永遠に敵わない
梨緒子は秀平からのメール通り、いつか二人で訪れたことのあるカフェにやってきた。
いとこが経営している落ち着いた雰囲気の店舗である。
しかし。ドアには準備中の札が下げられたままだった。
梨緒子は携帯のメールを確認した。
――今日の三時に、ここ……でいいんだよね? 三時って、もしかして朝!?
その心配はすぐに解消された。
秀平のイトコで、この店の店主でひかるという名の女性が、ドアの中から出てきたからである。
「梨緒子ちゃん、待ってたのよー。さあ、中へどうぞ」
「あの……お店、お休みだったんですか?」
「今日は特別に貸切。シュウちゃん、もう待ってるよ」
秀平はジーンズに白いシャツというラフな私服姿だ。
テーブル席の上に、大きめのボストンバッグが載っている。その横には、この季節には似つかわしくない厚めのコートが添えられている。
それらが意味するものは、梨緒子が思いつくのはたった一つ。
厚手のコートが必要な場所にこれから行く、ということに他ならない。
――う、嘘。今日これから?
梨緒子はその状況に、完全に別れ話を切り出されるのだと感じ取った。
「カウンターに座ろうか。そのほうが話しやすい」
梨緒子は秀平に促されるまま、カウンター席に隣り合うようにして座った。カウンター用の椅子は足が高く、床にやっとつま先がつく程度だ。狭い。何もしなくても二人の腕や膝がわずかに触れる微妙な距離感である。
ひかるはカウンターの中で飲み物の用意をしている。
「梨緒子ちゃん、なににする? カフェオレでいいのかな?」
「え? あ、はい」
思っていたものを先に言い当てられ、梨緒子は驚き、わずかに途惑った。
その様子を見て、ひかるは楽しそうに笑っている。
「何で分かったのかって? シュウちゃんが梨緒子ちゃんを初めてここへ連れて来たとき、そう注文してたから。きっと梨緒子ちゃんはカフェオレが好きなんだろうな、って」
「……好きだって、言った事あったかな?」
梨緒子は隣に座る秀平に尋ねた。
「初めて梨緒子と食事したとき、カフェオレ飲んでた。あの時はアイスだった。そしてガムシロップは入れてなかった」
「何でそこまで覚えてるの? 記憶力良すぎ」
「そりゃあ、好きな子のことは何だって覚えちゃうよねー?」
ひかるは手際よく梨緒子に温かなカフェオレを、秀平には紅茶を給仕し、そそくさとエプロンを外した。
「あとは二人でごゆっくり。私は奥に引っ込んでるから」
カフェオレの湯気がゆらりと立ち上る。
ほの暗い照明。
「はい、まずはこれ――」
秀平は何の変哲もない小さな包みを取り出し、それを梨緒子の前に滑らせるようにして差し出した。
「ホワイトデーのお返し。だいぶ早いけど」
おそらく中身はクッキーか何かだろう。
当日に渡すことができないから、ということらしい。
重苦しい雰囲気があたりにたちこめている。
秀平はおもむろに立ち上がり、カウンターの中へと手を伸ばした。
そして、皿に載せられているブラウニーのような焼き菓子を、梨緒子の前に差し出した。
「せっかくだから、これ」
お茶と一緒に、ということらしい。カウンターの中にあったということは、ひかるが出し忘れていったのだろう。
以前ここで食べたオススメのデザートプレートのような華やかな飾りつけは一切ない。そもそも今日は臨時休業しているのだから、いつものメニューというわけにはいかないのだろう。
しかしこの一見素朴なお菓子が、逆にいまの雰囲気に合っていてちょうどいい――梨緒子はそんなことを思った。
「秀平くんのは?」
「俺はいらない」
もう、一緒に楽しくお菓子を食べようという気もないのだろう。
これでは、とても食欲など湧いてくるはずもない。
梨緒子はお菓子に手をつけず、じっと秀平の隣で身を硬くしていた。
長い沈黙が二人を包む。
「俺、行くから」
「今日これから? そんな、いきなり……」
