お手上げ。

 梨緒子はじっと、返ってきたばかりの模試の成績表とにらめっこしていた。

 とりあえず秀平とは仲直りをして、普通に話せる状態まで仲が戻ったが、どことなくギクシャクした感じが残っている。
 その理由は、二人の成績の差にあった。
 これが二年生だったら――頑張って追いつこうという気力が出てきたかもしれない。
 しかし、すでに三年の十月。一次のセンター試験までは、たったの三ヶ月しか時間が残されていない。
 家庭教師の優作のお陰で、わずかずつではあるが梨緒子の成績は伸びていた。ひょっとすれば、地元国立大に現役合格することはできるかもしれない。
 しかし、北大にはとても手が届かない。

 秀平は北大一筋でひたすら勉強をしている。
 学年一位の成績をキープする彼は、もちろん合格圏内に入っている。

 ――ついて行きたいけど、ついて行けない。


 帰りのホームルールが終わったあと、秀平は珍しく梨緒子の席までやってきた。
 まだ同級生たちが大勢残っている。梨緒子は周囲の反応が気になり、教室内を見渡した。何人かがすでに気づいている。
 秀平はおもむろに言った。
「江波、付き合って欲しいんだけど」
「ええ!?」
 梨緒子の大声に、教室内が一瞬にして静まり返った。
 秀平が放ったひと言は、同級生たちには聞かれていなかったようだ。不思議そうにしながら、梨緒子と秀平を遠巻きに眺めている。
 梨緒子は慌てて、作り笑いを浮かべて周囲の同級生たちに取り繕う。すると、教室内はわずかなどよめきを残し再び喧騒が戻った。

 ――なんなの、いったい?

 梨緒子は、訳の分からぬことを言い出す彼氏・秀平の顔を、困惑しながらじっと見上げた。
「何でそんなに驚くの?」
「だって、付き合ってたんじゃ……なかったのかな、って」
 消え入りそうな声で、梨緒子は説明をした。
 すると、秀平はそんなことかと、あっさり一蹴してみせる。
「付き合って欲しい『ところがある』んだけど。……って、普通分かるだろ。俺のほうが驚くよ」
 完全に、あきれ返っている。
 付き合い始めてまだ日が浅い。まだまだ、長年連れ添った夫婦のようにはいかないのである。
 梨緒子は自分の思惑が杞憂に終わったことを安堵しながらも、秀平の誘いに難色を示した。
「でも今日、優作先生との授業があるから……」
「五時からだろう? だったらあと一時間半ある」
「え? だって、図書館で勉強は?」
「今日は休み。ほら、早く帰る用意して」
 まだ外は明るい。下校する生徒も大勢いる。
 これまで、頑なに人前で二人きりになるのを嫌がっていた秀平とは、とても思えない。まるで別人のようだ。


 梨緒子はもの凄い量の視線を感じていた。
 衆人環視のもとへ晒されるとは、まさにこういうことを言うのだろう。
 秀平は、わずかな距離を保って梨緒子のすぐ前を歩いている。その距離感は連れ立って帰るカップル、というものだ。友達同士として仲良く帰るという雰囲気ではない。

 これほどまでの衆人環視の理由に、梨緒子は思い当たるふしがあった。
 まずは、先日の文化祭で行われた『ベストカップルコンテスト』で、一位を確実視されていた類と梨緒子が選ばれなかったこと。
 そして、類が放送室を乗っ取って秀平を呼び出した際の、余計なひと言。
 秀平に彼女がいるということを、全校放送で流してしまったのだ。もともと女子生徒に莫大な人気を誇っていた彼の、『彼女』に注目が集まるのも無理のない話である。
 ただ、その目は予想以上に冷たい。秀平のファンだけではなく、ベストカップルコンテストで類と梨緒子に投票した生徒たちも、不審に思っているはずだ。
 類から秀平に乗り換え、人気のある男を手玉に取っている女――そう言いたげな無数の瞳。

 果たして秀平は気づいているのだろうか。
「秀平くん……なんかちょっと、居心地悪くない?」
「気にならないよ。俺、陰口には慣れてるし」
 梨緒子の言いたい事がすぐに分かったのだろう。秀平はさらりとかわしてみせた。
 しかしこれはどう見ても陰口ではない。梨緒子はともかく、秀平に対しては嘆きや落胆の声といったほうが正しいだろう。
「秀平くん……自分が人気あるってこと、本当に気づいてないの?」
「人気? ……何だよ人気って」
 どうやら素で言っているらしい。
 梨緒子は呆れながらも、普通とちょっとずれている彼氏に説明を試みる。
「人気があるから、みんな秀平くんのところにはちまき持っていくんだし、誕生日プレゼントとか、バレンタインのチョコレートとか一杯一杯、もらってるでしょ?」
「もらってないよ。知らない人から物もらうなって、親に言われてるし」
「あ…………そう」
 孤高の王子様と崇められている彼の実態は、こんなものなのだ。
 知らない人間からは物をもらわない――好意があってプレゼントをするという行為は、彼には理解できないらしい。
 これだけもてているのに、気がつかないなんて。
 しかし、逆にそれが彼の良さなのだ、と梨緒子は思った。


