Lesson 3  恋星は煌く (1)

 梨緒子の携帯電話に、永瀬優作からいつものようにメールがあった。
 毎週木曜日恒例の、ディナーのお誘いである。

 優作は、梨緒子の家庭教師だった男だ。梨緒子より三歳年上の医学生である。
 その名の通り、癒し系の優男であるが、その実、策士で計算高い一面も併せ持っていたりする。
 そしてまた優作は、梨緒子の彼氏・永瀬秀平の実の兄でもあったりする。
 つまり。
 上手くいけば、この男は将来「義理兄」となるのだ。仲良くしておいて決して損はない相手である。


 優作と梨緒子は馴染みの洋食屋で、揃ってオムライスを食べていた。
 永瀬兄弟の両親という人は多忙で、帰宅時間が遅く、出張で家を空けることもしばしばあった。晩御飯を家族揃って食べることはほとんどないらしい。
 そのため、いつしか優作と梨緒子は、週に一度はこうやって、二人で晩御飯を食べるようになっていた。
 梨緒子自身、秀平の兄・優作との食事は浮気には当たらないと思っているのだが――そのことを秀平に伝えたことはない。
 彼は独占欲が人一倍強く、また嫉妬深いところがある。例え血を分けた兄といえども、二人きりでの食事は、やはり機嫌を損ねる可能性大、なのである。

 優作は医学部五年生。
 梨緒子は看護短大の二年生。
 同じ医療系の分野を目指す者同士であるため、専門の勉強の話題はどこまでも尽きない。
 その他にも、映画や音楽の話、お互いの家族兄弟友人の話、恋愛の愚痴聞きまで、二人の話す内容は多岐にわたっている。

 いつものように、楽しく会話を弾ませながら食事をしていた、そのとき――。
 テーブルの上に出してあった梨緒子の携帯電話に、メールの着信を知らせるランプがともった。
 梨緒子は携帯に手を掛けることもせずに、ひたすら大きなスプーンで、チキンライスと卵のとろとろを口へと運んでいく。
 優作は目配せをし、向かいに座る電話の持ち主に尋ねた。
「秀平から?」
「たぶん。七時ちょうどだし」
 梨緒子はそれだけ答えると、再びオムライスを食べるのに集中し始めた。いつまで経っても、携帯電話に手を伸ばそうとしない。
 優作はふと首を傾げて、そんな梨緒子の様子を不思議そうに眺めていた。
「返事しなくていいの?」
「いい。返事するような内容じゃないし。秀平くんの生存確認というか、晩御飯日記を向こうが一方的に送ってきてるだけだから」
 秀平は毎日欠かさず、晩御飯の写真を梨緒子の携帯に送ってくる。遠距離になってからは、ずっとだ。
「初めてメールが届いたときは、どうしようもなく胸がきゅんきゅんしたのに……なんか倦怠期っていうかね、さすがに遠距離一年以上だと、メールにときめきなんて、なくなっちゃうし」
「電話で話したりしないの?」
「前はね、週末にちょこちょこ近況話したりしてたけど……最近土日は夜遅くまでバイトに明け暮れてるみたいだから、何だか電話掛けるのもためらっちゃって」
 スプーンの動きが止まった。
 なるべく考えないようにして、胸の奥にしまいこんでいたものが、優作の『引き出す話術』にかかって、いとも容易くあふれ出てしまう。
「だって、最後に会ってからもう九ヶ月だよ? なんか完全安心しきってない? 危機感ないっていうか。私が浮気してないかどうか、確かめにきてくれたっていいじゃない? 浮気するはずないって思ってるわけ?」
「梨緒子ちゃんのこと、信じてくれてるってことでしょ」
 優作は梨緒子を受け止めて、穏やかな口調で的確な答えを返してくる。
 しかし。
 この憤慨の気持ちは、そう簡単におさまるものではない。
「信じてるのか、関心がないのか――分かんないよ、もう。釣った魚にエサやらないタイプだ、絶対。ハッキリ言って、餓死寸前だもん」
「でも、他の魚を追いかけてることはないと思うよ。まあ、草津や白浜のように、底引き網の漁師みたいな男も、世の中にはいるんだけどね」

 草津と白浜というのは、『温泉コンビ』と呼ばれる優作の友人たちで、同じく医学生である。
 フレンドリーで気さくなのだが、動くものを追いかけるトンビのような草津と白浜の行動力は、かなり脅威的だ。梨緒子はこれまで何度も、二人の餌食になりかけている。
 梨緒子が高校生だった頃はまだ良かったが、短大に入学し医大とキャンパスが隣になると、当然遭遇する確率が高くなり――その度に、優作に助けてもらうという図式が成立してしまっている。
 ただ優作の場合、梨緒子を守りたいというよりも、秀平を怒らせると後々面倒だと感じているためらしいが――。

 それにしても。
 優作の『底引き網漁』という言い回しは、おそろしいほどに的を得ている――梨緒子は妙に納得してしまった。
「なんか面白い例えだね。じゃあ、優作先生は?」
 梨緒子はついでを装って、優作に軽く尋ねてみた。
 すると。
 しばしの沈黙があった。色々と考えを巡らしているらしい。
「僕は……そうだなあ、山奥の池で『主』と呼ばれる幻の巨大魚を釣るためにじっと粘ってる、さすらいの釣り人かな」
「幻の巨大魚……」
 噂は聞いたことがある。
 優作が高校時代に付き合っていたらしい『彼女』の存在――。
 しかし、優作はそのことをあまり話したがらない。聞いても上手くはぐらかしてしまうのである。
 その噂を聞いたのも、優作の友人『温泉コンビ』のどちらかからだったと、梨緒子は記憶している。

