忘れられるはず……ないから。

 梨緒子の視線の先を辿るようにして、類は首だけを振り返らせた。
「……いつから見てたんだ、美月?」
 美月は両目を見開いたまま、書架の合間で抱き合ったままの、親友と幼馴染を凝視している。
 類の問いに、美月は冷静な声色で淡々と答える。
「覗き見するつもりはなかったんだけど――永瀬くんがいた辺りから」
 と、いうことは。
 おそらく、梨緒子が類に抱き締められる一部始終を見られていたということになり――。
 梨緒子は気恥ずかしくなり、ルイの腕を振り解くようにして急いで身体を離した。

「それより、いったいどういうつもりなの?」
 恐ろしく、落ち着き払った声だ。
 いつも幼馴染の類少年を牽制し、その無鉄砲な行動を諌めている美月が、いつにもまして凄みを利かせている。
 あまりの迫力に、類を弁護しようと口を開きかけた、その時――。
「梨緒ちゃん、答えて!」
 美月が叫んだ。
 頭の中が一瞬真っ白になり、梨緒子は訳が分からず混乱していた。
「え? あ、あの……私?」
 どういうつもりか――とは、類少年に向けられているものだとばかり思っていたため、親友のその只ならぬ剣幕に、梨緒子は一気に焦った。
 返答できずにいると、美月は梨緒子を見据えたまま、さらに語調を荒げた。
「ホント自己中なんだから! 永瀬くんに困ると言われただけで、どうしてそんなに簡単にルイに心変わりできるわけ?」
 話の流れが、まったく読めない。
 自分がなぜ親友に責められているのか、梨緒子にはまったく分からなかった。
「おい、美月。言われた『だけ』なんて、そういう言い方良くないぞ」
 その類の助け舟が、美月の表情をさらに硬化させた。
「信じられない……もう、勝手にすれば? 二人で仲良くこれから一緒に過ごせばいいじゃない」
「おい、何怒ってるんだよ……?」
 滅多に見せない怒りの表情、そして。

 ――美月ちゃん、泣いてる?

 ここでようやく、梨緒子はいまの状況が徐々に理解できてきた。
「どうして、どうして梨緒ちゃんが、ルイでいいって言うのよ……」
「いったい、どうなってんだよ……なんで美月がリオを責めるんだよ。リオが永瀬じゃなくて俺を選んだって、それはリオの自由じゃん」
「ルイくん、駄目」
 それ以上言ってしまったら、すべてが壊れてしまう――梨緒子は瞬間的に悟った。
「俺がリオのこと好きなのは、お前も知ってただろ?」
「当たり前でしょ。でもルイは私の気持ちなんか――」
 幼馴染同士のやり取りを、梨緒子は固唾を飲んで見守っていた。見守るほかはなかった。
「気づいてたに決まってるだろ。どんだけ長い付き合いだと思ってるんだ。お前が考えてることは何だって分かる」
 美月は驚きのあまり、涙に濡れるその顔を震わせている。
「気づいてた……? 気づいてて、ずっと知らないふりしてたんだ?」
「お前がリオと永瀬を一生懸命くっつけようとして、俺に諦めさせようとしてただろ? それって、リオのためじゃないよな? リオのこと自己中って言うけど、それは美月――お前もだろ」
 なんてことを。
 もう、言葉が出ない。
「リオのこと本当に応援してるんなら、相手が俺でも同じようにできるだろ、美月がリオの親友だって言うんならな」
 美月の顔は涙でぐしゃぐしゃのまま、固く強ばっている。
「――そう。充分、分かった。これ以上、話すことない」
「おい、待てよ!」
 類の制止も聞かずに、美月は二人に背を向けて去っていく。

 ――秀平くんとのことを応援してくれていたのは、私のためじゃなかった?

