい夏休み――だと、浮かれてばかりはいられない。夏期講習がしっかりと入っている。
 自分の進路に合わせて受ける科目を選択できるため、同級生がすべてそろうということは、しばらくなくなる。
 秀平とは、国語と英語が一緒で、あとの教科は別だ。同じ理系クラスでありながら、理科の選択科目はまるで逆なのである。


「永瀬から、なんか返事があった?」
 放課後、さっそく類少年が梨緒子の席へと近づいてきた。
「何のこと?」
「いまさらとぼけるなよ。永瀬に渡したんだろ、はちまき」
 はちまきのことは美月にしか言っていなかった。しかし、類は梨緒子の気持ちを知っているのだから、ヘタに誤魔化しはきかない。
 軽く教室を見回すと、すでに秀平の姿はなかった。それを確認して、梨緒子はようやく重い口を開く。
「だって秀平くん、ジンクスとかそういうの、興味ないみたいだから」
「そういう問題じゃないだろ。じゃあ、返事はないってこと?」
「いい加減にしなさい、ルイ」
 見るに見かねたのか、美月が梨緒子たちのところへやってきた。
「だって、もう夏休みになっちゃうだろ? 校内中、ジンクス返しで賑わってるっていうのに」
 幼馴染の少年の言葉に、美月は困ったように深々とため息をついた。
「これは永瀬くんと梨緒ちゃんの問題でしょ? 部外者が口出すことじゃないよ」
 ふうん、と類が言った。
 どうやら納得してくれたらしい――と、梨緒子が安堵したのもつかの間。
「じゃあ本人に確かめるから、いいや」
 そうひとこと言い残して、類は素早く教室を出ていってしまった。
 梨緒子と美月は、唖然とその背中を見送っていたのだが――。
「……え? ち、ちょっとルイくん! 待ってよ!」

 厄介な状況に追い込まれてしまった。
 確かめる――何を?

 わざわざ返事を催促するなんて、梨緒子にはできない。
 だからといって、類が秀平の意思を確かめるというのは、筋違いな話だ。

 ――先回りしないと……ルイくんより先に、秀平くんをつかまえないと。

「美月ちゃん、私、ちょっと行ってくる!」
 事は急を要する。
 梨緒子はこの時間に秀平がいそうな場所を、必死に考えた。


 手遅れだった。
 図書館の書架と書架の間に、二人はいた。
 秀平は、梨緒子のほうへ背を向けるようにして立っている。向かい合うようにしているルイには、梨緒子の姿が見えているはずだった。
 しかし秀平のほうは、梨緒子が背後にいることにまったく気づいていない。
 ルイはそれを知った上で、あえて試すように言った。
「どうしてリオのはちまき、返さないんだよ」
「……安藤には別に関係のないことだろ」
「大ありだよ」
 梨緒子は足音を発てないようにして、書架の側壁にその身を半分隠した。
 いっそのこと逃げてしまおうか――そう思ったが、秀平の背中の向こうに見える類の顔が、最後までここにいろ、と梨緒子に告げている。
 類は続けた。
「付き合う気がないなら、そうはっきり言えよ」
 仲裁に入ろう――そう思っていても身体が動かない。秀平の反応が気になってしまい、すくんでしまっている。
 秀平は明らかに迷惑そうに、深々とため息をついた。
「俺たち受験生だろ。そんな、付き合うとかどうとか言ってる暇ないんじゃないの?」
「お前がどう思おうと勝手だよ。じゃあ、俺がリオと付き合っても、文句は言わねーよな?」
「……」
 秀平の返事はなかった。肯定も否定もしない。
 しかし、困惑しているようだ。
 そんな秀平に、類はさらにたたみかけた。
「北大目指す受験生は勉強に忙しくて、恋愛どころじゃないんだよな? 確かにそう言ったよな?」
「……」
 やはり、秀平からの返事はない。じっと何かに耐えているような――。
 類は躊躇することなく、ダメ押しのひとことを秀平にぶつけた。
「あーあ、リオがせっかく、お前が目指してるからってだけで、一緒に北大目指す! とか言ってるのに」
「ルイくん、もう止めて。お願いだから」
 とうとう、梨緒子は声を出してしまった。

