Lesson 1  恋人修業のお時間 プロローグ

 風薫る五月の昼下がり――。

 ゴールデンウィークを過ぎると、北海道も一気に春爛漫の風情へと衣替えをする。
 葉桜になりかけの大きな樹を通りすがりに歩きながら眺め、成沢圭太はひとり学食に出向いた。

 中に入ると。
 圭太は、見知った少年の姿を見つけた。
 この春同じ学科に入った、永瀬秀平という男である。
 『永瀬』『成沢』と、学籍番号が続いているというだけの縁で、圭太は永瀬秀平と何度か話をしたことがある。
 しかし、この男はどことなく物静かで、他人を寄せ付けないオーラの持ち主だった。

 今は午後二時過ぎ。おそらく午後イチに授業を入れていないのであろう。
 圭太は手早く定食を注文すると、トレイを携えて、何となく永瀬秀平の席へと向かった。

 秀平はすでに食べ終え、難しい顔をして携帯を見つめている。
 圭太は回りこむようにして、背後から秀平に近づいた。
 メールでも打っているなら邪魔はしないが――圭太が何気なく遠目で画面を覗くと、秀平はメールを打っているわけでもサイトを閲覧しているわけでもなさそうだった。
 待ち受けに設定されているであろう画像を、ただ物憂げに見つめているだけである。
「それ、永瀬の彼女?」
 秀平は背後からの問いかけに驚いたのか、すぐに携帯を閉じた。
「いいじゃん、隠さなくても。見せてよ」
「断る」
「何で」
「見せたくない」
 いつもこの調子だ。長い会話が成り立たない。
 あまり社交的な性格ではないのだろう――それが、圭太をはじめとする同じ学科の仲間の評価だった。
 ただこの永瀬秀平という男は、容姿端麗という言葉がまさにふさわしく、それが近寄りがたいオーラを上塗りさせているようだった。
 そのため、女子学生はこぞって、いつもこの謎めいた男の噂話に興じている。自分のことを多く語らないことが、どこか神秘的な魅力につながっているらしい。
 圭太も、そんな謎多き男・永瀬秀平の携帯の待ち受け画像には、とてつもなく興味を引かれていた。
 ここはひとつ、永瀬秀平という男のプライベートな領域に、一歩足を踏み込んでみよう――圭太は秀平の隣のイスに腰を下ろすと、持ってきた定食のトレイを脇に押しやり、勇気を出してさらに尋ねた。
「誰にも言わないって。その制服って、看護師なの? 年上の女?」
「……」
 返事をしない。
 はっきりと見えてはいなかったのだが、おそらく職業は当たりらしい。
 しかしここまで頑なに拒まれてしまうと、勘繰らずにはいられない。
 圭太は諦めず、尚も永瀬秀平に食いついた。
「ひょっとして、訳あり?」
「……なんだよ、訳ありって」
「だから、人妻に片想いしてるとか」
「人妻なんかに見えないだろ」
「チラッとしか見えてないから分からない。確かめるから、見せて」
「見世物じゃない」
 そう淡々と告げると、秀平はそそくさと携帯をカバンのサイドポケットへとしまいこむ。
 いやはや、なんとも。
 そうやってむきになる秀平の姿が、圭太は妙に可笑しくなり、思わず軽く噴き出すようにして笑った。
 その笑顔の意図が読めたのか、秀平は渋々説明をする。
「高校の同級生だよ。地元で看護師の勉強中」
 あくまで彼女だとは言わないところが、圭太の目にはやたらと滑稽に映った。
 ふと。
 携帯をしまいこんだカバンの端に、手作りしたような星型の飾りがつけられているのに圭太は気づいた。
 晴れた日の青空のような、深みのあるスカイブルーだ。
 そして、そこに縫い付けられた刺繍の一文字に着目する。
 秀平は席を立ち、空の食器が載ったトレイを片手で持つと、もう片方の手でカバンを取り、それを肩から提げた。
 圭太と雑談をする気はまったくないらしい。
 そんな秀平の背に向かって、圭太は引き止めるようにしてわざとらしく大きな声を出した。
「らんちゃん、りさちゃん、りかちゃん、りえちゃん、るいちゃん、るみちゃん、れいかちゃん、れなちゃん、ろ……は思いつかないな」
「何がだよ」
 秀平は歩みを止め、圭太の座る席を振り返った。
「名前。カバンにつけてる飾りに『R』って書いてる」
「……」
 長い沈黙が流れた。
 その憂いに満ちた整った顔には、『迷惑千万』という四文字がハッキリと刻まれている。
「写真はだめでも、彼女の名前くらい教えてくれよ。別に誰にも言わないからさ」
「梨園の『り』。堪忍袋の緒の『お』。子猫の『こ』」
 心の準備をする間も与えず、秀平はおそろしく早口で名前を説明した。
 やたらと小難しい説明の仕方は、素なのか策なのか――付き合いの浅い圭太にはまだ分からない。
 ただ、一つだけ。
 圭太にはハッキリと分かったことがある。
「へー、やっぱりただの同級生じゃなくて、永瀬の彼女なんだ。そのリオコちゃんって子は」
「……」
 本当に、どこまでも。
 この男は踏み込まれることに慣れていないのだろう。こちらが驚くほどに途惑ったような顔をし、やがてツイと顔をそむけてしまった。
 そしてそのまま挨拶の言葉もなく、食器の返却口へ向かって歩き去っていく。

 そこに神秘的なイメージなど、微塵も見受けられない。
 根気強く話をしてみると、その言動はおそろしく単純で分かりやすい、それが圭太にはちゃんと理解できた。

 彼の情報を知りたがっている女子学生はたくさんいる。
 しかし。
 このことはしばらく自分一人の胸の内に留めておこう――その方がきっと楽しいだろう。
 圭太は新しいおもちゃを手に入れた子供のように、目を輝かせて満足げに頷き、少し冷めた定食にようやく手をつけ始めた。