「いろいろ一人でやらなくちゃいけないから、早めに行かないと。しばらくは美瑛の親戚のところにいて、住むところ決めたり、必要なものそろえたりしようと思ってる」
確かに、秀平のように北海道に親戚がいるのなら、そこを拠点として準備を始めるのが手っ取り早いのだろう。
「どうもありがとう。これまで俺の側にいてくれたこと、本当に感謝してる」
いや。
もう聞きたくない。
「だから梨緒子――」
目眩がする。
少しでも受ける衝撃を和らげようと、梨緒子は唇を力を入れ、息を止めた。
すると、突然。
触れていた腕に重みを感じたかと思うと、梨緒子の身体の平衡感覚が失われた。
梨緒子はその感覚に慌てふためき、驚きのあまりのけぞり、カウンター用の背もたれの低い椅子から落ちそうになる。
それをすかさず抱き止めたのは、梨緒子に重みをかけた張本人だった。
秀平は片腕でしっかりと梨緒子の背中を支えたまま、その強ばった梨緒子の唇に、そっと唇を重ねた。
ほんの一瞬の出来事だった。
唇を離してすぐ、秀平はひと言「ごめん」と呟くように言った。
梨緒子は動揺を抑え切れず、不自然な体勢で抱き合ったままの状態で、かすれ声を必死に絞り出す。
「ご……めんって、なに……が」
「いまからする――って、言うの忘れたから」
その言葉の意味は、梨緒子と秀平の二人にしか分からない。
残暑厳しい夏の朝。地学室での秀平とのやりとりを、梨緒子は昨日のことのようにハッキリと思い出す。
こんな状況で、そういうことをさらりと言える秀平に、梨緒子はどうしようもなく心をかき乱されてしまう。
それでもなんとか体勢を立て直そうと、梨緒子は左腕を後ろに回し、カウンター椅子の背に添え、右手を秀平の膝にかけた。
その手の上に、秀平のもう片方の手が重ねられる。
そのまま、秀平は梨緒子の身体を徐々に引き寄せていき、重ね合わせた手をしっかりと握り締めながら、今度はゆっくりと優しく口付けた。
長い長い、永遠にも似た無限の空間に梨緒子は身を委ねた。
十回の「愛してる」という言葉より、たった一度のキスによって、ありとあらゆる優しく愛しい感情が伝わっていくのだということを、梨緒子は知った。
おそらくそれは、唇を重ね合わせている彼氏も同じように感じているはず――。
名残惜しそうに、秀平はゆっくりと唇を離した。
驚きと動揺で小刻みに震える梨緒子を、なおもきつく抱き締める。
「……別れるのに、どうして……どうして、こんなことできるの?」
「俺、いつそんなこと言った?」
震えが止まらない。
梨緒子は完全に混乱状態にあった。
「……だってさっき、『これまでありがとう』って」
「じゃあ続き。これから離れるけど、どうぞよろしく」
吐息を感じる至近距離で。
理解不能な言葉が、彼の口から紡ぎ出される。
いったい彼は何を言っているのだろう。
梨緒子は乱れる呼吸を整えながら、必死に尋ねた。
「二次試験……終わってから、ずっと……一緒に帰ろうともしなかったし」
「いろいろとやることがあったからで、別に避けてたわけじゃない」
淡々とした彼の答えが、梨緒子の耳に届く。
「卒業式のとき、私のリボンも別に要らないって……」
「『梨緒子がいれば』リボンは別に要らないってことだけど」
梨緒子の中の何かが、音もなく崩れていく。
いったい何を信じたらいいのか、分からない。
「それに……だって」
「まだあるの? 何?」
秀平は抱き締めていた腕を緩め、うんざりとした表情でため息をついた。
「だって……一緒にいるようになってから、その……こういうことをね、一度もされたことなかったし」
「こういうこと?」
秀平は切れ長の目を何度も瞬かせた。
いまのいままで自分たちがしていたことであるのに、それを口にするのがもの凄く恥ずかしく思えてしまい、梨緒子は思わず赤面した。
しかし。
半年間付き合ってきて、これが初めてのキスだったのだ。付き合う前に一度だけしたことがあるものの――このような接触への耐性は、ほぼゼロに等しい。
「そんな拗ねるくらいなら、言ってくれればよかったのに」
