勝手にしろ。
いつにない虚脱感が梨緒子を襲っていた。
つい先ほど、帰る道すがらに秀平に言われた言葉が、梨緒子の脳裏を反芻する。
【別に、北大なんて行きたくないんだろ?】
自宅のリビングでは、すでに優作がくつろいで梨緒子を待っていた。
「お帰り、梨緒子ちゃん。さすが、時間どおりだね」
「優作先生。私、どうすればいいの?」
梨緒子は帰ってくるなり、挨拶もせずに開口一番、優作にすがりついた。
「ねえ、どうすればよかったの?」
「梨緒子ちゃん……?」
「行きたくないんじゃない。行けないの。どう考えたっていまの成績じゃ、北大には到底合格できないもん」
「まだ、分からないでしょ」
優作はのんびりと呟くように言った。
おそらく梨緒子の様子から、またもや実弟の秀平が梨緒子を困らせることを言ったに違いないと、完全に読みきっている。
「秀平くんが私に側にいて欲しいっていう、その気持ちは物凄く嬉しいけど、この先側にいたくてもいられない日が確実にやってくるんだもん」
ふと、気づく。
「……秀平くんの言うとおりなのかも。私が行きたいのは北大じゃない。ただ、秀平くんの側にいたいだけ……なのかも」
行きたいけれど行けない、ではない。
行きたくないし――そもそも行けない、のである。
苦悩する梨緒子をよそに、優作は和やかな顔で、すべてを包み込むように言った。
「だったら進学するの止めて、結婚したら? そしたらずっと一緒にいられる――ちょうど今日からできるしね」
「もう、そんなことできるわけないでしょ! …………今日から?」
優作が発した『今日』という言葉に、梨緒子は引っ掛かった。
「うん、今日から。そうそう、ひかるちゃんとこのケーキ、美味しかった?」
「な、な、何で優作先生知ってるの!?」
梨緒子は仰天した。その話の飛躍についていけず、心構えもまったくできていない状態だったため、どう反応してよいのかまったく分からず、慌てふためいてしまう。
一方の優作は、淡々と梨緒子の疑問に答えた。
「やっぱり行って来たんだね。何でって、今日は誕生日だから、『一緒にケーキでも食べてくれば』って今朝、秀平に勧めてたんだけど」
「……え」
「ひかるちゃんね、僕たちのイトコなんだよ。秀平から聞いた?」
梨緒子は頭の中が真っ白になる。
誕生日だから、ケーキ。
一緒に、ケーキ。誕生日だから。
優作が『今日からできる』と冗談を言ったのは、彼が十八歳の誕生日を迎えたから――。
「……最低。私ってば、本当に最低」
最近まで仲違いをしていて、いくら気まずい状態だったとはいえ、彼氏の誕生日も忘れてしまっていたとは。
【今日は、どうもありがとう】
秀平が別れ際に言った不可解な言葉の意味が、ようやく分かった。
おかしいと思ったのだ。
しかし、まさかこんなことだとは――まったく予想できなかった。梨緒子はすっかり、秀平のご機嫌取りなのだと思っていた。
誕生日だから、一緒にケーキを食べたかった――だなんて。
「どこまでも、最低」
おめでとうとお祝いの言葉をかけるどころか、ご機嫌取りだと勘違いしてケーキもおごってもらい、一緒の大学は無理だと弱音まで吐いて。
完全、自己嫌悪だ。
「最低なんかじゃないよ。そんなに自分を責めないで、梨緒子ちゃん」
優作の慰めも焼け石に水。いまの梨緒子には何の助けにもならない。
「前に仲のいい子に言われたの、私は『自己中』なんだって。ルイくんにもこの間『女王様』だって言われたし……。結局私は自分のことしか考えてない。ケンカしたときだって、自分一人が傷ついてるって思って、でも秀平くんだって……」
文化祭のとき、図書館で。
梨緒子は、書架の合間から秀平の姿を覗き見たときのことを思い出した。
勉強も手につかず、携帯電話を片時も離すことなく握り締めたまま、一人きりで――。
「気にしていないはずなんて、無かったのに」
いまでもその光景を思い返すと、胸が引き絞られるような痛みを覚える。
それなのに、仲直りができたと安心した途端に、これだ。いくら自己嫌悪に陥ってもまだ足りない。
「誕生日なのに、プレゼントどころかおめでとうすら言えなかった……」
