Lesson 2  恋人たちの休日 (2)

 梨緒子は目の前の光景が信じられずにいた。
 カフェの店内の風景が歪んでいく。

 秀平は、梨緒子の座る椅子のすぐ横で立ち止まった。
「卒業以来だね、永瀬くん」
 美月は元同級生に声を掛けた。
 特に親しい間柄ではない。お互い、顔と名前は知っている――その程度だ。
 ただ、梨緒子を通じていろいろなことを詳しく知ってしまっているのだが、それは秀平には内緒である。
 秀平は涼しい顔をしたまま、美月に黙って会釈だけをしてみせた。
 そして、今度は梨緒子のほうへと向き直り、さらりと言う。
「ただいま」
「おっ……おかえり、なさい」
 それ以上、言葉が出てこない。
 どうしてこの彼氏は、平然と『ただいま』などと言えるのだろう。
 もっと他に言うことがあるのではないのだろうか――それよりなにより。
 梨緒子は完全に混乱してしまっていた。
「お邪魔みたいだから、私は帰るね」
「え? 美月ちゃん、あの……」
 伝票を握りしめそそくさと席を立つ親友を、梨緒子はどうしてよいか分からず、ただ眺めているばかり。
「お会計、立て替えとくから。あとで報告、待ってるよ」
 美月はなぜか嬉しそうにしながら、秀平に聞こえぬよう、すれ違いざまに梨緒子の耳元でそうささやき、その場を去っていった。

 いったい何を信じたらいいのか、分からない。
 何度確かめても、すぐ側に立っているのは永瀬秀平その人である。
 札幌にいるはずの彼が、なぜ突然ここへ現れたのか――その理由がまったく分からなかった。



 秀平は梨緒子を、市役所に隣接している大きな緑地公園へと促した。
 平日であれば、市役所を利用する市民の憩いスペースとして賑わっているが、週末の午後は閑散としている。
 住宅街の公園とは違い、子供たちの姿も見受けられない。

 二人は、特に人気のない木々に囲まれた公園隅のベンチに腰を下ろした。
 静かだ。
 ときおり黄色く色付いた葉が、二人の足元へ舞い落ちてくる。
「えーっと、四ヶ月……ぶり?」
「あれ以来だから、そうかな」
 もう、随分と長いこと会っていなかったことを、いまさらながらに思い知らされる。
 しかし、不思議とブランクのようなものはなかった。
「秀平くん、ちょっと焼けたかも」
 精悍な頬が小麦色に日焼けをしている。
「夏休みにいろいろバイトしてたから、そのせいかな。やたらと鍛えられて筋肉も付いたし」
「ええ? じゃあムキムキ?」
 梨緒子はわざと茶化すように言った。
 すると。
「そこそこ。まあ、いずれ分かると思うけど――」
 何気なく発せられる彼のひと言が、梨緒子の胸をかき乱していく。
 その言葉の奥に潜む、彼の思惑。
 いずれ分かる、とは――近いうちに、実際にそれを目にする機会がある、ということに他ならない。
「梨緒子は髪、伸びた」
 秀平は梨緒子の髪を撫でた。
 くすぐったい。
 感触を確かめるような秀平のもどかしい指の動きが、やけに親密さをかもし出している。
 これが夢なら、いつまでも覚めないでいて欲しい――梨緒子はそう願った。
 そのとき。
 秀平はふと気づいたように、手にしていた小さな紙袋を、梨緒子に差し出してきた。
「はい、お土産の『白』。さっき、空港で買ってきた」

【黒と白、どっち?】

「じゃあ、初めに電話してきたのは、千歳空港からだったの?」
「そう。急いでるって言ったろ、俺」
 確かに、秀平はその通りのことを電話で梨緒子に告げていた。
 しかし、どうも梨緒子には秀平の行動が腑に落ちない。
 そこまで急ぐ理由が、まったく思いつかないのである。
「どうしたの、突然? そうだよ、せめて札幌出る前に連絡してくれれば、空港まで迎えに行ったのに……」
「実家に置いたままの本とか、いろいろ必要なもの取りに来た」
「わざわざ? そんなの優作先生に頼んで送ってもらえばいいのに」
「……まあ、それだけが目的じゃないから」
 今回、突然帰ってきたいくつかの目的――。
 とても気になる。
 が、しかし。
 梨緒子は、本人が言い出すまで特に詮索をしないことにした。
 秀平は自分からはあまり喋らないのに、主導権が自分側にないと上手く付き合うことができないという、難しい気質なのである。