その秀平の言葉に、梨緒子はやるせない気持ちで一杯になった。
「どうして秀平くんってそうなの? なんて言えば良かったの? 離れるのが分かってるのに……別れるのが分ってるのに」
「だから、どうして別れるの?」
「どうしてって……四年も離れちゃうんだよ。もしかしたらもっとかもしれない」
「たった四年だろ」
「たった?」
見えない。彼が何を考えているのか。
自分はどうしたいのか。彼にどうして欲しいのか。
何一つ、見えてこない。
「それ、食べないの?」
秀平は、梨緒子の前に差し出したブラウニーもどきの焼き菓子に視線をやった。
「俺が作ったんだけど」
「……秀平くんが?」
「試験終わってから、ここへ来て作るの練習してた。だから一緒に帰れなかった」
意味がまったく分からない。
「……お菓子作りの趣味なんかあったの?」
「ないよ。初めて作った」
「ふうん」
「一日早いけどそれ、誕生日ケーキだから」
梨緒子は自分の耳を疑った。
もちろんこの目の前に置かれているものは、バースデーケーキと呼ぶには相応しくないが――しかし、彼がそのためにわざわざ自分で作ったとなると話は別だ。
それ以前に。
梨緒子はもう、自分の誕生日のことなどすっかり忘れていたのである。
「秀平くん、覚えてたの?」
「付き合ってる相手の誕生日は当然覚えてるもんだろ、普通は」
秀平は『普通は』という単語に力を込めて言い切った。
普通なら覚えているはずの付き合っている相手の誕生日を、梨緒子は忘れてしまったのだから、立場が弱い。
「やっぱり根に持ってる……もう」
秀平は楽しそうに微笑んだ。
梨緒子は焼き菓子の一つをとり、怖々と噛り付いた。
「味はどう?」
「…………普通」
「兄貴とおんなじこと言ってる。ひかるさんがやってるの、みようみまねだったし」
梨緒子の脳裏に、優作の言葉が鮮明に蘇ってきた。
【お陰で最近太っちゃってさ――まさに医者の不養生だよ】
――そっか。優作先生、試食させられてたんだ。
その理由を優作がハッキリ言わなかったのは、自分へのサプライズだったのだ、と梨緒子はようやく気づいた。
「そのうち――美味くなるかな」
「そのうち?」
「日本人の平均寿命って、何歳だと思う?」
「……え?」
秀平は突然奇妙なことを言い出した。
何につけても遠回しな態度の彼のことである。言いたいことがあるのだろうが、それが真っ直ぐに伝わってこない。
秀平は続けた。
「いまだと、平均で八十くらいかな」
「……たぶん。それがどうかした?」
秀平は冷めかけた紅茶のカップに手を付け、静かに半分ほど飲むと、一息ついた。
「俺たちはいま十八だから、あと六十年くらい。それだけ誕生日があれば、いつかは上達するだろ」
梨緒子はかじりかけの焼き菓子を皿の上に置いた。
つまり、秀平の言いたいことは――。
「……毎年、作る気?」
「駄目?」
「駄目じゃない、けど」
「『四年も』じゃない、『たった四年』だよ。あと六十年のうちの、たった四年」
静まり返ったカフェの店内に、秀平のつやのある低い声が淡々と響いた。
「梨緒子がこれから先ずっと、俺の側にいてくれるなら――の、話だけど」
梨緒子は思わず目を瞠った。
秀平はすぐ側で、驚きを隠せず唖然としたままの梨緒子を、じっと見つめている。
――これからの長い人生のうちの、たった四年。
同じ四年という時間が、まったく別のものへと変貌を遂げていく。
そう。
先行き不透明な未来が、突如、明確なビジョンを持って、梨緒子の前に現れたのである。
「……終わりにしようって、そう言われるんだと思ってた。秀平くんはもう、私のこと……なんとも思ってないんだって」
「俺はそんないい加減な気持ちで、あのとき梨緒子に『側にいて欲しい』って言ったわけじゃないよ」
「あのとき?」
「うん、あのとき。俺、きっとあの一日で、一生分の勇気使い果たした」
おそらくそれは、付き合うきっかけとなった夏休み明けの出来事のことだろう。