優作はしばらく黙っていたが、やがて、仕方がないといったように困り顔で微笑んで、ゆっくりとため息をついた。
「行こう」
優作はそそくさと帰り支度を始める。
不思議に思い、梨緒子は尋ねた。
「……どこに行くの?」
「今日は、僕の家で授業しようか」
優作の言う『僕の家』。つまり秀平の家である。
どうして突然そんなことを言い出したのか、梨緒子にはすぐに分かった。
梨緒子は制服姿のまま、勉強道具をカバンに入れて、優作と連れ立って家を出た。
夕闇が押し迫り、辺りはどんどん暗くなる。
一人で歩くのは怖い。しかし、優作が一緒だと安心できる。
「僕さ、前に梨緒子ちゃんに言ったと思うんだけど」
「なに?」
梨緒子は優作と並んで歩きながら、その話にじっと耳を傾けていた。
「秀平の目指すものを一緒に目指せばいい、って。でもそれは間違いだったのかもしれない。さっきの梨緒子ちゃんの話を聞いてね、そう思った」
優作はどんなことでも分かってくれる。
どんなことでも受け入れてくれる。
いつも自分が困ったときに助けてくれるのは、この家庭教師なのだ。
しかし、今日はいつもと調子が違う。
「梨緒子ちゃんがさっき自分のこと自己中心的だって言ってたけど、僕に言わせたら、秀平がしてきたことのほうがよっぽど、自己中心的だと思う」
優作はキッパリと言い切った。
しかし、梨緒子には優作の言っていることが、まるで理解できなかった。
彼のことを自己中心的だと思ったことは、一度もない。
「自分のことだけを一心に思ってくれる梨緒子ちゃんに秀平は執着してて、とにかく一緒に北大へついて来いと無理強いをした。僕はね、それはいただけないと思う。そんなの、この先絶対に梨緒子ちゃんのためにはならないから」
秀平を追いかけて北大を目指した自分を、いつでも応援してくれていた優作の言葉とは、とても思えなかった。
自分たちは間違っている。
進路と恋愛は別のもの。一方のためにもう一方を犠牲にするのはおかしい。
それは分かっている。分かっているけれど――。
「梨緒子ちゃんという人間は、それだけじゃないでしょ? 秀平以外にも、もっともっと世界がある。それは家族だったり、友達だったり、興味があることだったり」
夕闇の中から響く優作の声は、いつになく力強かった。
自分の視野が狭いのだということを、遠回しに告げられている。
「秀平がついて来なくていいと言ったのは、別に心変わりでも何でもない。むしろ、梨緒子ちゃんを違う目で見始めたんじゃないかと、僕は思うよ」
「違う目……?」
「あいつも梨緒子ちゃんとケンカして、少しは成長したのかもしれないな。気づいたんだよ、きっと。梨緒子ちゃんが側にいるということの、本当の意味にね」
優作の言うことは相変わらず抽象的で、梨緒子には分かりにくいものだった。
優作と話しながらの道のりは、あっという間に感じられた。
いつか来たことのある永瀬家の家の前に立ち、梨緒子は大きくため息をついた。
秀平の部屋の窓に明かりがついている。
「うちはいつも両親が遅いから、気をつかわなくてもいいよ。いまも秀平しかいないし。勉強始めるために準備するから、その間、秀平のところで時間つぶしててね」
優作はそう説明をし、梨緒子を家の中へと招き入れた。そして、階段の下まで誘導すると、途惑う梨緒子の背中をそっと押した。
「行っておいで。『今日』はまだ終わっていないよ」
「秀平くん、入ってもいい?」
秀平の部屋の前に立ち、梨緒子は中へ向かって呼びかけた。
するとすぐにドアが開き、部屋の主が姿を現した。
「……江波? どうしたの、兄貴の授業は?」
秀平はTシャツの重ね着にジーンズという普段着姿だ。すでに制服から着替えている。
「今日はここでやるって。準備ができるまで、秀平くんの部屋にいればいいって言われたから。勉強の邪魔なら、下にいるけど」
「邪魔なわけないだろ。入って。そこに腰かけてればいいよ」
秀平は、きちんと整えられた自分のベッドを指し示した。
梨緒子は素直に秀平の言うことに従い、濃紺のベッドカバーの上にゆっくりと座った。
