Lesson 3  恋星は煌く (2)

 数日後――。
 梨緒子は短大での授業が終わったあと、親友の美月と行きつけのカフェで待ち合わせていた。
 もちろん、おしゃべり目的である。
 最近は美月も私生活が忙しいらしく、以前のようにゆっくり会うことはできなくなっている。
 お互い別々の学校に通っている。それぞれに仲のよい友達もできている。
 それでも、秀平のことを話すには、やはり高校時代の親友が一番なのである。

「聞いて聞いて。秀平くんのところへ遊びに行くことになったの!」
「そうなんだ? よかったね」
 カフェのテーブルに着くなり、梨緒子ははしゃぐようにして、親友に事の次第を語り出した。
 美月は社交辞令的愛想笑いをするわけでもなく、素直に梨緒子の話を聞いている。
 ただの惚気話は面白くないだろうが、美月は梨緒子が秀平に片想いしていたときからの一部始終を知っている。そのため、好奇心とも言うべき興味は、それなりに持ってくれているようだ。
「向こうから誘ってくれたらもっと嬉しかったんだけど……でも、断られなかったし!」
「どうでもいいけど、永瀬くんも相変わらずだね」
「量より質、なんだって」
「そんなこと言ったって、量がゼロじゃ質を語る以前の問題でしょうが!」
 確かに、美月の言うとおりなのである。
 逢う時間がまったくなければ、愛情行為に及ぶこともないわけで――。
「とりあえず『量』がゼロじゃなくなったから、今度は『質』を期待してもいいかなー、なんて。緊張するー。だって九ヶ月ぶりだよ? あ、新しい下着買いに行かなくちゃ。少しダイエットもしなくちゃダメだよね……」
「はいはい、ご馳走様でした。で、いつ行くの?」
「今週末の連休に。金曜日から、月曜日まで」
 梨緒子の説明を聞いて、美月はふと首を傾げた。
「あれ、金曜の授業は?」
「だって九ヶ月ぶりだよ? 休むに決まってるじゃない。実はね、秀平くんには、最終の飛行機で札幌に向かう――って、言ってあるんだけどね」
 秀平に話を持ちかけてからここ数日、打ち合わせのために二人は毎晩電話をするようになっていた。
 その内容は、お互いのスケジュールの調整や、切符や滞在する予定の別荘の予約など、事務的なものばかりだ。
 それでも。
 梨緒子は、同じ目的について秀平と語り合えることが、とにかく嬉しくてたまらなかったのである。
 その電話のやり取りの中で、秀平は空港まで梨緒子を迎えに行く――と提案してきた。
 梨緒子はそれをありがたく受け入れてみせ、「最終便で千歳へ向かう」と彼に告げた。
 しかし。
 梨緒子には、胸に秘めたある計画があった。
「でも、こっそり早い便で札幌に行って、秀平くんをビックリさせちゃおうと思って! 秀平くんが大学生してるところ、見てみたいんだー」
 嬉々として説明する梨緒子を、美月は呆れたように見つめ、ため息をついてみせた。
「美月ちゃん、どうしたの?」
「梨緒ちゃんって、本当に永瀬くんのこと好きなんだなーっと思って」
 そう。彼が好き。
 彼のことが、本当に――大好き。
 梨緒子の心は既に、遥か北の大地に奪われてしまっていた。



 梨緒子が札幌の地を訪れるのは、これが三度目だった。
 道中の乗り換え手順は、もう慣れたものである。千歳空港に降り立ち、そのあと札幌駅への移動までは、何の問題もなかった。

 秀平と逢うのは、昨年の秋以来だ。あまりに久々なので、梨緒子はいつになく緊張してしまっていた。
 クリスマスも正月も春休みも、お互いの誕生日ですら会えずじまいだった。
 それでも、梨緒子は我慢した。必死に街のケーキ屋でアルバイトをし、お金を貯めた。
 そしてようやく、秀平との再会の目途がついたのである。
 今回は、秀平もそのためにスケジュールを調整し、梨緒子と過ごす為に時間を取ってくれた。しかも、三泊四日という、かつてないほどの長時間だ。
 離れている時間を考えたら、たった四日間なのだが、二十四時間ずっと二人きり、いわば『ぷち同棲』なのである。

