Lesson 2  恋人たちの休日 (3)

 天高い秋の青空を、秀平は枝葉の合間から仰ぐようにして見ている。
 彼のすらりとした脚が、梨緒子の膝先に軽く触れる。
 高校時代のような緊張感は、すでにない。

 ――なんか、不思議。

 彼と肌を重ね合わせたという経験が、これほどまでに二人の距離を縮めることになるとは、梨緒子は思っていなかった。
 お互いがお互いを許し、そして許されることで、ありのままの自分をさらけ出すことに、随分と慣れたのかもしれない――梨緒子はそんなことを考えた。

 時間がゆっくりと流れていく。
 しかし。
 梨緒子はどうも気がかりだった。
 実家に本を取りに来たのも、取ったばかりの運転免許証を見せに来たのも、確かに本当のことなのかもしれない。
 けれども。
 それだけの理由ではないはずだ。

 ――秀平くんは、何か……隠してる?

 梨緒子は側に寄り添うようにして座っている彼氏に、思い切って尋ねてみることにした。
「なんか、悩みでもあるの?」
「いや、別に」
「私じゃ頼りないかもしれないけど、聞いてあげることくらいはできるよ?」
 秀平はしばらく黙ったままだった。ときおり舞い落ちてくる鮮やかな葉っぱを、ただ物憂げに目で追っている。
 あまりの沈黙の長さに、梨緒子の不安はいっそう募った。
 やはり、何か大きな理由があるのだろう。

 学業や金銭などの悩みは、彼には考えられない。あるとすれば――それは間違いなく人間関係のトラブルと予想される。
 他人との距離を上手く掴めず、コミュニケーションができていないのかもしれない。
 家族と同居していた頃は、それでも自分の拠り所があっただろうが、現在ははるか遠くの地で一人暮らしなのである。


「そろそろ、帰る」
「もう?」
 秋分の日が過ぎ日が落ちるのが早くなったとはいえ、まだ午後四時過ぎである。
 つかの間の安らぎのひとときを、秀平が早々に切り上げようとしていることに、梨緒子はその声色から感じとった。
「そっか、そうだよね。家族とも久しぶりなんだもんね」
 そう。
 たとえ彼女でも、彼を独り占めにすることはできない。
 明日またすぐに札幌に帰るというのなら、久しぶりに家族水入らずで夕食をとるのだろう。それは仕方のないことである。
 地元にいるときは、札幌のアパートで二人っきりで過ごすようにはいかない。
「あ、ひょっとして秀平くん、おうちが恋しくなったから帰ってきちゃったとか?」
「今日、うちの両親二人とも出張でいないんだ」
「ふうん?」
「兄貴もツーリングで、あさってまで帰らないって言ってた」
「へえ、そうなんだー。せっかく帰ってきたのに、家族と会えないんじゃ、寂しいね」
 梨緒子の思惑は外れてしまった。
 すると。
 秀平は奇妙なことを言い出した。
「逆。みんな出かけるって聞いたから、帰ってきた」
 意味がまったく分からない。
 梨緒子は、今日これまでの流れとやり取りの記憶をすべて引っぱり出し、彼の言葉の意味するものを探り当てる。
「ひょっとしてお留守番しに? そんな、二、三日だけなら、わざわざ札幌から帰ってくることもないのに――」
「あのさ、梨緒子」
「あ、誤解しないで? 私は別に『ついで』でもね、秀平くんとこうやって逢えただけで嬉しいから」
 秀平は再び黙ってしまった。
 何か気に触ることを言ってしまったのだろうか――梨緒子の心に不安がよぎる。

 家族が出かけるから、帰ってきた。

 秀平は確かにそう梨緒子に告げていた。
 つまり。
 家族と顔を合わせたくない理由が、そこにはあるに違いない。
 問題なのは、札幌の人間関係ではなく、実家のほうにあった。だから秀平は、これまでもなかなか帰省しようとはしなかったのだ。そうに違いない。