秀平は勉強の最中だったらしい。問題集とノートが開いてある。梨緒子がちゃんと座ったのを確認すると、秀平は勉強机に向かった。
「ここの問題解き終わるまで、待ってて」
帰ってからすぐに机に向かって、いつもこうして勉強に励んでいるのだろう。
梨緒子は邪魔になると分かっていたものの、問題を解いている途中の秀平に声をかけた。
「秀平くん、あのね」
「何?」
梨緒子に背を向けたまま、秀平は返事した。
問題を解きつつ、耳だけをこちらに向けている。
「お――」
「……お? お、何?」
肝心なひと言が、喉につかえて出てこない。
梨緒子は秀平の背中に向かって小さくため息をついた。
「……いや、やっぱりいい」
「何だよ、言いかけて止めるなよ」
秀平はようやく顔を上げ、椅子を回転させて梨緒子のほうを振り返った。
そして、涼しい顔して、さらりひと言。
「トイレなら階段の下だよ」
「トイレ?」
「『お』から始まる言葉で、江波が言いにくそうにしてるから、そうかなって。別に恥ずかしがらなくても」
「……もう、違うって! 幼稚園児じゃあるまいし……」
「じゃあ、なんだろ……『おなか空いた』? ああ、『送って欲しい』? いいよもちろん」
ああ。
やっぱり好き。この人が大好き。
それなのにどうして、自分は――。
「お……おめでとう」
秀平の両目が見開かれた。完全に驚いている。
梨緒子は続けた。
「今日は秀平くんの誕生日だったんだよね」
「何だ、そんなことか」
『お』から始まる言葉が何であるかようやく気づき、秀平は照れ隠しのためか、さらりと興味がなさそうに言い放った。
しかし、梨緒子の気持ちは到底収まらない。ベッドカバーをしわがつくほど握り締め、秀平と目を合わせることができずに、じっと床を見つめる。
「ホントに、私ってば最低な彼女だね。秀平くんの彼女でいる資格なんてない、本当だったら朝イチで言わなくちゃいけないのに。それに……言ってくれれば、ちゃんと分かってたら、ケーキくらいおごったのに……」
「別に、江波が側にいたからそれでいいんだ」
「欲しいものがあれば、言って?」
「え?」
「プレゼント。知らない人からもらうのは駄目でも、彼女は別でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
秀平は少し照れたように微笑んだ。
そして、じっと梨緒子の顔を見つめたまま考え込む。
「何でもいい?」
「えー……っと、あんまり高いものだと、困るけど」
「お金じゃ買えないもの――なんだけどさ」
秀平は椅子から立ち上がると自分の部屋の中を移動し、梨緒子の腰かけているベッドの横に並ぶようにして腰かけた。ベッドのスプリングがわずかに軋む。
梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
――お金じゃ買えないって…………嘘。
こんな唐突にその時がやってくるとは、梨緒子は予想していなかった。
優作に連れられてここまでやってきて、すっかり気が緩んでいた。とにかく彼にひと言、誕生日を祝う言葉を送りたい、それだけだったのだ。
ふと冷静になると、ここは秀平の部屋。彼の領域である。
いつ優作がここまで呼びに来るか分からない。
いや、ひょっとして。
これも優作の策略だったのではないか――そんな気さえしてしまう。
「しゅ、秀平くん?」
秀平は自分の両膝に肘をつくようにして指を組み、梨緒子の顔を見上げるようにして覗き込む。
「欲しいんだ」
「え……っと、何が?」
「江波が――」
はぐらかす言葉も上手く出て来ない。
相手は本当に好きな男で、付き合っている自分の彼氏で、そして今日は彼の誕生日で、彼の要求にはできる限り応えたいわけで――。
梨緒子の緊張は最高潮に達していた。膝頭が触れ合っている彼に、心臓の鼓動が伝わってしまっているのではないかと思われるほど、全身が脈打っている。
すると。
「江波が――俺に作ってくれたはちまき。あれが欲しいんだけど」
「…………はっ、はっ、はちまき? 何でそんなもの」
自分が想像していた答えとの落差に、梨緒子は混乱した。