梨緒子は遠い日の記憶を懐かしく思い出す。
「職員室へのり込んだり、安藤とやりあったり、波多野に絡まれて自分の気持ちを言わされたり、梨緒子には『俺の彼女がいい』なんて面食らうようなこと言われたり――」
「そ……そこまで、あからさまに言ったつもりは……なかったんだけど」
確かにあのときの秀平は、彼の周りだけ時間が止まってしまったかのように固まっていた。面食らった、という本人の言葉に偽りはない。
「それよりなにより、『側にいて欲しい』ってメール送るのに、一番勇気がいった。で、見事に使い果たした」
面と向かって言うことができなくて。
お互いの姿がぎりぎり確認できるほどの距離で、ようやく伝えられた、たったひと言のメッセージ。
【俺の側にいて】
「だからもう、梨緒子以外とは付き合えないし、付き合わないし、そもそも付き合う気もないし。そういうことだから。ちゃんと分かった?」
これまでも特別な存在ではあったのだが――キスの温もりでその愛を直に感じ取り、驚くほどにお互いの存在を受け入れられるようになっていることに気づく。
【ずっと、俺の側にいて】
「ああ、もう時間だ。俺、行くから」
秀平はカウンターの席を立ち、近くのテーブル席に置いていたボストンバッグとコートに手をかける。
「私、見送りについていく!」
「来なくていいよ」
「でも!」
目と目が合う。カフェの店内に静寂の時が訪れる。
かけがえのない、大切な人。
「これが永久の別れじゃないし――」
そこで秀平は言葉を詰まらせた。
梨緒子は立ち尽くす秀平の腕にそっと触れた。
すると。
秀平の両目から涙があふれ出した。
声もなく、微かに震える頬を、光が静かに伝っていく。
梨緒子は急いでハンカチを取り出し、秀平の頬に当てた。
「泣いちゃ駄目だよ、男の子なんだから。ね?」
「北大に行けるのは、梨緒子のお陰だ。梨緒子が側にいてくれて、ちゃんと俺の背中を押してくれたから――」
彼が自分のために流す涙に、梨緒子は例えようもない愛おしさを覚えた。
「俺、ちゃんと勉強するから。ちゃんと勉強して、梨緒子のこと一生幸せにできるような人間になるから。だから……」
「秀平くん……」
「たった、四年なんだから――」
秀平のことを安心させなくてはいけないのだ――彼女なら。
「ちゃんとね、待ってるよ」
梨緒子はあふれ続ける秀平の涙を、何度も何度も優しく拭う。
そして花開くようなありったけの笑顔で向き合い、努めて明るい声を出した。
「秀平くんが幸せにしてくれるの、いまからとっても楽しみだなー」
秀平は言葉もなく何度も頷くと、梨緒子を力いっぱいに抱きすくめた。
もう、何もいらない。
いまはただ、彼の温もりを肌に刻み付けておきたい。
「ゴールデンウィークには一度戻ってくるから」
「うん」
彼の声が耳元で響く。
「夏になったらさ、札幌まで会いに来て」
「うん」
彼の肩にひたいを預け、その優しい言葉に耳を傾ける。
「そして、また一緒に天の川を見に行こう」
「うん」
「俺たちは彦星と織姫なんかじゃないから。天の川は一年中――」
「地球上のどこにいても見える、でしょ?」
「地球上のどこにいても見えるんだから」
抱き合ったまま、秀平と梨緒子の言葉が重なり合った。
二人は身体を離し、お互いの顔を見つめ、そして照れたように笑った。
「そうだよ。前より少し賢くなった。俺のお陰だな」
「もう……きっと秀平くんには、永遠に敵わない」
敵わないからこそ――憧れ、恋焦がれ、愛し続けられるのだ。
頑固で、独占欲が強くて、嫉妬深くて、とにかく遠回しで、素直じゃなくて、一筋縄じゃいかない、この目の前の男に。
梨緒子はどこまでもついて行こうと、このとき覚悟を決めた。
いとこが経営している落ち着いた雰囲気の店舗である。
しかし。ドアには準備中の札が下げられたままだった。
梨緒子は携帯のメールを確認した。
――今日の三時に、ここ……でいいんだよね? 三時って、もしかして朝!?