 美月の背中がどんどん遠くなる。
 つい先程、秀平の背中もこうやって見送ったばかりだというのに。

「リオ、心配すんな。あいつは時々ああやって癇癪起こすんだ」
「行ってあげて? 私ならもう、大丈夫だから」
 いま美月が必要としているのは、自分じゃない――混乱する梨緒子の頭でも、それだけは分かった。
 類は脱力したように大きくため息をつき、肩をすくめた。
「まったく、世話の焼けるヤツだ。あ、リオ、今晩電話するから!」
「え? あ、うん。何かあるの?」
 珍しい。用があればメールですませればいいのに、わざわざ電話?
 そんな梨緒子の心の内が表情に出てしまったようだ。類は照れたように素適な笑顔を見せながら、梨緒子の頭を軽く叩いた。
「何かって、今日から俺たち、カレカノじゃん? だから、オヤスミの挨拶するに決まってんだろー。じゃ、あとでまたな」

 ――ああ、ホントに……。

 本当に、ルイと付き合うことになってしまった――梨緒子はもはや何も考えられず、笑顔で手を振る類につられるようにして、わずかに手を振り返した。



 もう、ぐちゃぐちゃだ。
 どこで歯車が狂ってしまったのだろう。

 そうしているうちに、気づいたら――ここまで来てしまった。
 いつか来たことのある校舎の案内図の前に立ち、目的の場所をチェックする。
 夕陽の差し込む近代的な校舎内に、人影はまばらだ。
 高校の制服姿の梨緒子は目立つのか、ときおりすれ違う実験着姿の学生が、珍しそうにしながら一瞥をくれていく。

 目的の場所付近で、恐る恐る辺りを探っていると、目的の人物が廊下の先の角からのんびりと歩いてくるのが見えた。
 いつものように、無造作に立たせた髪に無精ヒゲ、Tシャツに短パンにサンダル履きという軽装で、片手に持ったうちわで扇ぎながら近づいてくる。
 梨緒子が声を出すより先に、向こうから話しかけてきた。
「あれ、梨緒子ちゃん? どうしたの、こんなところまで」
「優作先生……よかった、見つけられなかったらどうしようかと思った」
 梨緒子は優作のTシャツをつかまえて、ようやく安堵した。
 そのとき。
 開け放してあったすぐそばの部屋から、いきなり人が出てきた。
「ちょっと何? 優ちゃん、どういうこと?」
「うわー、制服! 本物の女子高生じゃん!」
 優作の背後から、興味深げに梨緒子の顔を覗き込む二人の男子学生――。
 梨緒子は思わず怯え、わずかに身を引いた。
「ああ、梨緒子ちゃんは僕が家庭教師しているところの子なんだよ」
「りおこっていうの? 可愛い名前だーっ! 俺さ俺さ、草津っての」
「俺は白浜。俺たち温泉コンビだから。優作のウワサの彼女って、この子だったんだ」

 ――ウワサの彼女?

「だから、違うって。梨緒子ちゃんは僕の妹みたいなものだから」
「またまたー、隠すなって」
「本当だよ。僕の弟の、彼女」
 優作は梨緒子の頭を撫でるようにして軽く叩いた。
 何という説明の仕方だろうか。
 もちろん優作の『彼女』でもなければ、『弟の彼女』でもない。
 しかし、いまの梨緒子の精神状態では、それを否定する余力はなかった。
 男子学生たちは、優作の説明に簡単に納得したようだ。
「あ、そうなんだー。あー、安心した。そっちなら理解できる」
「何処ぞのアイドル事務所のタレントみたいな、お前にまったく似てない弟くんだろ?」
 温泉コンビが茶化すと、優作は楽しそうに笑った。
「いやいや、僕たち兄弟はそっくりで有名なんだよ? ああ、僕ちょっと出てくるから、先にやってて」
 こういう普段の生活をしている優作を、梨緒子は初めて見た。まとう雰囲気はいつもと変わらないが、とても新鮮だ。
 友人たちに何を言われても上手く切り返して、雰囲気を和ませられる。そんな優作が、梨緒子の目にはとても大人に映った。