それと同時に、諦めと安心が入り混じったため息が、長く吐き出される。
秀平はこの状況に気づいているのかいないのか――おそらく後者であろう。
ベッドの上でここまで至近距離をとられてしまったら、その先の展開を想像するなというほうが酷である。
梨緒子は動揺を気取られぬよう、大きく呼吸を繰り返した。しかし、なかなか簡単には収まらない。
「ジンクスだからって仕方なく返したけど、本当は返したくなかったんだ、あれ」
「どうして?」
「どうしてって……初めて江波が俺にくれたものだから」
梨緒子は制服の内ポケットから水色のはちまきを取り出した。秀平に返してもらってから、彼がいたずら書きした自分の消しゴムとともに、ずっとそこに入れてある。
「これ?」
「うん。江波、持ち歩いてるんだ」
「もちろん。秀平くんが私に初めてくれたものだもん。これは……手放したくない、かも」
このはちまきは梨緒子にとってもお金では決して買えない、大切なものなのだ。
「じゃあ、半分に分け合えばいい。どう?」
「うん、それならいいよ」
秀平は机の引出しからハサミを取り出すと、梨緒子にはちまきの片方を持たせ、もう片方を自分で持ち、テープカットの要領で真ん中にハサミを入れた。
長い一本のはちまきが、短く二本になった。秀平は満足そうに、自分の分を手のひらの中に収める。
「大切にする、ずっと」
「本当にいいの? こんなもので」
いくら秀平のリクエストとはいえ、誕生日を忘れてしまった償いとしては、はちまき半分はあまりにお粗末だ。
「じゃあ、……もう一つ。お金じゃ買えないこと」
再び緊張が走る。
「江波のこと――」
秀平は真っ直ぐに梨緒子の顔を見つめている。
吸い込まれそうなほど透き通った茶色の瞳に、梨緒子は自分の顔が映るのを見た。
――今度こそ、来る……のかも。
「江波のこと………………『梨緒子』って、そう呼びたい」
梨緒子は思わず絶句した。
「よっ、よっ……!?」
呼べばいいじゃない、と言いたかったのだが、混乱して上手く舌が回らない。
一度ならず二度までも。
いらぬ緊張を強いられて、どっと疲労を覚えた。
しかし、秀平の要求はどれもこれも可愛らしいものばかりで、それが逆に梨緒子の心をぐっと掴む。
「駄目?」
不安そうに首を傾げて尋ねる秀平の憂うような表情に、梨緒子の胸は完全に撃ち抜かた。
「……駄目じゃ、ないよ。秀平くんの好きなように呼んで」
「じゃあ、今度からそうさせてもらう」
そのまま、秀平は黙った。
軽く座り直し、完全に二人の脚が触れ合う体勢をとる。
秀平のまとう空気が変わったことに、梨緒子は気づいた。
――今度こそ本当に……三度目の正直!
いままでにないほどの緊張を覚える。
今度は間違いない。
彼の想いが、彼の欲求が、触れ合う脚の温もりを通して伝わってくる。
――もう……秀平くんとなら、どうなってもいい。
梨緒子は、傍らに座る秀平の顔を見上げた。
見下ろされる秀平の眼差しは、どこまでも真っ直ぐで真摯である。
もう、お互いの姿しか見えない。ここは二人だけが存在する世界。
二人でゆっくりと呼吸を合わせる。
梨緒子は、秀平にその身を預ける覚悟を決めた。
肩を抱かれるようにしてそっと、秀平の左手が梨緒子の左肩にかかった。
その次の瞬間。
「盛り上がってるところ悪いんだけどね」
突然の第三者の声に驚き、二人が同時に振り返ると――兄の優作がドアのところから顔だけを覗かせて、若き恋人たちの初々しいやり取りを眺めていた。
秀平と梨緒子は慌ててベッドから立ち上がり、お互い反対側を向いて、不自然なほどの距離をとる。
それを見て、優作はふわりと穏やかに笑った。
「そろそろ僕からの『誕生日プレゼント』を借りていってもいいかな、『秀平クン』? これから下で授業だから」
「……いちいち聞くなよ。勝手にしろ」
十八歳になった彼の口から、諦めにも似た長いため息がもれる。実兄の策略に嵌ってしまったことが悔しいのか、秀平は背を向けたまま、「さっさと行けば」と梨緒子を冷たくあしらった。
その手には、二つに切り分けられた水色のはちまきの片方が、大切にしっかりと握られていた。