 一緒にご飯作って。
 一緒にそれを食べて。
 一緒に後片付けをして。
 お風呂は、まだ別々。
 一緒に星を見て、抱きしめ合ってキスをして。

 逢えなかった寂しさを埋めるように、一緒に愛を確かめ合い――。

 どう転んでも、楽しくないわけがないのである。
 梨緒子はもう、期待で胸が一杯だった。



 梨緒子は札幌駅まで辿り着くと、そのまま秀平の住むアパートへ向かった。
 ドアの前に、持ってきた大きな旅行カバンを置く。一番奥の部屋のため、そう簡単に盗まれることはないだろう。
 貴重品はいつものように、小さな手提げカバンに入れてある。

 ――秀平くん、どんな顔するかな? 楽しみー。

 梨緒子はようやく身軽になり、ガイドブックの地図を開き、周辺と目的地の大まかな位置を把握した。
 目指すは、彼の通う『北海道大学札幌キャンパス』である。



 大学の正門までは、難なくたどり着くことができた。
 しかし、ここからが問題だ。
 北大のキャンパスは、とにかく広大な敷地なのである。
 携帯を取り出し、時刻を確認する。午前十一時過ぎ。秀平はおそらく講義中だろう。
 講義が入っていることは、前もって秀平から聞いていた。しかし、どの講義を取っているのかまでは分からない。
 講義が終わる頃に、学部の建物の入り口の前で秀平を待ち伏せしようと、梨緒子は考えた。
 とりあえず、学部の校舎の位置を確認しなければならない。
 梨緒子は大きな構内の案内板の前に立った。

 そのときである。
「あれ、梨緒子ちゃん? 梨緒子ちゃんだよね!?」
 背後からの男の声に、梨緒子が振り返ると。
 そこには、見覚えのある青年の姿があった。
 秀平の友人、成沢圭太である。
 白のポロシャツに渋茶色のハーフパンツそしてサンダル履きという、涼しげな夏の装いだ。服からのぞく手足は、鍛えられて引き締まっている。
 圭太は構内で梨緒子を見つけて、心底驚いているようだ。
「いやー、驚いたよ。永瀬のヤツ、講義終わったら梨緒子ちゃん迎えに千歳まで行くって、言ってたからさ」
「ビックリさせようと思って、早く来ちゃった」
「アハハハ、梨緒子ちゃんって、ホントに面白いね」
 この成沢圭太とは一年以上前、梨緒子が秀平逢いたさに初めて一人で札幌までやってきたときに、幾らか会話を交わした仲である。
 友人と言うほどの付き合いではないが、ここ札幌における数少ない『顔見知り』であることには間違いない。
「まあ、確かにあのクールな永瀬じゃ、少し動揺させてやりたいって気持ちは分かるな」
 不思議と、壁はない。
 それは、この成沢圭太という人間の、持ち前の人懐っこさなのであろう。
 もしくは――どことなく似ているためだろうか、元彼に。
「あとで永瀬のところまで連れて行ってあげるよ。講義が終わるまで、もうちょっと時間あるから」


 梨緒子は圭太に誘われて、学食へとやってきた。
 ここは、札幌キャンパス内にいくつかある食堂の一つらしい。
 中はまだ空いていた。講義の入っていない学生が、早めの昼食をとっている。
 圭太は自動販売機から冷たい缶コーヒーを二本買うと、一本を梨緒子に差し出した。
「特別に、オゴリ」
「いいの? ありがとう」
 空いている席に、梨緒子と圭太は向かい合うようにして座った。

