頑張るよ。

 甘く芳しき花の香りが辺りに漂っている。

 青年は絨毯の敷き詰められた階段を上がり、目的の人物がいるであろう部屋を探した。
 廊下は静まり返っている。
 人の気配はする。しかし、厳かな雰囲気だ。
 姉貴のときもこんな感じだったな――青年はちょうど一年前、ジューンブライドにこだわって結婚式を挙げた実姉のことを、ふと思い出した。
 今日の新郎がはたしてジューンブライドにこだわったのかどうかは、青年の知るところではない。

 そう。この男とは、たいして仲が良くないはず――なのだから。


 青年は大きく息を吸い込み、新郎控室と書かれたドアを勢いよく開けた。
「よっ、久しぶり」
 部屋は広くない。壁一面のドレッサーと衣装掛けの他は、部屋の中央に小さな応接セットが設置されているだけだ。
 目的の人物はその応接セットのソファに一人、まるで彫像のように微動だにせず、悠然と腰かけていた。
「そうでもないだろ。成人式のときのクラス会以来だから、二年半ぶりかな」
「お前にとっちゃ二年半は久しぶりじゃねえのかよ。そうだよ、突然札幌から駆けつけて、クラス会には五分といないですぐにあいつ連れ出して、そのまま二人で消えていったあの日以来だよ」
 青年の嫌味に機嫌を損ねたのか、新郎の衣装に身を包んだ男は白々しくため息をついたあと、ツイと顔をそむけた。
「自分の彼女をどうしようと、別に俺の勝手だろ」
 そう言いながら、自分が座っているソファの向かい側を、片手で指し示す。
 どうやら席を勧められているらしい。気難しく素直じゃないところは、昔から何も変わっていない。
 青年は肩をすくめ大きく息をつき、それに従った。
「ホント相変わらずだよな、お前って。つーか、早すぎじゃね? 大学卒業したばっかりなのにさ――あ、お前ひょっとして!」
「子供は出来てない」
 新郎は、青年の思考を先読みするようにして答えた。
 その返答の素早さに、青年は瞬きをする間もなく――新郎の続く言葉を耳にする。
「と、思う。本人にちゃんと確かめたわけじゃないから、出来てないとはハッキリ言い切れないけど」
「……お前の口からそういうこと聞くの、なんかすげー嫌」
 元彼女とはいえ、心のどこかではまだ彼女に恋している。
 もちろん、この目の前にいるいけ好かない冷血漢を、彼女がどんなに愛しているか、頭では理解できている。
 しかし、やんわりとではあるが、その関係の進み具合を聞かされてしまうと、その心中は複雑極まりない。
「じゃあ、何で?」
 センターテーブルを挟んで向かい合うグレーのモーニングに身を包んだ新郎に、青年は首を傾げながら尋ねた。
 二十二歳なら、立派な大人だ。結婚しても別に不思議ではない。
 しかし。
 二人は県下有数の進学校に在籍し、二人はもちろんその同級生の多くも大学へと進学した。
 ストレートで合格しそして大学を卒業した生徒でも、社会人一年目。
 なぜ、いまこのタイミングで。
 青年にとっても、この同級生カップルの結婚は、まさに青天の霹靂だった。
 それに対する新郎の答えは、実にあっさりとしたものだった。
「いつか必ずするんだったら――いましたっていいだろ」