つい先ほど、帰る道すがらに秀平に言われた言葉が、梨緒子の脳裏を反芻する。
【別に、北大なんて行きたくないんだろ?】
自宅のリビングでは、すでに優作がくつろいで梨緒子を待っていた。
「お帰り、梨緒子ちゃん。さすが、時間どおりだね」
「優作先生。私、どうすればいいの?」
梨緒子は帰ってくるなり、挨拶もせずに開口一番、優作にすがりついた。
「ねえ、どうすればよかったの?」
「梨緒子ちゃん……?」
「行きたくないんじゃない。行けないの。どう考えたっていまの成績じゃ、北大には到底合格できないもん」
「まだ、分からないでしょ」
優作はのんびりと呟くように言った。
おそらく梨緒子の様子から、またもや実弟の秀平が梨緒子を困らせることを言ったに違いないと、完全に読みきっている。
「秀平くんが私に側にいて欲しいっていう、その気持ちは物凄く嬉しいけど、この先側にいたくてもいられない日が確実にやってくるんだもん」
ふと、気づく。
「……秀平くんの言うとおりなのかも。私が行きたいのは北大じゃない。ただ、秀平くんの側にいたいだけ……なのかも」
行きたいけれど行けない、ではない。
行きたくないし――そもそも行けない、のである。
苦悩する梨緒子をよそに、優作は和やかな顔で、すべてを包み込むように言った。
「だったら進学するの止めて、結婚したら? そしたらずっと一緒にいられる――ちょうど今日からできるしね」
「もう、そんなことできるわけないでしょ! …………今日から?」
優作が発した『今日』という言葉に、梨緒子は引っ掛かった。
「うん、今日から。そうそう、ひかるちゃんとこのケーキ、美味しかった?」
「な、な、何で優作先生知ってるの!?」
梨緒子は仰天した。その話の飛躍についていけず、心構えもまったくできていない状態だったため、どう反応してよいのかまったく分からず、慌てふためいてしまう。
一方の優作は、淡々と梨緒子の疑問に答えた。
「やっぱり行って来たんだね。何でって、今日は誕生日だから、『一緒にケーキでも食べてくれば』って今朝、秀平に勧めてたんだけど」
「……え」
「ひかるちゃんね、僕たちのイトコなんだよ。秀平から聞いた?」
梨緒子は頭の中が真っ白になる。
誕生日だから、ケーキ。
一緒に、ケーキ。誕生日だから。
優作が『今日からできる』と冗談を言ったのは、彼が十八歳の誕生日を迎えたから――。
「……最低。私ってば、本当に最低」
最近まで仲違いをしていて、いくら気まずい状態だったとはいえ、彼氏の誕生日も忘れてしまっていたとは。
【今日は、どうもありがとう】
秀平が別れ際に言った不可解な言葉の意味が、ようやく分かった。
おかしいと思ったのだ。
しかし、まさかこんなことだとは――まったく予想できなかった。梨緒子はすっかり、秀平のご機嫌取りなのだと思っていた。
誕生日だから、一緒にケーキを食べたかった――だなんて。
「どこまでも、最低」
おめでとうとお祝いの言葉をかけるどころか、ご機嫌取りだと勘違いしてケーキもおごってもらい、一緒の大学は無理だと弱音まで吐いて。
完全、自己嫌悪だ。
「最低なんかじゃないよ。そんなに自分を責めないで、梨緒子ちゃん」
優作の慰めも焼け石に水。いまの梨緒子には何の助けにもならない。
「前に仲のいい子に言われたの、私は『自己中』なんだって。ルイくんにもこの間『女王様』だって言われたし……。結局私は自分のことしか考えてない。ケンカしたときだって、自分一人が傷ついてるって思って、でも秀平くんだって……」
文化祭のとき、図書館で。
梨緒子は、書架の合間から秀平の姿を覗き見たときのことを思い出した。
勉強も手につかず、携帯電話を片時も離すことなく握り締めたまま、一人きりで――。
「気にしていないはずなんて、無かったのに」
いまでもその光景を思い返すと、胸が引き絞られるような痛みを覚える。
それなのに、仲直りができたと安心した途端に、これだ。いくら自己嫌悪に陥ってもまだ足りない。
「誕生日なのに、プレゼントどころかおめでとうすら言えなかった……」
