知ってる。

 澄み切った秋の青空は、どこまでも心地いい。
 今日は高校の文化祭、二日目である。
 梨緒子たちの通う高校では、一年生と二年生がそのイベントのほとんどを担う。
 三年生は受験を控えているため、観客として参加はするものの、夜遅くまで残って準備したりすることはない。


 梨緒子は五日ぶりに学校へ登校した。
 死ぬほど憂鬱だった秀平との対面も、彼は朝の出席確認のホームルームに姿を現しただけで、あとはいつものように教室から姿を消してしまった。そのため、一触即発の事態ということにはならなかった。
 付き合っているといっても、いまだ表立って仲良くしているわけではないため、クラスメートに不審がられることもない。

 担任教師が教室を出て行ってしまうと、あっという間に騒がしくなった。
 それぞれ自由にイベントのプログラムをチェックし、今日の予定を立てている。

 梨緒子の元へ、親友の美月がやってきた。その後ろにはもれなく類少年の姿がある。
「良かった、元気そうで。心配してたんだよ?」
「ありがとう。大丈夫だから」
 美月の表情は晴れ晴れとしている。心配していたという言葉に嘘はないようだ。
 その美月の安堵した表情が、梨緒子の心を和ませる。
「今日も永瀬くんと一緒に勉強? 文化祭のときくらい、イベント楽しめばいいじゃないねー?」
 返事に困った。
 とりあえず、曖昧に流してしまう。
「……まあ、ね」
「後夜祭のダンス、どうするの? 最後の文化祭なんだからさ、無理矢理にでも誘っちゃえばいいよ」
 さらに、返事に困った。
 とうとう説明しなければならない――そう思ったときである。
 それまで梨緒子と美月のやり取りを眺めていた類が、後ろから白々しく言った。
「ケンカしちゃってんだよなー? 犬も食わねっつーの」
「ええ? そうなの?」
 美月は驚いた顔で、背後の類を振り返った。
 おどけたようにしてあくまで能天気に笑う類に、美月はこれ見よがしな深いため息をついてみせる。
「ルイ、やけに嬉しそうじゃない? ……魂胆見え見えだけど」
「別に嬉しくはねーよ。まあ、予想通りということで」
 美月は合点のいかない複雑な表情をしながら、梨緒子に尋ねた。
「……ケンカって、そんなにひどいの?」
 美月にはとても想像がつかないらしい。言葉を交わすだけで緊張して一喜一憂していた梨緒子のことをよく知っているだけに、その関係の進展に驚きを隠せないようだ。
 梨緒子は大きくため息をついた。
「ケンカっていうか……秀平くんを一方的に怒らせちゃったというか」
「へえ、ケンカできるようになったんだ。スゴイじゃない」
 美月は感心したように頷いてみせる。
「そんな、他人事だと思って……秀平くんってば、怒ると死ぬほど怖いんだから」
「本気出させたってわけでしょ。やっぱりスゴイ」
 それだけ言うと、美月は笑顔で梨緒子を褒めた。そしてそれ以上、美月はケンカの理由を聞こうとはしなかった。
 梨緒子には、それがむしろありがたかった。
 説明するには、彼とのやり取りをまた思い出さなければならない。
 もう、思い出すのも嫌なのである。



 各クラスごとに、一年生は模擬店、二年生は催事が割り当てられている。
 体育館では一日中何かしらのイベントが行われていて、時間のある生徒は自由に参加したり見てまわったりすることができる。
 秀平のように時間を惜しんで図書館にこもる生徒もいるが、三年生の多くは受験前の気晴らしとして、文化祭を楽しんでいる。

 梨緒子は、美月と類と三人で模擬店めぐりをすることにした。
 類の提案である。気落ちしている梨緒子を気遣ってのことだろう。
 梨緒子は素直に、二人と行動を共にすることにした。

 普段は自転車置場として使われている屋根付きのスペースが、各クラスの模擬店に早変わりしている。
 ダンボールに色模造紙の看板も、なかなか凝った出来映えだ。
 すでにあたりには、香ばしい油の焼ける匂いやスイーツの甘い香りが漂っている。
 今日は金曜日、平日のため、他校の生徒の姿は見当たらないが、近隣の一般客や父兄が生徒に混じって模擬店を物色している。
 明日土曜日には、他校の生徒もたくさんやってくるはずだ。