 正門の外へ出てしまうと、やっかむような生徒の眼差しもやがて無くなった。
「ねえ、どこに行くの?」
「カフェでお茶する」
 秀平が勉強止めてまで行きたいところだと言うから、どこかと思えば。
 これまたありえない、梨緒子が思い描いていた理想のデートだ。

 ――ひょっとしてこれ、ご機嫌取りなのかな。

 激しいケンカをしてもなお、最後まで謝罪の態度を見せなかった彼の、償いなのかもしれない。
 しかしこの態度の急変を、梨緒子には素直に受け取ることができなかった。

 いつもは見慣れない風景の街並みを、二人は並んで歩く。
 ふと。
 秀平が梨緒子の顔を覗き込むようにして見ているのに気がついた。
「どうかしたの?」
「いや、別に。もうすぐ着くから」


 程なくして、梨緒子は秀平に連れられて、裏通りの一角にあるお洒落なカフェにやってきた。
 ガラス張りのモダンな外観が、大人っぽい雰囲気をかもし出している。梨緒子がよく行くファストフード店とは一線を画している。
 店内に足を踏み入れると、カフェ独特のコーヒーを淹れた時の香りがほのかに漂った。広すぎず狭すぎず、店主と従業員らしき若い女の子と、二人で切り盛りしているらしい。
 秀平は店主らしき女性に声をかけた。
「ひかるさん、お久しぶりです」
「あ、来た来た。いらっしゃい、シュウちゃん」

 ――シュウちゃん?

 秀平が「ひかるさん」と親しげに名前を呼ぶその人は、二十代後半と思しき大人の女性だ。真っ白なシャツに黒のエプロンがよく似合う。
 ひかるは、秀平と梨緒子を奥の二人掛けのテーブルに案内した。
「俺のイトコなんだ」
 向かい合うようにして席についた秀平は、梨緒子にそう説明をした。
 ひかるは楽しくてたまらないらしい。お冷のグラスを差し出しながら、好奇心旺盛な眼差しで親しげに話しかけてくる。
「珍しいのねー、シュウちゃんが誰かと一緒だなんて。どちら様?」
「俺の彼女の、梨緒子です」
 その紹介の仕方に、梨緒子は息が止まるような衝撃を受けた。
 自然に下の名を呼び捨てで呼ばれ、梨緒子は必要以上に緊張してしまう。
「は、初めまして。江波梨緒子です!」
「こちらこそ。ご注文はオススメ二つででいい?」
 ひかるが尋ねると、秀平は付け加えるようにして言った。
「彼女のは、カフェオレにしてください」
「了解。では、ごゆっくり」


 今日の秀平はどうもおかしい――梨緒子は彼に対する疑念をどうにも拭えず、涼しい顔でお冷のグラスを傾けている当人に、思い切って尋ねてみることにした。
「どうしたの、突然」
「別に」
「この間と態度が全然違う」
「変わってないよ」
 ひどいことを言われたり、冷たくあしらわれているよりは、はるかにマシである、が。
 しかし、どうもスッキリしない。
「うそ。だ、だって……学校でもあんなにみんなが見てる前で」
「安藤が――遠慮しなくてもいいって、言ってたし」
「だからって、こんないきなり?」
 確かに、これまでは元彼である類に、気をつかっていたのかもしれない。
 しかし、あれほど勉強ばかりしていた秀平が、学校帰りに梨緒子とデートをする。それが、梨緒子にはどうも腑に落ちないところだ。
「そんな、別に初めてじゃないだろ。札幌でもこうやって、外で江波とご飯食べた」
 秀平は懐かしそうに言った。
 まだ、付き合っていなかった頃の話である。あの時から比べると、奇跡的に二人の距離は縮まった。
 たった二ヶ月ほど前の話なのだが、いろいろなことが梨緒子の身に降りかかり、それを乗り越え、いま――。
 夢にまで見た極上のひと時を、こうやって過ごしているのだ。


 やがて、注文の品が運ばれてきた。
 『オススメ』というのは、店主の気まぐれで選ばれるケーキと飲み物のセットらしい。ケーキの載った二つのプレートには、それぞれアイスやフルーツの可愛らしいトッピングが添えられている。
 ひかるは、梨緒子に温かいカフェオレを、秀平には紅茶を給仕し、邪魔をしないよう笑顔を残してテーブルから離れていく。