優作はしばらく黙っていたが、やがて、仕方がないといったように困り顔で微笑んで、ゆっくりとため息をついた。
「行こう」
優作はそそくさと帰り支度を始める。
不思議に思い、梨緒子は尋ねた。
「……どこに行くの?」
「今日は、僕の家で授業しようか」
優作の言う『僕の家』。つまり秀平の家である。
どうして突然そんなことを言い出したのか、梨緒子にはすぐに分かった。
梨緒子は制服姿のまま、勉強道具をカバンに入れて、優作と連れ立って家を出た。
夕闇が押し迫り、辺りはどんどん暗くなる。
一人で歩くのは怖い。しかし、優作が一緒だと安心できる。
「僕さ、前に梨緒子ちゃんに言ったと思うんだけど」
「なに?」
梨緒子は優作と並んで歩きながら、その話にじっと耳を傾けていた。
「秀平の目指すものを一緒に目指せばいい、って。でもそれは間違いだったのかもしれない。さっきの梨緒子ちゃんの話を聞いてね、そう思った」
優作はどんなことでも分かってくれる。
どんなことでも受け入れてくれる。
いつも自分が困ったときに助けてくれるのは、この家庭教師なのだ。
しかし、今日はいつもと調子が違う。
「梨緒子ちゃんがさっき自分のこと自己中心的だって言ってたけど、僕に言わせたら、秀平がしてきたことのほうがよっぽど、自己中心的だと思う」
優作はキッパリと言い切った。
しかし、梨緒子には優作の言っていることが、まるで理解できなかった。
彼のことを自己中心的だと思ったことは、一度もない。
「自分のことだけを一心に思ってくれる梨緒子ちゃんに秀平は執着してて、とにかく一緒に北大へついて来いと無理強いをした。僕はね、それはいただけないと思う。そんなの、この先絶対に梨緒子ちゃんのためにはならないから」
秀平を追いかけて北大を目指した自分を、いつでも応援してくれていた優作の言葉とは、とても思えなかった。
自分たちは間違っている。
進路と恋愛は別のもの。一方のためにもう一方を犠牲にするのはおかしい。
それは分かっている。分かっているけれど――。
「梨緒子ちゃんという人間は、それだけじゃないでしょ? 秀平以外にも、もっともっと世界がある。それは家族だったり、友達だったり、興味があることだったり」
夕闇の中から響く優作の声は、いつになく力強かった。
自分の視野が狭いのだということを、遠回しに告げられている。
「秀平がついて来なくていいと言ったのは、別に心変わりでも何でもない。むしろ、梨緒子ちゃんを違う目で見始めたんじゃないかと、僕は思うよ」
「違う目……?」
「あいつも梨緒子ちゃんとケンカして、少しは成長したのかもしれないな。気づいたんだよ、きっと。梨緒子ちゃんが側にいるということの、本当の意味にね」
優作の言うことは相変わらず抽象的で、梨緒子には分かりにくいものだった。
優作と話しながらの道のりは、あっという間に感じられた。
いつか来たことのある永瀬家の家の前に立ち、梨緒子は大きくため息をついた。
秀平の部屋の窓に明かりがついている。
「うちはいつも両親が遅いから、気をつかわなくてもいいよ。いまも秀平しかいないし。勉強始めるために準備するから、その間、秀平のところで時間つぶしててね」
優作はそう説明をし、梨緒子を家の中へと招き入れた。そして、階段の下まで誘導すると、途惑う梨緒子の背中をそっと押した。
「行っておいで。『今日』はまだ終わっていないよ」
「秀平くん、入ってもいい?」
秀平の部屋の前に立ち、梨緒子は中へ向かって呼びかけた。
するとすぐにドアが開き、部屋の主が姿を現した。
「……江波? どうしたの、兄貴の授業は?」
秀平はTシャツの重ね着にジーンズという普段着姿だ。すでに制服から着替えている。
「今日はここでやるって。準備ができるまで、秀平くんの部屋にいればいいって言われたから。勉強の邪魔なら、下にいるけど」
「邪魔なわけないだろ。入って。そこに腰かけてればいいよ」
秀平は、きちんと整えられた自分のベッドを指し示した。
梨緒子は素直に秀平の言うことに従い、濃紺のベッドカバーの上にゆっくりと座った。