 空気を読むのが上手いのか、不自然な沈黙は起こらない。
 圭太はコーヒーを数口流し込み、ゆっくりとテーブルに缶を置くと、白い歯を見せて笑った。
「そうそう、これから永瀬と旅行に行くんだって?」
「……秀平くんって、成沢くんには何でも話してるんだ」
 梨緒子を迎えに空港まで行くことを、圭太は秀平から聞いていたようだ。つまり、梨緒子が札幌へ遊びに来ることは、知っていたことになる。
 しかしそれだけではなく、これから二人で旅行に出かけることまで――。
 梨緒子は驚きを隠せなかった。
 高校時代は『孤高』と呼ばれ、他人とは極力関わりを持とうとしていなかった彼が、自分の予定を誰かに話すなど、到底考えられないことだったのである。
 梨緒子の驚くさまを見て、圭太はフォローするように言った。
「気、悪くしないでね。俺、別に言いふらしたりはしてないから」
「ううん、そうじゃなくて。高校のときはそういう風に自分のこと喋ったりする人じゃなかったから、何か意外だなーって」
「永瀬ってさ、なんか面白いんだよね」
「面白い?」
 圭太は奇妙なことを言い出した。
 秀平に『面白い』という言葉はまるでそぐわない。
 知的で、常に冷静で、本気と冗談の境が曖昧で、とにかく『ユーモア』などという要素は皆無なのである。
「梨緒子ちゃんってさ、永瀬にすごく大事にされてるでしょ」
「……うーん、そんなこともないと思うけど。ずっと放って置かれてたし。今回だって九ヶ月ぶりなんだよ?」
「バイトばっかりしてるからなー。仕送り充分もらってるはずなのに。ああ、大丈夫。遊びに使ってるふうじゃないから。たぶんがっちり貯めこんでんだろうなー、きっと」
「お金あるなら、逢いに来てくれたっていいのに……こっちから声掛けるまで、その気もなかったみたいだし」
 梨緒子は大きなため息をついた。
 彼は自分に逢いたいがために懸命にバイトをしているわけではない――その事実が、鉛のように梨緒子の胸にずしりと圧し掛かってくる。
「あ、そうだ。梨緒子ちゃんの番号とアドレス、教えて」
「え?」
 圭太はハープパンツのポケットから、自分の携帯を取り出した。そして、梨緒子の返事を待たずに、データを受け取るための準備をしている。
「緊急連絡用だから、そんな構えなくてもいいよ。悪用しないって。ね? ほんの挨拶代わりに」
 この慣れた感じ。挨拶という言葉に他意はなさそうである。
 それに、ここまで軽くこられると、かえって断りづらい。
 梨緒子は根負けして、手提げカバンから携帯を取り出し、圭太の携帯に自分のデータを送った。
 折り返しで、圭太からもデータが送られてくる。
「俺のも登録しておいて。困ったことがあったら、気軽にどうぞ」
 梨緒子は圭太に言われるがまま、もらったデータをそのまま電話帳に登録した。
 これで、番号とアドレスの交換は完了だ。
「それはそうと、梨緒子ちゃんの待ち受けは永瀬じゃないんだ?」
 梨緒子の携帯を覗き込み、圭太は不思議そうにして尋ねてくる。
「そうしたいんだけどね、撮りそこねちゃって……今に至る、みたいな」
「じゃあ、俺がとったヤツあげようか?」
「うそ、成沢くん、秀平くんの写真持ってるの?」
「こんなのとか、どう? あと……こういうのとか」
 梨緒子は向かい側から必死になって、圭太の携帯の画面を覗き込んだ。
「カッコいい……これ欲しい!」
 二人が額をつき合わせて秀平の写真を選んでいた、ちょうどその時である。

「成沢――」

 頭上から、声が降ってきた。
 一気に、血が逆流していく。
 この声は、この声はよく知っている。

 梨緒子は恐る恐る、声のほうを振り向きざまに見上げた。
 目と目が、しっかりと合う。
 九ヶ月ぶりに目の前に現れたのは、写真ではない――紛れもない、実物の彼だ。
「随分早く終わったんじゃねー? よかった、捜しに行く手間が省けたな」
「……」
 秀平は固まったまま、言葉を発しようとしない。
「たまたま正門のところで会ったんだよ。学食でお茶しただけだから、怒るなよ?」
 圭太は唖然と立ち尽くす秀平を見て、調子よく言い訳をしてみせた。
 そう。
 大勢の人間が出入りするオープンな場所で、顔見知りとお茶で喉を潤しながら雑談することは、圭太にとっては呼吸することと同じ、ごくごく自然なことなのである。
 しかし。
 そうではない人間も、確実に存在するのだ。

 ここにいるはずのない自分の彼女が、自分以外の男と、お互いの携帯を覗き込みながら談笑している――。

 固まってしまった秀平の端整な顔が、そう物語っている。
 現実を直視できないのかもしれない。
 大袈裟にはしゃぐようにして梨緒子の登場に驚くとは、決して思っていなかったが――しかし、秀平のその態度は梨緒子の予想に反して、おそろしく冷ややかなものだった。