 梨緒子は、秀平がお土産として買ってきた紙袋の中を、確認するようにゆっくりと覗いた。
 手のひらサイズの小さな箱が入っている。メーカーのブランドロゴが印字された、ミルク色のパッケージがとても可愛らしい。
 中身は、ホワイトチョコレートがコーティングされたマシュマロチョコだ。
「『白』がホワイトチョコってことは、『黒』は普通のチョコレートだったってこと?」
「なんか、期間限定っぽい違う色の箱もあったけど、最初は普通のほうがいいかと思って」
 時間がなかったのなら、わざわざ電話で梨緒子の意見を聞くことをせずに、適当に買ってくればいいはずなのだが――お土産店の前で一人迷い、どうにもならなくなって電話をしてきた秀平の姿を思わず想像し、梨緒子はたまらなく可笑しくなってしまった。

 ――だから、あんなヘンなこと聞いてたんだなー、秀平くん。

「せっかくだから、全部買ってきてくれたらよかったのに……いろいろと食べてみたかったなー」
「駄目だ」
「どうして?」
「太って欲しくない。梨緒子はできればずっと今のままがいい。だから、お土産はこれからも一つずつ」
 何ということか――。
 例えようもない気恥ずかしさが梨緒子を襲う。
 そう。
 秀平は『今のまま』の梨緒子を知っている。
 知っているからこそ――その言葉にはそこはかとない含みが感じられてしまう。
 梨緒子はさらりと流そうと、とっさに話題を変えた。
「札幌へは、いつ帰るの?」
「明日」
「明日? そうなんだ……」
 予想以上に、一緒にいられる時間は短いようだ。
 たとえ短くても、こうして再会できただけで喜ぶべきなのだが――。
 秀平は、舞い落ちてくる黄葉を見上げながら、淡々と言った。
「今日、これから時間ある?」
「うん! 全然空いてる!」
 もともと、夜まで親友の美月と遊ぶ予定だったのである。
 それが彼氏の秀平であれば、それは願ってもないラッキーハプニングだ。
「何したい?」
「何って……何?」
「俺が聞いてるんだけど。二人で出かけて何かするとか、ほら、そういう、何ていうかその――」
 言葉は真っ直ぐ伝わってこないが、言わんとすることは梨緒子には手にとるように分かる。
「デート? デートしてくれるの!?」
 梨緒子は、側に座る秀平に飛びつくようにして答えた。
 すると。
 その勢いに押され、秀平は驚いたように両目を緩やかに見開いた。
 じっと梨緒子を見下ろし、持ち前の端整な顔立ちを固まらせたまま――。
 しばしの沈黙が、二人の間に流れる。
「……どうしたの?」
 梨緒子が恐る恐る尋ねると、秀平はようやくゆっくりと口を開いた。
「いや……そんなに喜ぶと思ってなかったから」
 喜ぶに決まっている。
 乙女心を解さない人種とはいえ――鈍いのにも程がある。
 それでも。
「ずっと夢だったの」
 片想いしていた彼と、当たり前のようにデートすることが、梨緒子の願いだった。
 その片想いの彼は、紆余曲折を経てかけがえのない本当の彼氏となり――しかし彼の気性ゆえに、梨緒子の望みはほとんど叶うことがないまま、遠距離恋愛となってしまったのである。

「映画が観たい!」
「暗いところはちょっと」

「じゃあ、買い物!」
「人込みは嫌だ」

「……遊園地?」
「論外」

 しかし、というか――やはり。
 一筋縄ではいかないのだ、永瀬秀平という男は。
 結局、梨緒子の提案するデートプランは、ことごとく却下されてしまう。
「もう! じゃあ、どこならいいの?」
「人のいないところで、二人で静かに過ごしたい」
 あまりにも秀平らしい答えに、梨緒子は完全脱力し、思わず苦笑してしまった。
 このまましばらく秋風に吹かれながら、語り合うのもいいだろう。
 むしろ。
 何物にも変えがたい極上の時間だ。