秀平は勉強の最中だったらしい。問題集とノートが開いてある。梨緒子がちゃんと座ったのを確認すると、秀平は勉強机に向かった。
「ここの問題解き終わるまで、待ってて」
帰ってからすぐに机に向かって、いつもこうして勉強に励んでいるのだろう。
梨緒子は邪魔になると分かっていたものの、問題を解いている途中の秀平に声をかけた。
「秀平くん、あのね」
「何?」
梨緒子に背を向けたまま、秀平は返事した。
問題を解きつつ、耳だけをこちらに向けている。
「お――」
「……お? お、何?」
肝心なひと言が、喉につかえて出てこない。
梨緒子は秀平の背中に向かって小さくため息をついた。
「……いや、やっぱりいい」
「何だよ、言いかけて止めるなよ」
秀平はようやく顔を上げ、椅子を回転させて梨緒子のほうを振り返った。
そして、涼しい顔して、さらりひと言。
「トイレなら階段の下だよ」
「トイレ?」
「『お』から始まる言葉で、江波が言いにくそうにしてるから、そうかなって。別に恥ずかしがらなくても」
「……もう、違うって! 幼稚園児じゃあるまいし……」
「じゃあ、なんだろ……『おなか空いた』? ああ、『送って欲しい』? いいよもちろん」
ああ。
やっぱり好き。この人が大好き。
それなのにどうして、自分は――。
「お……おめでとう」
秀平の両目が見開かれた。完全に驚いている。
梨緒子は続けた。
「今日は秀平くんの誕生日だったんだよね」
「何だ、そんなことか」
『お』から始まる言葉が何であるかようやく気づき、秀平は照れ隠しのためか、さらりと興味がなさそうに言い放った。
しかし、梨緒子の気持ちは到底収まらない。ベッドカバーをしわがつくほど握り締め、秀平と目を合わせることができずに、じっと床を見つめる。
「ホントに、私ってば最低な彼女だね。秀平くんの彼女でいる資格なんてない、本当だったら朝イチで言わなくちゃいけないのに。それに……言ってくれれば、ちゃんと分かってたら、ケーキくらいおごったのに……」
「別に、江波が側にいたからそれでいいんだ」
「欲しいものがあれば、言って?」
「え?」
「プレゼント。知らない人からもらうのは駄目でも、彼女は別でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
秀平は少し照れたように微笑んだ。
そして、じっと梨緒子の顔を見つめたまま考え込む。
「何でもいい?」
「えー……っと、あんまり高いものだと、困るけど」
「お金じゃ買えないもの――なんだけどさ」
秀平は椅子から立ち上がると自分の部屋の中を移動し、梨緒子の腰かけているベッドの横に並ぶようにして腰かけた。ベッドのスプリングがわずかに軋む。
梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。
――お金じゃ買えないって…………嘘。
こんな唐突にその時がやってくるとは、梨緒子は予想していなかった。
優作に連れられてここまでやってきて、すっかり気が緩んでいた。とにかく彼にひと言、誕生日を祝う言葉を送りたい、それだけだったのだ。
ふと冷静になると、ここは秀平の部屋。彼の領域である。
いつ優作がここまで呼びに来るか分からない。
いや、ひょっとして。
これも優作の策略だったのではないか――そんな気さえしてしまう。
「しゅ、秀平くん?」
秀平は自分の両膝に肘をつくようにして指を組み、梨緒子の顔を見上げるようにして覗き込む。
「欲しいんだ」
「え……っと、何が?」
「江波が――」
はぐらかす言葉も上手く出て来ない。
相手は本当に好きな男で、付き合っている自分の彼氏で、そして今日は彼の誕生日で、彼の要求にはできる限り応えたいわけで――。
梨緒子の緊張は最高潮に達していた。膝頭が触れ合っている彼に、心臓の鼓動が伝わってしまっているのではないかと思われるほど、全身が脈打っている。
すると。
「江波が――俺に作ってくれたはちまき。あれが欲しいんだけど」
「…………はっ、はっ、はちまき? 何でそんなもの」
自分が想像していた答えとの落差に、梨緒子は混乱した。