 秀平が驚いたように、背後にいた梨緒子のほうへと勢いよく振り返った。
 その両目は大きく見開かれ――梨緒子と目が合った瞬間、秀平は持っていたカバンとバインダーを床に落とした。
「……嘘だ。そんな理由で大学決める人間なんかいないだろ」
 ようやく発せられた言葉。唇が微かに震えている。
「いるんだよ。お前と一緒にいたいってだけで、家庭教師つけてまで頑張っちゃうやつが、すぐそこに」
 類の言葉の信憑性は、秀平が一番よく知っている。梨緒子の家庭教師を務めているのは、自分の実兄なのだから。

「そんなこと言われても俺、困るんだけど」

 困るんだけど。
 困るんだけど。
 困るんだけど――。

 秀平の言葉が、梨緒子の頭の中を何度も何度もリピートした。
「確かに聞いたからな」
 秀平は無言のまま、落としたバインダーとカバンを床から拾い上げると、梨緒子のすぐ側をすり抜けて図書館を出ていってしまった。
 もう梨緒子には、彼を追いかける気力はすでになかった。


「好きだって、言わなきゃよかった」
 書架の合間に取り残されたまま。
「誰にも言わないで必死に勉強して、北大入って、偶然を装って秀平くんに近づいたほうが、まだよかった」
「なあ、リオ。俺のせい、か。やっぱり」
 現状だけを見ると、そうなのかもしれない。
 しかし。
「ううん……ルイくんのせいじゃない。現実はちゃんと見つめないと。そりゃ困るよね、秀平くんの言う通りだもん。そんなふうに進路を考える人間なんて、普通はいないよね」
「別に理由なんかどーだっていいだろ? やりたいことは大学に入ってから見つけりゃいいんだし」
 類は決して梨緒子のやることを否定しない。
 ちょっかいをかけてからかったりすることはあっても、いつでも梨緒子の意思を最優先してくれている。
「あんなことをリオに平気で言う永瀬には、俺ホント腹立つ」

【嘘だ。】
【そんな理由で大学決める人間なんか――】

【そんなこと言われても俺、困るんだけど】

 秀平に言われた言葉の数々を思い出すうちに、梨緒子の両目から涙があふれた。
 憧れの彼が目指しているから――そう、それだけ。

 それ以下でも、それ以上でもない。

「ああいうやつなんだよ、永瀬は。梨緒が思ってるような王子様でもなんでもない。どうして分かんないんだよ、いい加減目を覚ませよ」
 梨緒子の視界が突然暗くなった。
 とても息苦しい。驚きのあまり、声も出せない。
 抱き締められている――そう気づいたときには、身動きが取れないほどに類の腕の力が強まっていた。
 類の腕が、梨緒子の耳のすぐそばに回されている。顔が見えないので、ふざけているのかどうか分からなかった。
 逃れようともがいても、ルイは放そうとしない。
 これは冗談ではないのだ――梨緒子は悟った。

 徐々に身体の力が抜け、やがてルイの胸にそのまま身を預けた。
 温かい。とても。
「俺と一緒にいるほうが、リオは絶対楽しい。違うか?」
 楽しい? それは、好き?
「俺、本気だから。リオのこと大好きだから、リオが永瀬のことを好きなの知ってたから、いままで我慢してたけど」
 それは、何となく梨緒子にも分かっていた。やっぱりそうなのかと、特に驚くこともない。自然な流れなのかもしれないとさえ、思えてしまう。

 秀平にハッキリと困ると言われてしまった、いま。
 もはや、類を拒む理由はどこにもない。

 愛するよりも愛されるほうがずっと幸せ。
 きっと、そう。

「嫌なことなんか全部忘れさせてやるよ」
「……うん」
 自分の声がどこか遠くから聞こえてくる。もう一人の自分が、勝手に返事をしているような、そんな感覚に陥っていく。
 誰かにすがりたい気持ちで、心は埋め尽くされてしまっていた。
 梨緒子はルイに抱き締められたまま、ゆっくりと顔を上げた。
 いつになく真剣な眼差しだ。
「ずっとずっと、リオの傍にいたいから」
「ルイ……くん」
 ちょうどその時――。
 梨緒子は類の肩越しに、茫然と立ち尽くす美月の姿を見た。