その心配はすぐに解消された。
秀平のイトコで、この店の店主でひかるという名の女性が、ドアの中から出てきたからである。
「梨緒子ちゃん、待ってたのよー。さあ、中へどうぞ」
「あの……お店、お休みだったんですか?」
「今日は特別に貸切。シュウちゃん、もう待ってるよ」
秀平はジーンズに白いシャツというラフな私服姿だ。
テーブル席の上に、大きめのボストンバッグが載っている。その横には、この季節には似つかわしくない厚めのコートが添えられている。
それらが意味するものは、梨緒子が思いつくのはたった一つ。
厚手のコートが必要な場所にこれから行く、ということに他ならない。
――う、嘘。今日これから?
梨緒子はその状況に、完全に別れ話を切り出されるのだと感じ取った。
「カウンターに座ろうか。そのほうが話しやすい」
梨緒子は秀平に促されるまま、カウンター席に隣り合うようにして座った。カウンター用の椅子は足が高く、床にやっとつま先がつく程度だ。狭い。何もしなくても二人の腕や膝がわずかに触れる微妙な距離感である。
ひかるはカウンターの中で飲み物の用意をしている。
「梨緒子ちゃん、なににする? カフェオレでいいのかな?」
「え? あ、はい」
思っていたものを先に言い当てられ、梨緒子は驚き、わずかに途惑った。
その様子を見て、ひかるは楽しそうに笑っている。
「何で分かったのかって? シュウちゃんが梨緒子ちゃんを初めてここへ連れて来たとき、そう注文してたから。きっと梨緒子ちゃんはカフェオレが好きなんだろうな、って」
「……好きだって、言った事あったかな?」
梨緒子は隣に座る秀平に尋ねた。
「初めて梨緒子と食事したとき、カフェオレ飲んでた。あの時はアイスだった。そしてガムシロップは入れてなかった」
「何でそこまで覚えてるの? 記憶力良すぎ」
「そりゃあ、好きな子のことは何だって覚えちゃうよねー?」
ひかるは手際よく梨緒子に温かなカフェオレを、秀平には紅茶を給仕し、そそくさとエプロンを外した。
「あとは二人でごゆっくり。私は奥に引っ込んでるから」
カフェオレの湯気がゆらりと立ち上る。
ほの暗い照明。
「はい、まずはこれ――」
秀平は何の変哲もない小さな包みを取り出し、それを梨緒子の前に滑らせるようにして差し出した。
「ホワイトデーのお返し。だいぶ早いけど」
おそらく中身はクッキーか何かだろう。
当日に渡すことができないから、ということらしい。
重苦しい雰囲気があたりにたちこめている。
秀平はおもむろに立ち上がり、カウンターの中へと手を伸ばした。
そして、皿に載せられているブラウニーのような焼き菓子を、梨緒子の前に差し出した。
「せっかくだから、これ」
お茶と一緒に、ということらしい。カウンターの中にあったということは、ひかるが出し忘れていったのだろう。
以前ここで食べたオススメのデザートプレートのような華やかな飾りつけは一切ない。そもそも今日は臨時休業しているのだから、いつものメニューというわけにはいかないのだろう。
しかしこの一見素朴なお菓子が、逆にいまの雰囲気に合っていてちょうどいい――梨緒子はそんなことを思った。
「秀平くんのは?」
「俺はいらない」
もう、一緒に楽しくお菓子を食べようという気もないのだろう。
これでは、とても食欲など湧いてくるはずもない。
梨緒子はお菓子に手をつけず、じっと秀平の隣で身を硬くしていた。
長い沈黙が二人を包む。
「俺、行くから」
「今日これから? そんな、いきなり……」
「いろいろ一人でやらなくちゃいけないから、早めに行かないと。しばらくは美瑛の親戚のところにいて、住むところ決めたり、必要なものそろえたりしようと思ってる」
確かに、秀平のように北海道に親戚がいるのなら、そこを拠点として準備を始めるのが手っ取り早いのだろう。
