Lesson 2  恋人たちの休日 (1)

 木々の葉が赤や黄色に色づいた、中秋の昼下がり――。
 梨緒子は短大での授業を終えて、気の合う友人二人と学校近くのファストフード店に繰り出していた。

「今週の土曜日、医大との合コンあるんだけど来ない?」
「梨緒子ちゃんも行こうよ! 未来のお医者様を彼氏にしとけば人生安泰だし、ね?」
 珍しいことではない。
 梨緒子が通うのは、医療系の短大である。
 隣接する敷地には県内随一の医科大学があり、さらに大きな附属の総合病院も併設されている。
 そのため、医大の男子学生と短大の女子学生のコンパは、企画されることがとても多い。
 ただ、梨緒子が実際誘いを受けたのは、これが初めてだった。
「あ……私、合コンとかそういうのは、ゴメン。彼氏に怒られるから」
「へー、梨緒子ちゃんって、彼氏いたんだ?」
 友人といっても、知り合ってから半年ほどで、まだまだ付き合いが浅い。しょせん、こういう反応が返ってくる程度の付き合いに過ぎないのだ。

 高校時代の同級生だった彼氏の永瀬秀平とは、卒業してから遠距離恋愛となった。
 そのため、短大の友人たちの目からは、梨緒子に男の影というものがまったく見えていなかったらしい。
「梨緒子ちゃんの彼氏ってどんな人?」
 友人の一人は興味深げな表情で、梨緒子にストレートに尋ねてくる。
 梨緒子は分かりやすいようにと、あえて具体的な説明をしてみた。
「身長は181センチ体重は62キロで、さそり座AB型で、高校のときは学年イチ頭が良くて、顔も半端なくカッコ良くて――」
「ハハッ、マンガじゃないんだからさー、そんな人いる訳ないじゃん」
「恋は盲目とはよく言ったもんだね……」
 二人の友人たちは、揃って呆れたように首を横に振ってみせた。
 梨緒子の言うことを、まったく信じていないらしい。
「嘘じゃないよ? うちの高校出身の人ならちゃんと証言してくれるもん!」
「ふうん。写メとかないの?」
「……ない」
「ラブラブっぽいメールとかは?」
「それもない。一日一回短いメールしておしまい。電話は週末にするくらい。たいてい三分以下だけど」
 友人たちは梨緒子の前で互いに顔を見合わせた。
 そして、これ見よがしにため息をつく。
「それってホントに彼氏? ただの友達じゃん」
「友達なんかじゃないもん! ちゃんと――」
「ちゃんと?」
 友人たちの視線は、梨緒子の顔に注がれている。
 梨緒子は渇いた喉を潤すように、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「ちゃんと、お、お泊りもしたことあるし! ……結構、前だけど」
「こう言っちゃなんだけど、それってさ、たまに会って抱かれるだけの、そういう『友達』じゃん?」
「そんな、私だけだって、ちゃんと言ってくれてるし……」
「……で、それを真に受けて信じて、友達以下のやり取りしてるって訳?」

 ――と、友達以下?

 友達以上恋人未満なら、まだしも――。
 でもそれを、否定できない自分がいる。情けないことに。
 梨緒子はもう、弁解する気を失くしてしまっていた。



 土曜日。
 一人暇な梨緒子は、親友の美月に連絡をとり、久しぶりに遊ぶ約束をした。
 久しぶりといっても二週間ほどだ。
 高校時代に比べたらその回数は減ったものの、気心知れているためブランクなどまるで感じさせない。
 梨緒子にとって、やはり美月は一緒にいてとても落ち着く相手なのである。

 遅い昼食を兼ねて、二人は駅の近くのカフェへとやってきた。
 パリのオープンカフェを彷彿させるお洒落な外観は、若者のみならず幅広い年代に支持されているようだ。明るい店内には、若いカップルの混じって、品のいい老紳士の姿なども見受けられる。

 梨緒子は注文をすませるとさっそく、美月に数日前のモヤモヤをぶつけた。
「短大の友達がね、誰も秀平くんのこと信じてくれないの!」
「いったい、なんて説明したの?」
 美月は梨緒子の話を聞くことに慣れているようだ。嫌な顔一つせず、淡々と事実を問いただそうとしてくる。
「背が高くてスタイル良くて、学年イチ頭が良くて、顔も半端なくカッコ良くて――って」
「…………まあ、間違ってはないけど。でも、なんか嘘くさく聞こえるよね」
「もう、美月ちゃんまで!」
 梨緒子は深々とため息をついた。
「証拠見せてって言われたけど、秀平くんの写メもないし、簡単に実物見せられないし……挙句には、『たまに会って寝る友達』みたいなことまで言われちゃって」
「ヒドイ、『たまに』だって。まだ一回しかしてないのに、ねー?」
 美月は梨緒子を冷やかすように、意味ありげに微笑んで見せる。
「それにしても、永瀬くんも普通の男だったんだねえ……かなりの奥手かと思ってたのに、梨緒ちゃんの話聞いて、超ビックリしたもんね」