 いつか必ず、結婚するのだから。
 いまでも三年後でも十年後でも、それは同じこと。

「そのつもりで付き合ってたわけ?」
「もちろん。その覚悟がなかったら、遠距離なんかとてもできないから」
「俺には真似できねーな」
「すんなりここまできたわけじゃないよ。危機は何度もあったし」
「……お前たちは昔っから、つまらないことでケンカしすぎなんだよ」
 お互い好きなくせに意地を張り、ささいなことで衝突しては大騒ぎするのがこのカップルの日常だった。この新郎に泣かされた彼女を、青年はこれまでにも何度となくなぐさめ、そして励ましてきた。
 ケンカするたびにその絆を少しずつ深め、結婚までこぎつけたのだから――相性は決して悪くないのだろうが。
「来年あたりからしばらく海外勤務になる予定だから、一緒に連れて行こうと思って。それが大きな理由かな。彼女にもちゃんと心構えをさせないといけないし」
 新郎はこの春から、大手外資系企業のエンジニアとして働いている。
 そして青年は教育学部を卒業し、地元の高校で化学の教師として教壇に立っている。
 高校時代同級生だった二人は、いまはそれぞれの道を着実に歩んでいる。
「そっちはどうなの?」
「悪いけど俺、女子高生に大人気でさ。毎日楽しくて楽しくてしょうがねえよ、マジで」
 興味があるのかないのか、新郎は涼しい顔をしたままソファの背もたれに身体を預け、青年のお喋りに付き合っている。
「へえ、楽しいんだ」
「ちょー楽しい」
「……手、出すなよ」
「馬鹿野郎。見損なうんじゃねーよ。あー俺さ、今日の二次会メッチャ楽しみなんだけど。新人ナース仲間がたくさん来るんだろ?」
 新郎は深々とため息をついた。もう、何を言っても無駄だと感じたらしい。
 見知らぬ異性と話すことが楽しみだという青年の気持ちは、新郎にはまったく理解できないようだ。
 根本的に、二人は人種が違うのである。
「主役のくせして、なんつー辛気くさい顔してんだよ」
「……主役は俺じゃなくて花嫁なんじゃないの」
 新郎は面倒臭そうに言った。
 目立つことが苦手なのだろう、「主役」という言葉に途端にうんざりとしたような顔をする。
「まあ、おまえはどう見ても『ブライダルフェアの新郎役のバイト』って感じだもんな。ヘタに見てくれがいいから、全然現実味がないっていうか」
「……褒められてる気がしないんだけど」
「褒めてねーよ。俺がお前のこと褒めるわけがないだろ。だいたいだなー、何で俺がお前の友人スピーチしなくちゃいけないんだよ。おかしいだろ、どう考えても。お前とは正直、いい思い出ひとつもないしよ」
 長い沈黙が二人を包んだ。
 もう過去のこと。青年は根に持っているわけではない。大学時代に付き合った女性も他にちゃんといる。
 彼女を取り合った日々は、すでに色褪せているのだから――。
「安藤しか、思いつかなかった」
 新郎が、青年の名を口にした。
「ハッ、お前は友達いなさすぎだよ」
「嫌なら止めてもいいよ。友人のスピーチとか、別に要らないから。新郎側と新婦側で数を合わせたほうがいいって言うから――」
「そういうこと言うから、お前嫌なんだよ。素直に頼むって言えばいいだけだろ」
 彼女がこんな男のどこに惚れたのか、青年は理解に苦しむ。
 とにかく絡みづらいのだ。
 冗談と本気の境が曖昧で、人との距離感が上手くつかめない男。
 それなのに――。

 いや、それだから、なのかもしれない。
 自分以上に、この男にとって『彼女』は特別なのだ。
 青年は憑き物が落ちたように、天井めがけて短くため息をついた。


 やがて式場スタッフが控室を訪れ、もうじき挙式が始まりますよ――と静かに告げた。
 いよいよだ。
 青年は、それじゃ式でまた、と言い残し、ソファからゆっくりと立ち上がる。
 すると。
「本当に、安藤だけだったんだ」
 控室を出て行こうとする青年の背中に、新郎は声をかけた。
 振り返ると、繊細な色の艶やかな瞳が、じっと青年を捉えている。
「昔から、羨ましかったよ。安藤のこと」
 その眼差しはゾクリとするほど冷たく美しく、そしてどこまでも透き通っている。
 こんな表情を、彼女はいつも見ているのだろうか。
「永瀬、今度こそ泣かすんじゃねーぞ。ちゃんと頑張れよ?」
「頑張るよ、……安藤に言われなくたって」
 青年が新郎の背中を力任せに叩く。
 すると。
 新郎は少し照れながら、心から幸せそうに静かに微笑んでみせた。



(了)
これで本編完結です。 読んでくださって、本当にありがとうございました^^