 梨緒子の両手は、類が手当たり次第に買うたこ焼きやら焼きそばやらアイスクリームやらで、埋め尽くされていった。
「ほらリオ、これも食えって」
「もう。食べきれないってー」
 両手がふさがっているのをいいことに、類は爪楊枝で梨緒子の持っているパックのたこ焼きを刺し、梨緒子の口に無理矢理押し込んでくる。
 こういうところは昔から変わらない。ただ、その鬱陶しいほどのその明るさは、いまの梨緒子には救いだった。
 気がまぎれることは確かである。
「……なんか、完全私はお邪魔って感じ?」
 美月は、はしゃぐ類をたしなめるように言った。
 無理もない。
 傍から見れば、仲のいいカップルにお情けで付いていってる友達、という状況だ。
 それが本当なら気をつかって二人きりにするところだが、現在の類と梨緒子の関係からすると、美月は付いて歩くしかないのである。
「何だ、美月お前、ヤキモチか?」
「そんなんじゃありません」
 不思議な関係だ。類は美月の気持ちを分かっていながら、あえて試すようなことを口にする。
 好きだとか嫌いだとか、そういう感情を越えた付き合いなのだ。お互いのことを良く知る幼馴染だからこそ、言えるのだろう。
 秀平と梨緒子には、決して存在し得ない感情だ。
「何が食いたいんだよ。ルイ様がおごってやるよ」
「そんな別に、無理におごって欲しくなんかないもん」
「おお、すげ、餃子売ってる。お前、餃子大好きだったろ。買って来てやるよ」
「何でよりによって餃子!?」

 ――こうやって、楽しく催し物を見て歩きたかったな。

 類と美月の楽しそうなやり取り聞きながら、梨緒子はふと、そんなことを考えた。
 しかし。
 頭の中でいくら楽しい妄想を膨らませても、それが現実となることはなかっただろう。
 秀平には、そんな甘い期待は通用しないのだ。
 他の生徒が大勢いる前で、二人並んで楽しく歩き回るなど――ありえないことなのだ。

 それにしても――。
 彼の横顔がいつも側にあったことが懐かしい。
 かれこれ五日も、その端整な横顔を見ていない。
 冷たくも優しいその声も、しばらく聞いていない。
 同じ学校の敷地内にいるのに、様子を見に行く勇気が出ない。

 ただ、こうやって美月や類と三人で仲良く過ごせるのも、この上ない幸せなのだ――ここ数ヶ月の修羅場を思い出し、梨緒子はようやく気を取り直した。


 餃子を売っている模擬店は、中華料理がテーマのようだった。餃子のほかにも揚げ胡麻団子や杏仁豆腐などのスイーツも並べられている。
 類は、美月と梨緒子を少し離れた場所に残し、一人模擬店へと近づいていく。
「あ、ルイ先輩! 買っていってくださいよ」
「おっ、ポン太じゃん。お前、エプロン似合わねー」
 どうやら類の部活の後輩らしい。
 小柄で人懐っこそうなエプロン姿の男子生徒は、調子よくしゃべりまくっている。
「僕、類先輩たちに投票しましたんで! 楽しみにしてますから!」
「……投票?」
「ほら、後夜祭のアレですよ」
 梨緒子は、類とその後輩が交わす会話に思わず耳を止めた。

 ――後夜祭の、アレ?

 後夜祭のアレとは、文化祭の実行委員会主催の、『ベストカップルコンテスト』と呼ばれるイベントである。
 その内容は、事前投票で一位に選ばれたカップルが、後夜祭のキャンプファイヤーで、キャンドルサービスの如く点火をする、というものである。
 自分が予想したカップルが火をつけると縁結びのご利益にあやかれるという、この高校では球技大会のはちまきに次ぐジンクスがある。
 そのため、投票率も注目度も高く、文化祭の名物イベントとなっている。

 もちろん、梨緒子もそのイベントのことは知っている。
 去年までは、当時片想い中だった彼と恋を実らせたくて、ベストカップルコンテストの投票に参加したものだった。
 予想は当らなかったのだが――。
 それが今年は、まさか自分がその候補に選ばれているなんて、まさに寝耳に水状態だ。
 しかも、その相手は――。
 梨緒子の心臓が高鳴った。
 傍らに立つ美月と目が合う。美月も、類たちの会話が気になったらしい。
「そりゃあ、梨緒ちゃんとルイが別れたこと知らない人がほとんどだし……こうやって一緒に楽しく模擬店まわってたら、普通は疑わないよね。いくら私が一緒だとしても」
 そう――。
 『類先輩たち』のカップルとは、まさに類と梨緒子のことを指しているのである。
「で、でも! まさか一位なんかになるわけないって!」
 梨緒子は自分自身にそう言い聞かせた。
 一位にさえならなかったら、いいのである。
 しかし、美月の表情は冴えない。
「ルイはこう見えて全校的に知名度があるし、この間まではラブラブはしゃぎまくってたから、印象は強いと思うよ?」
「だって、そんなこと言われても困る……ホント、どうしよ」
 嫌な予感がする。
 ひどく胸騒ぎがする。
 そんな梨緒子の動揺を叱咤するように、美月は梨緒子の腕を掴み揺り動かす。
「いい? 梨緒ちゃんの彼氏は、永瀬くんなんだからね? 付き合ってるカップルじゃなくちゃ、駄目なんだからね?」
「……知ってる。知ってるけど」
 いまだ後輩と楽しげに話し込んでいる類の背中を、梨緒子はおぼろげに眺める。
 ふと。
 図書館で淡々と勉強をしているであろう秀平の冷たい横顔が、梨緒子の脳裏をよぎった。