 秀平は無言で財布を取り出し、中からカードのようなものを取り出した。そしてそれを、なにやら意味ありげに、梨緒子に差し出してくる。
 なにげなくその内容を確認し、梨緒子は驚いた。
「うそ、いつの間に教習所通ってたの?」
「梨緒子を驚かせようと思って。昨日取れたばかりなんだけど」
 彼が見せてくれたのは、自動車の運転免許証だった。
「すごい! これで車の運転できるんだー」
「これをさ、一番最初に、どうしても梨緒子に見せたくて」
「え? まさか、これが帰ってきた理由!?」
「……別にそれだけでも、ないんだけど」
「でも、すごい! カッコいい! さすが秀平くん!」
 梨緒子はとにかく嬉しくて、はしゃぎまくってしまう。
 彼が自分を驚かせようとして、いろいろと内緒で行動していたということ――そんな彼の想いが、梨緒子の胸いっぱいに広がっていく。
 秀平はクールに澄ましているが、内心はかなり嬉しいらしい。
 求めていた通りの梨緒子の反応に、気を良くしているようだ。
「いいなー……これ」
 梨緒子はじっと、秀平の運転免許証に見入っていた。
 正確に言えば、彼の証明写真に、である。
「梨緒子も早く取りに行けばいいよ。看護系なら来年再来年、実習とか忙しいんじゃないの?」
 どうやら秀平は、梨緒子が運転免許が欲しがっていると勘違いしたらしい。
「うん……」
「どうしたの?」
「免許もね、欲しいけど……この秀平くんの写真が欲しいなー、と思って」
「何で」
「何でって……」
 秀平自身、携帯の待ち受けに梨緒子の画像を使っているのである。
 しかし、それを本人に言うわけにはいかない。勝手に携帯を見てしまったことがばれてしまう。
 梨緒子は勇気を出して、探るようにして秀平に尋ねた。
「いま、撮ってもいい?」
「写真? まあ……一枚だけなら」

 ――うそ、やった!

 気が変わらないうちにと、梨緒子はそそくさとカバンから自分の携帯を取り出し、カメラを起動して、秀平の顔の正面に向けて構えた。
 明らかに面倒くさそうな無表情の顔が、画面に映し出されている。
「もうちょっと、ニコってして?」
「面白くもないのに笑えない。せめて、一緒に撮ってくれれば」
「いいよ。ちょっと待って」
 緊張しないと言えばそれは嘘になる。
 しかし、いちいち恥ずかしがる関係は、すでに越えているのだ。
 梨緒子はそう自分自身に言い聞かせて、開き直った。
 密着させるようにしてお互いの身体をしっかりと寄せ合い、小さな画面に二人が入るよう調整する。
 梨緒子の隣にいる画面の中の秀平は、あくまで淡々といまだ無表情のまま――。
 梨緒子は画面からいったん目を離し、間近に見えている秀平の横顔に喋りかけた。
「秀平くん」
「何?」
 側にあることが、こんなにも嬉しい。
 触れ合う温もりが、こんなにも――愛しい。

 ふと、気づくと。
 梨緒子は秀平の唇に、ふわりと軽く口づけていた。

 すると。
「……ちょっと梨緒子。真面目に撮る気あるの?」
 秀平は表情を強ばらせたまま、いきなりキスをしてきた自分の彼女をじっと見据えている。
 彼は決して怒っているわけではない――離れている時間が長くても、梨緒子にはそれがちゃんと分かる。
 むしろ、冷めた表情の裏に秘められているのは、溢れんばかりの想いである。
「駄目だ。写真はまた今度にして――」
 秀平は、構えていた梨緒子の左手を、携帯電話ごと押さえ込むようにしてつかまえる。そしてそのまま、梨緒子の返事を待たずに素早く唇を重ねた。

 やがて、ゆっくりと唇が離れていく。
 ようやく、秀平が不機嫌そうな表情を崩した。
 永遠に写真に残しておきたいほどのその優しく端整な笑顔に、梨緒子はしばし見惚れてしまった。

 その一方で。
 彼が突然帰ってきた『本当の理由』は、いったい何であるのか――いまだ辿り着けていない真実に、梨緒子は不安を覚えていた。