 カカオの香りが芳醇なチョコレートケーキとバニラアイスのプレート。

 みずみずしいイチゴのムースをスポンジで巻いた、ベリーのソースが鮮やかなプレート。

「どっちがいい? 好きなほうをどうぞ」
「じゃあ、イチゴがいい」
 梨緒子がそう言うと、秀平は黙ってチョコレートの皿を取った。

 半分ほど食べ進んだところで、秀平は梨緒子のプレートをフォークで指し示した。
「それ、一口食べたい」
「いいよ」
 梨緒子は素直にプレートを差し出し、まだフォークの刺さっていない部分を向けてやる。
「俺のフォーク刺したら、味が混ざるけど?」
 ふと――既視感を覚える。
 おそらく秀平も同じことを思ったのだろう。二人は目と目を合わせたまま、初めて札幌の街を散策したときのことを、一緒に思い出していた。
「あの時と、おんなじだね。立場がちょうど逆だけど」
「ああ、江波が間接キスしたがってた時」
「な、な、何? その言い方ー」
「俺のストローがいいって、そう言ってた」
 どうして平然と、こういうことが言えるのだろう。
 梨緒子は顔が火照っていくのを感じた。おそらく秀平には赤面した顔を見られていることだろう。
「秀平くんだって、私が飲んだあとにすぐ口つけてたもん! 秀平くんのほうが絶対絶対したがってた!」
「そうだったかな。よく覚えてない」
「もうー」
 梨緒子が頬を膨らませると、秀平は澄ました表情をふと緩めた。
 柔らかな空気が二人の間を流れていく。
「それで、そのあとどうしたんだっけ? 続きは?」
 珍しくまだ戯れを続けるつもりのようだ。
 梨緒子は札幌での出来事を思い出し、気恥ずかしさをこらえて言った。
「えーと……じゃあ、新しいフォークもらってくるね」
「うん、よろしく」
「ええ? そうじゃないでしょ、もうー」
 これでは間接キスのくだりには至らない。自分から続きを要求しておいて、梨緒子をからかうように逆のことを言う秀平に、恥ずかしさを通り越して憤りを覚えてしまう。
 一方の秀平は、何がツボにはまったのか、声もなくひたすら笑い続けている。
「冗談だよ。江波のそのフォークでいいから、貸して」
 そう言って秀平は、梨緒子のフォークを強引に奪うと、イチゴのムースとスポンジを豪快に一口食べた。
「なんか、江波のほうが美味しい。やっぱり、ジャンケンで決めればよかった」
「でも、もうあげないもん」
 梨緒子は返ってきたフォークで、拗ねた素振りを見せながらも喜びをかみしめ、残りのケーキを少しずつ味わった。


 長居をしている時間はない。秀平は早々に二人分の会計をすませ、梨緒子と一緒にカフェをあとにした。
 涼しい秋の風が頬を撫でる。
 街路樹の黄葉を眺めながら、二人は梨緒子の家に向かって歩いていった。
「当分の間、こういうことできないと思うから。勉強しないと」
 何気ない秀平のひと言が、梨緒子の胸にいちいち引っかかる。
 当分の間。
 秀平は、それをいつまでと想定しているのだろうか。
 二人そろって大学に合格すれば、こんな楽しいデートはいくらでもできる。
 時間はある。自由もある。バイトもできるから遊ぶお金も稼ぐことができる。

 しかしそれはすべて、同じ大学に合格できたらの話――。

「秀平くん……あのね、私」
 梨緒子はためらいながらも、思っていることを秀平に打ち明けた。
 誰よりもまず、彼に話そうと思ったからである。
「北大、無理かもしれない」
 梨緒子は、秀平の反論を待たずに続けた。
「試験受ける前からあきらめるなって言われるかもしれないけど、この時期に来て、無謀なことばかりも言ってられない……し」
 いったい自分は、彼になんと言って欲しいのだろう。
 あきらめるな、一緒に頑張ろう。そういう言葉なのだろうか。
 自分の中の何かが、あきらめない気持ちをくじけさせている。

 そのときである。
「もういいよ」
「え?」
 おそろしく感情のこもっていない声で、秀平は淡々と梨緒子に告げた。
「別に、北大なんて行きたくないんだろ?」
「……どういう意味?」
 怖々と傍らの秀平を見上げると、不思議と彼はいつものように涼しい表情を崩すことなく、その顔をゆっくりと梨緒子のほうへ向けた。
「最初から分かってたはずなのに。江波が目指してるのは北大じゃないってことくらい」
「秀平くん」
「結論は急がなくてもいいだろ。三月になったら必然的に答えは出るから。このまま付き合いを続けるにしろ続けないにしろ――」
 遠回しに『同じ大学を目指す必要はない』と秀平に告げられ、梨緒子は茫然となった。

 ――私たち、どうなっちゃうの?

 やがて梨緒子の家の前までやってくると、秀平は梨緒子と向き合い、軽く頭を下げた。
「今日は、どうもありがとう」
「え、何が?」
 言っている意味が分からなかった。
「一緒にいてくれて、ありがとう」

 ――なんなんだろう、いったい。

 まるで最後の晩餐だ。二人の幸せなデートは、この先もう二度と訪れることがないと、秀平が予感しているのかもしれない。
「そうか……北大はお手上げ、か」
 そう呟き、秀平はきびすを返すと、そのまま梨緒子に背を向け遠ざかっていく。
 進路と恋愛、そのどちらかを切り捨てなければならない――漠然とした不安が、梨緒子の心に重くのしかかった。