 四ヶ月前――。
 遠距離恋愛になって初めて、彼の住む札幌へ単身で乗り込んでいった日の出来事を、梨緒子は懐かしく思い出した。
 彼氏との付き合いの一部始終を知る美月には、札幌でどんなことがあったのかをすでに言ってしまっている。
 自分から話したというよりも、美月の問い詰めに負けてしまったというほうが正しいところだったりするのだが――。

「ああいうクールを装ってる男に限って、中身はやたらとエロかったりするんだよねえ……」
「そんな、秀平くんはエロくなんかないって! 美月ちゃんだから言うけど……正直、こんなものかーって、思っちゃったし。ドラマやマンガなんかとは全然違う――」
 そこまで言って、梨緒子は口をつぐんだ。
 いくら親友の前だからといって、具体的にあれこれ言うのは彼に対して失礼すぎる。
 そんな梨緒子の思惑を読み取ってか、美月は簡単にまとめてみせた。
「要するに、上手くなかったってことでしょ? 永瀬くん」
 この親友は、心臓に悪いことを平気で口にする。
「そ、そ、そんな、上手いか下手かなんて、比べるものもないから分かんないし!」
 すると、タイミングよく話題を中断させるように、梨緒子のカバンの中で携帯が鳴り始めた。
 慌てて取り出し、相手を確認する。
「あ、秀平くんだ……」
「噂をすれば何とか――ってやつね」
 こんな土曜日の午後早い時間に、電話を掛けてくることなどいままでに一度もなかった。
 何かあったのだろうか――梨緒子は首を傾げつつも、通話ボタンを押し携帯を耳に当てた。


 深く響く落ち着いた声が、何の前触れもなく流れてくる。
『黒と白、どっち?』
 確かに、声の主は彼氏の永瀬秀平である。
 しかし、その会話があまりにも唐突に始まり、梨緒子にはサッパリと理解できない。
「えっと……なにが?」
『時間ないんだ。あとから説明するから、どっちか答えて』
 さらに意味不明だ。とりあえず、時間がないという彼の主張を尊重し、梨緒子は彼の問う『白黒二択』に答えてやる。
「……白?」
『分かった、それじゃ』
 そこで通話は途切れてしまった。


 ――相変わらず、謎……秀平くんってば。

 梨緒子はため息をつきながら携帯をカバンにしまいこんだ。
「永瀬くん、何だって?」
「よく分からない。なんかクイズみたいなの、答えさせられただけ。メールじゃなく珍しく電話だったから、よっぽど急いでたのかなー」
 梨緒子は肩をすくめた。
 この程度のことで動揺していては、『彼』の彼女は到底務まらないのである。


 ティータイムと称した二人のおしゃべりは、さらに続いた。
 ひと通りの話題を堪能したあと、二人はショッピングに繰り出そうと、テーブルの上の伝票に手を伸ばした。
 そのときである。
 再び梨緒子のカバンの中から、携帯の着信音が鳴り響いた。
 メールではなく、電話のほうだ。
 鳴り続ける携帯のディスプレイに表示されている名前は――。
「また秀平くんだ……ゴメン美月ちゃん、ちょっと待ってて」
 梨緒子は急いで通話ボタンを押した。


「珍しいね、一日に二回も電話してくるなんて」
『梨緒子、今どこ?』
 挨拶も何もない。電話の相手は、突然奇妙なことを話し始める。
 意味が分からないながらも、梨緒子は素直に答えた。
「どこって……駅の近くのカフェにいるけど」
『駅の近くって、銀行とかある辺り?』
「ううん、東口のほう。市役所の近く」
『オープンカフェやってるところ?』
「そう。よく知ってるね」
 いまは遠く離れてしまっているが、地元の話題になるとちょっとした言葉で分かり合える。
 たったそれだけのことが、梨緒子にはとても嬉しかった。
 秀平の問いはさらに続く。
『誰かと一緒? 女?』
「ひょっとして秀平くん、心配してるの? ハハ、美月ちゃんとだよ」

『――ああ、見つけた』

 理解不能。会話が成立しない。
 彼が何を言いたいのか、いっこうに伝わってこない。
「見つけたって、何を? ……切れちゃった。もう、意味分かんない」
 梨緒子の口からは、愚痴とため息ばかりが吐き出される。
 離れてる時間が長すぎて、些細なすれ違いがどんどん梨緒子の気持ちを揺るがしてしまう。

 電話やメールでは、この空虚な思いは決して埋められない。
 声でなく、文字でもなく――。


 そのときである。
 突然美月が両目を見開き、驚きをあらわにして、向かい合っている梨緒子を、真っ直ぐに指差してきた。
「美月ちゃん、どうしたの?」
「梨緒ちゃん……ほら、後ろ!」

 ――後ろ?

 ゆっくりと振り返ると、そこには――。
 唖然。そして、呆然。
 つい先ほどまで電話で言葉を交わしていたはずの彼が、手を伸ばせば触れられる距離のところに、携帯を片手に澄まし顔で立っていたのだった。