 優作に促されるようにして、梨緒子は階段横に併設されている休憩スペースへとやってきた。
 学校の教室の半分くらいの広さで、長椅子やテーブル、観葉植物のほかに、ジュースの自販機が置かれている。
 優作は短パンのポケットから小銭を取り出すと自販機に向かい、梨緒子に冷たいレモンティーを、自分用には野菜ジュースを購入した。
「それはそうと――よくここが分かったね」
「前に見学しにきたときに、案内図のところで説明してもらったから」
 梨緒子は長椅子の中ほどに腰を下ろした。そして、優作に差し出された缶を素直に受け取ると、それを軽く振った。
「僕はまだ三年だから、研究棟にいないことのほうが多いんだよ。すんなり会えたのなら、梨緒子ちゃんはラッキーさんだね」
 優作は野菜ジュースのフタをあけ半分ほど飲んでから、ようやく手にしていたうちわを梨緒子の隣に置き、そのさらに奥のほうに座った。
 落ち着く。
 しょっちゅう二人きりで勉強をしているから、慣れている――ということなのかもしれない。
 梨緒子は傍らの家庭教師に、ゆっくりと話し始めた。
「ひょっとして、優作先生忙しかった? さっきの人たちと約束してたんでしょ」
「そんなに忙しくないよ。これからあそこで鍋やるって言ってただけだから。こんな真夏に鍋なんて、おかしいでしょ?」
「え、学校でそんなことしていいの?」
 梨緒子は目を丸くした。
 やはり大学は、高校生では知ることのできない未知の世界だ。
 梨緒子の反応に気を良くしたのか、優作は笑顔で得意げに説明を始める。
「理系の学部はね、徹夜実験で泊り込むこともあるから、各階に簡単な炊事場もあるんだよ。材料はそこで切って、あとは研究室にカセットコンロを持ち込んで……って感じ」
「いいなあ、調理実習みたいで楽しそうー」
 優作のたれ目がさらに緩んだ。あー、懐かしい、調理実習ねえ――と呟きながら頷いている。
「それより、僕の友達は落ち着きないヤツが多くて、ビックリしたでしょ。女子高生って言葉の響きにときめくような、むさくるしい連中ばかりだから」
「なんかみんな、優作先生っぽい雰囲気だよね。白浜さんと草津さん……温泉コンビって、誰が思いついたの? 覚えやすくていいけど」
「これで『登別』くんと『別府』くんがいたら、温泉カルテットに格上げなんだけどね」

 何で、こんなに楽しいんだろう。
 どうして、こんなにも違うのだろう。
 同じ屋根の下で暮らす兄弟なのに――どうして。

 どうして秀平とは、こんなふうに一緒に時間を過ごせないのだろうか。

 突然表情を曇らせ始めた梨緒子を見て、優作は穏やかに問いただす。
「どうしたの? またあいつに嫌な思いをさせられた?」
 やはり、気づいている。
 ここまでわざわざ訪ねてきて、気づかないわけはないのだが――。
「…………ううん。たぶん、秀平くんは悪くない」
 いろいろなことがありすぎたのだ。
 秀平とのやりとりが、もう、ずっと昔のことのように思える。

 好きだから。一緒にいたいから。
 そんな理由で同じ大学を目指すことは――困る、と。

「分かってる。秀平くんの言うことは正しいんだと思う。でも、そんなに困らせることだって、思ってなかったから。なんかね、最近秀平くんが自分に優しかったから、勘違いしちゃったんだ、私」
 梨緒子は混乱した糸を解くように、事実を整理し確認しながら、優作に一つ一つをぶつけていく。
「それに私、仲良しの子をずっと傷つけてた。ホント、最低なの」
 優作は黙って梨緒子の話に耳を傾けている。
 それで? それから? と、梨緒子の心の中のモヤモヤを上手く引き出していく。
「秀平くんに正しいこと言われて、一人で勝手に傷ついて、で、告白されたルイくんに心が動いたの。美月ちゃんが、ずっとルイくんのこと好きだったなんて、全然、気づかなくて。親友だったはず、なのに、……美月ちゃんが、私にそのことを、黙ってたこと……も、何だか……く、悔しい……し、情けないし……」
 耐えられなかった。
 途中から声が震えてしまい、上手く説明ができない。
 梨緒子の両目から、涙があふれ出した。
「なんだか、あとに退けなくなっちゃった……。ルイくんとなんか、付き合うことに、なっちゃって――もう、戻れないの。秀平くんは、悪くないの、悪く、ない……」
 秀平のことを考えると、涙が次から次へとあふれてくる。
「ホント馬鹿だな、あいつ。こんなに梨緒子ちゃんに想われているのに……。でもね、梨緒子ちゃん。付き合うことがすべてじゃないし、相手を思うその気持ちが大切だと思うから――」

 ――どういう意味? 私はどうすればいいの?

「このまま想っていても振り向いてくれないのに? そんなの苦しいだけだよ。もう、すべてを忘れてしまいたいくらい……」
 分からない。
 秀平も、類も、美月も、――誰のことも分からない。

「でも、そう簡単に忘れられるはず……ないから、ね。秀平のこと、嫌いになったわけじゃないんでしょ?」
 梨緒子は思わず目を瞠った。
 やはりこの家庭教師は、梨緒子の心の内をすべて見透かしている。