 それでも。
 家族がいなくなるのを見計らって、ちゃんと自分に逢うために帰省してくれたことが、梨緒子は何よりも嬉しかった。

 そのときである。
 沈黙の海に溺れていた秀平が、突然口を開いた。
「0から1、2から3。どちらも差は1で同じ。でも、その中身はまったく違う」
「うん?」
 秀平はまるで独り言のように、迷いなく流暢に喋りだす。
 その内容は、完全なる『意味不明』のシロモノである。
「0から1への変化はとてつもなく大きい。『無』から『有』になる過程での差分1だから。でも――2から3へは大きな変化というわけじゃない。『二三日』とか『2、3回』という言葉は日常的に『数回』という意味で使われている。どちらも『有』であることには変わらず――つまり、2も3もあまり差はないということになる」
 梨緒子は唖然と、気が触れたように喋りまくる秀平の横顔を見つめていた。
 相槌を打つ間もない。
 小難しい言葉の羅列を、当然理解できるはずもなく――しかし、秀平はお構いなしにどんどん続ける。
「じゃあ、1から2はどうなんだろう。これもまた差は同じく1――」
 そこでようやく、秀平の怒涛のような説明が一段落した。
 彼は高校時代、学年首位を一度も明け渡さず、ストレートで北大に合格したほど頭脳明晰なのである。本気を出されたら到底、梨緒子が敵う相手ではない。
「……大学で数学のレポートでも出てるの? 秀平くんが悩むくらいの問題じゃ、私じゃどうにもならないよ。そうだ、優作先生に教えてもらったらいいんじゃないかな?」
 そんな梨緒子の『助言』もどこ吹く風。
 秀平はゆっくりと梨緒子のほうへと向き直った。
 二人の目と目が、しっかりと合う。
 秀平の焦げ茶色の艶やかな瞳が、ゆっくりと瞬いている。
「1も2も『有』だ。でも俺は、1から2という変化はとても大きな意味を持っていると思う。1は不安定、2以上は安定。1と2の間には大きな大きな壁がある」
「……はい」
 梨緒子にはもはや、彼氏の一方的な喋りにただ肯定の返事をするしかなかった。
「そういう理論を元にすれば、現在の俺たちは安心できない状態にある」
「なんかよく分かんないけど、私は大丈夫だよ。本当に秀平くんだけなんだから。浮気も心変わりも絶対にしないって、ちゃんと誓えるよ?」
「……そうじゃなくて」
「そうじゃ、ない?」
 秀平は深々とため息をついた。
 思っていることを上手く伝えられずに、もどかしそうにしている。
「だから1はさ、一度きりとか一夜の過ちとか。常に不安が付きまとってる。もうこの先はないんだ――って」
 梨緒子はゆっくりと頷いた。
 その表情を確認して、秀平はさらり説明を続ける。
「でも2は、二度あることは三度あるって言うし。ずっと続いていくっていう安心感が、そこにはある」

 1は不安定、2以上は安定。
 1と2の間には大きな大きな壁。
 そして、現在の俺たちは安心できない状態にある。

「だから、これから『一緒に』ウチに帰って、俺を――安心させて欲しいんですけど」
 とても回りくどく分かり難い説明の中に、秀平の本当に言いたい事を、梨緒子はようやく読み取った。
 つまり。

 家族と不仲だからではなく、気兼ねなく『二度目』を実現させるため――。

 梨緒子は完全に混乱していた。
 どんな反応をしたらよいのか、困惑してしまう。
「ああ……安心って、えーっと、そういうこと?」
「駄目?」
「ちょっと待って? それが…………ホントの理由?」
「梨緒子が来るの待ってても、いつになるか分からないし。ウチに誰もいなくなるなら、ちょうどいいかと思って。だから、帰ってきた」
 絶句。まさに、絶句。
 そして、どんどん火照っていく両頬。
 まさか秀平が、それが目的でわざわざ帰ってくるとは、梨緒子は思ってもみなかったのである。
 ふと。
 梨緒子の脳裏に、先ほど話していた親友の言葉が浮かんできた。

【それにしても、永瀬くんも普通の男だったんだねえ――】

【ああいうクールを装ってる男に限って、中身はやたらと……】

 梨緒子は、あくまで涼しい顔をして梨緒子の反応を待っている秀平の顔を、思わずじっと見つめてしまった。
 先ほど、小難しいことを機関銃のようにしゃべりまくっていたのは、彼の精一杯の求愛表現だったのだろう。
 ある意味、直球的とも言えるのかもしれないが――。
 梨緒子はようやく気持ちを落ち着かせ、さらに一呼吸置くと、彼の気持ちを確かめようと、弱々しい声で尋ねた。
「……じゃあ、二度目で秀平くんは安心できるってことは、そのあとはずっと私に会わなくても平気になっちゃうってこと?」
 すると。
 秀平は表情を崩し、やがて堪えられずに声を上げて笑い出した。
 そのあまりにも珍しい光景に、梨緒子はただ驚くばかり――。
「な……何で笑うの?」
「別に何でもない」
「何でもなくないでしょ? 気になるから言って」
 その梨緒子の質問に、秀平は答える気はないらしい。
 梨緒子の側で、彼はひたすら楽しそうに微笑んでいる。
「平気になったりはしないけど、実際問題、しょっちゅう会えるわけじゃないから――だから、梨緒子」
「はい?」
 秀平はおもむろにベンチから立ち上がり、一歩前に出て、くるりと梨緒子を振り返った。
 そして、いつものように淡々とした口調で、さらりとひと言。
「俺たちは『量』より『質』で、よろしく」
 本当に本当に、この彼氏ときたら。
 いったい、なんと答えたらよいものか――。

 恥ずかしさと嬉しさが梨緒子の胸の中で入り混じり、複雑に絡み合っている。
 その二つはやがて融け合い、愛しさとなって彼のすべてを包み込んでいく。

 梨緒子はゆっくり数度頷いて、秀平の提案に答えた。
 明日にはまた自分の元からいなくなってしまう、愛しい彼氏の想いに応えるのに、何をためらうことがあろうか。
「じゃあ……早く帰ろっか、秀平くん」
 梨緒子はそう言ってベンチから立ち上がると、正面に立つ秀平の左腕に自分の右腕をしっかりと絡ませた。

 秀平は何も喋らず、梨緒子と腕を組んだままゆっくりと歩き出す。
 それが――始まりの合図だった。


(了)