「どうもありがとう。これまで俺の側にいてくれたこと、本当に感謝してる」
いや。
もう聞きたくない。
「だから梨緒子――」
目眩がする。
少しでも受ける衝撃を和らげようと、梨緒子は唇を力を入れ、息を止めた。
すると、突然。
触れていた腕に重みを感じたかと思うと、梨緒子の身体の平衡感覚が失われた。
梨緒子はその感覚に慌てふためき、驚きのあまりのけぞり、カウンター用の背もたれの低い椅子から落ちそうになる。
それをすかさず抱き止めたのは、梨緒子に重みをかけた張本人だった。
秀平は片腕でしっかりと梨緒子の背中を支えたまま、その強ばった梨緒子の唇に、そっと唇を重ねた。
ほんの一瞬の出来事だった。
唇を離してすぐ、秀平はひと言「ごめん」と呟くように言った。
梨緒子は動揺を抑え切れず、不自然な体勢で抱き合ったままの状態で、かすれ声を必死に絞り出す。
「ご……めんって、なに……が」
「いまからする――って、言うの忘れたから」
その言葉の意味は、梨緒子と秀平の二人にしか分からない。
残暑厳しい夏の朝。地学室での秀平とのやりとりを、梨緒子は昨日のことのようにハッキリと思い出す。
こんな状況で、そういうことをさらりと言える秀平に、梨緒子はどうしようもなく心をかき乱されてしまう。
それでもなんとか体勢を立て直そうと、梨緒子は左腕を後ろに回し、カウンター椅子の背に添え、右手を秀平の膝にかけた。
その手の上に、秀平のもう片方の手が重ねられる。
そのまま、秀平は梨緒子の身体を徐々に引き寄せていき、重ね合わせた手をしっかりと握り締めながら、今度はゆっくりと優しく口付けた。
長い長い、永遠にも似た無限の空間に梨緒子は身を委ねた。
十回の「愛してる」という言葉より、たった一度のキスによって、ありとあらゆる優しく愛しい感情が伝わっていくのだということを、梨緒子は知った。
おそらくそれは、唇を重ね合わせている彼氏も同じように感じているはず――。
名残惜しそうに、秀平はゆっくりと唇を離した。
驚きと動揺で小刻みに震える梨緒子を、なおもきつく抱き締める。
「……別れるのに、どうして……どうして、こんなことできるの?」
「俺、いつそんなこと言った?」
震えが止まらない。
梨緒子は完全に混乱状態にあった。
「……だってさっき、『これまでありがとう』って」
「じゃあ続き。これから離れるけど、どうぞよろしく」
吐息を感じる至近距離で。
理解不能な言葉が、彼の口から紡ぎ出される。
いったい彼は何を言っているのだろう。
梨緒子は乱れる呼吸を整えながら、必死に尋ねた。
「二次試験……終わってから、ずっと……一緒に帰ろうともしなかったし」
「いろいろとやることがあったからで、別に避けてたわけじゃない」
淡々とした彼の答えが、梨緒子の耳に届く。
「卒業式のとき、私のリボンも別に要らないって……」
「『梨緒子がいれば』リボンは別に要らないってことだけど」
梨緒子の中の何かが、音もなく崩れていく。
いったい何を信じたらいいのか、分からない。
「それに……だって」
「まだあるの? 何?」
秀平は抱き締めていた腕を緩め、うんざりとした表情でため息をついた。
「だって……一緒にいるようになってから、その……こういうことをね、一度もされたことなかったし」
「こういうこと?」
秀平は切れ長の目を何度も瞬かせた。
いまのいままで自分たちがしていたことであるのに、それを口にするのがもの凄く恥ずかしく思えてしまい、梨緒子は思わず赤面した。
しかし。
半年間付き合ってきて、これが初めてのキスだったのだ。付き合う前に一度だけしたことがあるものの――このような接触への耐性は、ほぼゼロに等しい。
「そんな拗ねるくらいなら、言ってくれればよかったのに」
その秀平の言葉に、梨緒子はやるせない気持ちで一杯になった。