それと同時に、諦めと安心が入り混じったため息が、長く吐き出される。
秀平はこの状況に気づいているのかいないのか――おそらく後者であろう。
ベッドの上でここまで至近距離をとられてしまったら、その先の展開を想像するなというほうが酷である。
梨緒子は動揺を気取られぬよう、大きく呼吸を繰り返した。しかし、なかなか簡単には収まらない。
「ジンクスだからって仕方なく返したけど、本当は返したくなかったんだ、あれ」
「どうして?」
「どうしてって……初めて江波が俺にくれたものだから」
梨緒子は制服の内ポケットから水色のはちまきを取り出した。秀平に返してもらってから、彼がいたずら書きした自分の消しゴムとともに、ずっとそこに入れてある。
「これ?」
「うん。江波、持ち歩いてるんだ」
「もちろん。秀平くんが私に初めてくれたものだもん。これは……手放したくない、かも」
このはちまきは梨緒子にとってもお金では決して買えない、大切なものなのだ。
「じゃあ、半分に分け合えばいい。どう?」
「うん、それならいいよ」
秀平は机の引出しからハサミを取り出すと、梨緒子にはちまきの片方を持たせ、もう片方を自分で持ち、テープカットの要領で真ん中にハサミを入れた。
長い一本のはちまきが、短く二本になった。秀平は満足そうに、自分の分を手のひらの中に収める。
「大切にする、ずっと」
「本当にいいの? こんなもので」
いくら秀平のリクエストとはいえ、誕生日を忘れてしまった償いとしては、はちまき半分はあまりにお粗末だ。
「じゃあ、……もう一つ。お金じゃ買えないこと」
再び緊張が走る。
「江波のこと――」
秀平は真っ直ぐに梨緒子の顔を見つめている。
吸い込まれそうなほど透き通った茶色の瞳に、梨緒子は自分の顔が映るのを見た。
――今度こそ、来る……のかも。
「江波のこと………………『梨緒子』って、そう呼びたい」
梨緒子は思わず絶句した。
「よっ、よっ……!?」
呼べばいいじゃない、と言いたかったのだが、混乱して上手く舌が回らない。
一度ならず二度までも。
いらぬ緊張を強いられて、どっと疲労を覚えた。
しかし、秀平の要求はどれもこれも可愛らしいものばかりで、それが逆に梨緒子の心をぐっと掴む。
「駄目?」
不安そうに首を傾げて尋ねる秀平の憂うような表情に、梨緒子の胸は完全に撃ち抜かた。
「……駄目じゃ、ないよ。秀平くんの好きなように呼んで」
「じゃあ、今度からそうさせてもらう」
そのまま、秀平は黙った。
軽く座り直し、完全に二人の脚が触れ合う体勢をとる。
秀平のまとう空気が変わったことに、梨緒子は気づいた。
――今度こそ本当に……三度目の正直!
いままでにないほどの緊張を覚える。
今度は間違いない。
彼の想いが、彼の欲求が、触れ合う脚の温もりを通して伝わってくる。
――もう……秀平くんとなら、どうなってもいい。
梨緒子は、傍らに座る秀平の顔を見上げた。
見下ろされる秀平の眼差しは、どこまでも真っ直ぐで真摯である。
もう、お互いの姿しか見えない。ここは二人だけが存在する世界。
二人でゆっくりと呼吸を合わせる。
梨緒子は、秀平にその身を預ける覚悟を決めた。
肩を抱かれるようにしてそっと、秀平の左手が梨緒子の左肩にかかった。
その次の瞬間。
「盛り上がってるところ悪いんだけどね」
突然の第三者の声に驚き、二人が同時に振り返ると――兄の優作がドアのところから顔だけを覗かせて、若き恋人たちの初々しいやり取りを眺めていた。
秀平と梨緒子は慌ててベッドから立ち上がり、お互い反対側を向いて、不自然なほどの距離をとる。
それを見て、優作はふわりと穏やかに笑った。
「そろそろ僕からの『誕生日プレゼント』を借りていってもいいかな、『秀平クン』? これから下で授業だから」
「……いちいち聞くなよ。勝手にしろ」
十八歳になった彼の口から、諦めにも似た長いため息がもれる。実兄の策略に嵌ってしまったことが悔しいのか、秀平は背を向けたまま、「さっさと行けば」と梨緒子を冷たくあしらった。
その手には、二つに切り分けられた水色のはちまきの片方が、大切にしっかりと握られていた。