「秀平はいいとこ、縁日の金魚すくいだろうね」
「金魚……すくい?」
 日本人には、祭りや縁日でお馴染みのものである。
 もちろん梨緒子も、小学生の頃はよくやった思い出がある。
「気に入った金魚一匹をすくうので精一杯。で、自分だけの金魚鉢に入れて、泳ぐのをじーっと眺めてる」
 ふとその姿を想像し、梨緒子はとても可笑しくなった。
 似合い過ぎるのである。
 それはあくまで例え話で、実際に秀平が金魚すくいをするかといえば、かなり怪しいのであるが――。
「梨緒子ちゃんが自分の金魚鉢の中にいると思って、安心しているんでしょ。自分は好きなことして、たまに自分の部屋に置いてあるお気に入りの金魚鉢を眺める――そんな感じなのかな」

 自分は、金魚。
 秀平が一人眺めて楽しむ、金魚鉢の中を泳いでいる。

 たった一匹だけの、寂しい金魚――。

「確かに……金魚鉢は秀平くんの部屋にあるのかもしれないけど、金魚鉢の方は見てくれてないんだよね」
 梨緒子は優作の前で深々とため息をついてみせた。
「自分からこっちへ帰ってくるわけでもない、札幌に遊びにきてって誘ってくれるわけでもない。秀平くんは、女の子の中では私のこと一番好きなのかもしれないけど……でもね、恋愛は一番じゃないんだもん」
「それでも、梨緒子ちゃんにはわざわざ会いに来たことがあるでしょ」
「一回だけだよ?」
「秀平にしてみれば、それってものすごく珍しいことなんだから。僕もうちの親も、一年以上会ってないんだからね。梨緒子ちゃんが愛されてる証拠だよ」
「それは分かってる。分かってるけど……半年くらいはそれだけで充分だったけど、さすがに九ヶ月以上も放って置かれると……はあああ」

 第一、彼の恋愛温度が低すぎるのだ。
 優作の言うとおり、秀平は突然、愛を確かめに帰ってきたこともあったが、後にも先にもそれ一回きりである。
 クリスマスも正月もバレンタインデーもホワイトデーも完全スルーされた。
 唯一、梨緒子の誕生日に宅急便で、自分で手作りしたらしいケーキを送ってきたが、それだけである。
 それだけでも、充分に嬉しいのだが――しかし。
「こっちから積極的に出るしかないのかー、やっぱり」
「ごめんね梨緒子ちゃん、不甲斐ない弟で」
 優作は決して申し訳なさそうな口ぶりではなく、楽しげに笑いながら、自分の皿に残っていたオムライスをすべてかき込むようにして食べた。


 夜も更け、梨緒子は札幌にいる秀平に、久しぶりに電話を掛けることにした。
 平日に電話を掛けることは、滅多にない。
 しかし、彼は梨緒子を待たせることはなかった。すぐに通話可能となる。
『はい。どうしたの?』
 彼の声だ。
「いま、話しても平気?」
『平気じゃなかったら電話に出ないよ。用件は?』
 理路整然としている彼は、無駄な話を極力避けようとする。他愛もない会話で様子を見るということは、秀平相手にはできない。
 梨緒子は怯みかけたが、気を取り直した。
 息を深く吸い込み、勇気を出して思っていることを真っ直ぐに伝えた。
「秀平くん、私ね、今度そっちへ行こうと思うんだけど」
『何しに?』
 一気に緊張が増した。
 秀平の口から発せられた言葉は、付き合っているはずの彼氏からの返答としては、あまりにも冷たいものだった。
「何しにって……まだちゃんとね、札幌の街を見て歩いてないし」
『観光目的ってこと?』
「まあ、そんなところ」
『何日くらいいるつもり?』
「あの……ひょっとして、迷惑?」
『別に』
 これだ。
 両手放しで喜べとは言わないが――あまりにもその反応はクールだ。クールすぎる。
 梨緒子がへこんでいると、電話の向こうから秀平の淡々とした問いかけが聞こえてきた。
『で、何日?』
「えっと……二泊か、できれば三泊くらい」
 梨緒子はひたすら秀平の反応を待った。
 すると。
 思いがけないひと言が、秀平から返ってきた。
『だったら、美瑛まで行こうか』
「美瑛?」
『前にも行ったことあるだろ。うちのイトコの貸し別荘』
 心臓が高鳴った。
 メールや電話では、もはやときめくことなどなかったはずなのに。

 そう。
 二人にとって、美瑛の別荘は特別な場所――。

『梨緒子、どうする? それとも、札幌観光のほうがいい?』
「札幌じゃなくてもいいよ。ううん、美瑛に行きたい!」
『じゃあ、一緒に天体観測しようか、また』

 飼い主が金魚鉢の存在を思い出したように、こちらを向いた。
 すると、寂しかった金魚は途端に嬉しくなって、水面の上をぽちゃんと飛び跳ねてみせた。