「どうして秀平くんってそうなの? なんて言えば良かったの? 離れるのが分かってるのに……別れるのが分ってるのに」
「だから、どうして別れるの?」
「どうしてって……四年も離れちゃうんだよ。もしかしたらもっとかもしれない」
「たった四年だろ」
「たった?」
見えない。彼が何を考えているのか。
自分はどうしたいのか。彼にどうして欲しいのか。
何一つ、見えてこない。
「それ、食べないの?」
秀平は、梨緒子の前に差し出したブラウニーもどきの焼き菓子に視線をやった。
「俺が作ったんだけど」
「……秀平くんが?」
「試験終わってから、ここへ来て作るの練習してた。だから一緒に帰れなかった」
意味がまったく分からない。
「……お菓子作りの趣味なんかあったの?」
「ないよ。初めて作った」
「ふうん」
「一日早いけどそれ、誕生日ケーキだから」
梨緒子は自分の耳を疑った。
もちろんこの目の前に置かれているものは、バースデーケーキと呼ぶには相応しくないが――しかし、彼がそのためにわざわざ自分で作ったとなると話は別だ。
それ以前に。
梨緒子はもう、自分の誕生日のことなどすっかり忘れていたのである。
「秀平くん、覚えてたの?」
「付き合ってる相手の誕生日は当然覚えてるもんだろ、普通は」
秀平は『普通は』という単語に力を込めて言い切った。
普通なら覚えているはずの付き合っている相手の誕生日を、梨緒子は忘れてしまったのだから、立場が弱い。
「やっぱり根に持ってる……もう」
秀平は楽しそうに微笑んだ。
梨緒子は焼き菓子の一つをとり、怖々と噛り付いた。
「味はどう?」
「…………普通」
「兄貴とおんなじこと言ってる。ひかるさんがやってるの、みようみまねだったし」
梨緒子の脳裏に、優作の言葉が鮮明に蘇ってきた。
【お陰で最近太っちゃってさ――まさに医者の不養生だよ】
――そっか。優作先生、試食させられてたんだ。
その理由を優作がハッキリ言わなかったのは、自分へのサプライズだったのだ、と梨緒子はようやく気づいた。
「そのうち――美味くなるかな」
「そのうち?」
「日本人の平均寿命って、何歳だと思う?」
「……え?」
秀平は突然奇妙なことを言い出した。
何につけても遠回しな態度の彼のことである。言いたいことがあるのだろうが、それが真っ直ぐに伝わってこない。
秀平は続けた。
「いまだと、平均で八十くらいかな」
「……たぶん。それがどうかした?」
秀平は冷めかけた紅茶のカップに手を付け、静かに半分ほど飲むと、一息ついた。
「俺たちはいま十八だから、あと六十年くらい。それだけ誕生日があれば、いつかは上達するだろ」
梨緒子はかじりかけの焼き菓子を皿の上に置いた。
つまり、秀平の言いたいことは――。
「……毎年、作る気?」
「駄目?」
「駄目じゃない、けど」
「『四年も』じゃない、『たった四年』だよ。あと六十年のうちの、たった四年」
静まり返ったカフェの店内に、秀平のつやのある低い声が淡々と響いた。
「梨緒子がこれから先ずっと、俺の側にいてくれるなら――の、話だけど」
梨緒子は思わず目を瞠った。
秀平はすぐ側で、驚きを隠せず唖然としたままの梨緒子を、じっと見つめている。
――これからの長い人生のうちの、たった四年。
同じ四年という時間が、まったく別のものへと変貌を遂げていく。
そう。
先行き不透明な未来が、突如、明確なビジョンを持って、梨緒子の前に現れたのである。
「……終わりにしようって、そう言われるんだと思ってた。秀平くんはもう、私のこと……なんとも思ってないんだって」
「俺はそんないい加減な気持ちで、あのとき梨緒子に『側にいて欲しい』って言ったわけじゃないよ」
「あのとき?」
「うん、あのとき。俺、きっとあの一日で、一生分の勇気使い果たした」
おそらくそれは、付き合うきっかけとなった夏休み明けの出来事のことだろう。
梨緒子は遠い日の記憶を懐かしく思い出す。
「職員室へのり込んだり、安藤とやりあったり、波多野に絡まれて自分の気持ちを言わされたり、梨緒子には『俺の彼女がいい』なんて面食らうようなこと言われたり――」
「そ……そこまで、あからさまに言ったつもりは……なかったんだけど」
確かにあのときの秀平は、彼の周りだけ時間が止まってしまったかのように固まっていた。面食らった、という本人の言葉に偽りはない。
「それよりなにより、『側にいて欲しい』ってメール送るのに、一番勇気がいった。で、見事に使い果たした」
面と向かって言うことができなくて。
お互いの姿がぎりぎり確認できるほどの距離で、ようやく伝えられた、たったひと言のメッセージ。
【俺の側にいて】
「だからもう、梨緒子以外とは付き合えないし、付き合わないし、そもそも付き合う気もないし。そういうことだから。ちゃんと分かった?」
これまでも特別な存在ではあったのだが――キスの温もりでその愛を直に感じ取り、驚くほどにお互いの存在を受け入れられるようになっていることに気づく。
【ずっと、俺の側にいて】
「ああ、もう時間だ。俺、行くから」
秀平はカウンターの席を立ち、近くのテーブル席に置いていたボストンバッグとコートに手をかける。
「私、見送りについていく!」
「来なくていいよ」
「でも!」
目と目が合う。カフェの店内に静寂の時が訪れる。
かけがえのない、大切な人。
「これが永久の別れじゃないし――」
そこで秀平は言葉を詰まらせた。
梨緒子は立ち尽くす秀平の腕にそっと触れた。
すると。
秀平の両目から涙があふれ出した。
声もなく、微かに震える頬を、光が静かに伝っていく。
梨緒子は急いでハンカチを取り出し、秀平の頬に当てた。
「泣いちゃ駄目だよ、男の子なんだから。ね?」
「北大に行けるのは、梨緒子のお陰だ。梨緒子が側にいてくれて、ちゃんと俺の背中を押してくれたから――」
彼が自分のために流す涙に、梨緒子は例えようもない愛おしさを覚えた。
「俺、ちゃんと勉強するから。ちゃんと勉強して、梨緒子のこと一生幸せにできるような人間になるから。だから……」
「秀平くん……」
「たった、四年なんだから――」
秀平のことを安心させなくてはいけないのだ――彼女なら。
「ちゃんとね、待ってるよ」
梨緒子はあふれ続ける秀平の涙を、何度も何度も優しく拭う。
そして花開くようなありったけの笑顔で向き合い、努めて明るい声を出した。
「秀平くんが幸せにしてくれるの、いまからとっても楽しみだなー」
秀平は言葉もなく何度も頷くと、梨緒子を力いっぱいに抱きすくめた。
もう、何もいらない。
いまはただ、彼の温もりを肌に刻み付けておきたい。
「ゴールデンウィークには一度戻ってくるから」
「うん」
彼の声が耳元で響く。
「夏になったらさ、札幌まで会いに来て」
「うん」
彼の肩にひたいを預け、その優しい言葉に耳を傾ける。
「そして、また一緒に天の川を見に行こう」
「うん」
「俺たちは彦星と織姫なんかじゃないから。天の川は一年中――」
「地球上のどこにいても見える、でしょ?」
「地球上のどこにいても見えるんだから」
抱き合ったまま、秀平と梨緒子の言葉が重なり合った。
二人は身体を離し、お互いの顔を見つめ、そして照れたように笑った。
「そうだよ。前より少し賢くなった。俺のお陰だな」
「もう……きっと秀平くんには、永遠に敵わない」
敵わないからこそ――憧れ、恋焦がれ、愛し続けられるのだ。
頑固で、独占欲が強くて、嫉妬深くて、とにかく遠回しで、素直じゃなくて、一筋縄じゃいかない、この目の前の男に。
梨緒子はどこまでもついて行こうと、このとき覚悟を決めた。